第14話 一夜

  暁八雲シャオ・バーユウに支えられながら、陽斗はかろうじてふらつく足取りで厠に行き、手洗い場のような場所で顔を洗い口を濯いで戻って来ることができた。歯磨きができないのは仕方ないものの、幾らかさっぱりして若干酔いも醒めたような気がする。身体を拭くための手ぬぐいを濡らして硬く絞ったものを持ち、それでも暁八雲シャオ・バーユウの体温が居心地よく、ぴたりと寄り添うように客室へと戻る。

「ほら…しっかり歩け」

「んぁ…ごめん」

 再び客室に戻った二人は、沓を脱いで雪崩れ込むように空いた寝台へと座り込む。そのまま暁八雲の体に寄り掛かってしまいそうになり、すぐに陽斗は起き上がって白福の寝ている寝台に向かった。しかし彼は居心地良さそうに大の字で爆睡しており、寝台の隅に寄せようとしたがすぐ寝相が悪くなってしまう。行燈の薄明りが恐怖を和らげたのだろう、遠雷くらいでは起きることなく、すっかり慣れたようだ。

白福バイフー寝相悪すぎだろ…」

「まぁ…猫だからな…」

「はは、違いない…雷で恐い思いしていなければいいよ」

 何かをつまみ食いしている夢でも見ているのか、むにゃむにゃと口元が動いて嬉しそうな表情をしている。陽斗は苦笑しつつ、薄い掛け布団のようなものを被せてやり、彼とは同じ寝台で寝ることを諦めた。寝ている最中に蹴ったり蹴られたりするのを回避するために様々な策を考えたが、どれもピンと来なかった。暁八雲シャオ・バーユウは着ている長衣を脱いで寝巻のような薄着に着替えると、簪で頭頂部に纏めていた髪を解いて後頭部に下ろしていた。

「…陽斗、こちらの寝台で寝るか」

「え?」

「言っただろう、おれは何処でだって眠れると」

「…なら、俺が壁際に寄るからシャオさんは反対側で寝なよ。俺だって言ったじゃん、疲れが取れないからシャオさんもここで寝るべきだ」

「なっ…こんな狭い場所にか」

「…別に男同士なんだから、そんなに気にすることないだろ?俺は友達と雑魚寝なんてしょっちゅうだった。狭くても平気だ」

 陽斗は天陽龍テン・ヤンロンが着ているものを殆ど脱いで、腹部に巻いていた包帯を外した。傷口はすっかり塞がれ、傷痕を突いても痛みが殆どないことに驚きつつ、その箇所を持ってきた手ぬぐいで綺麗に拭き上げる。上半身を幾分か綺麗にしてから、天陽龍テン・ヤンロンの髪を纏めていた髪紐を解き、持ってきた夜着に着替える。暁八雲シャオ・バーユウが端に腰掛けている寝台の反対側に座り、寝台の奥側にある壁に向かい合ってごろんと横になった。

「…行燈の火、消してくれよ…暁月シャオユエ

「……ああ」

 陽斗の背中越しに掠れた声で言葉を返すと、暁八雲シャオ・バーユウが寝台から立ち上がって行燈の灯りを消す気配がした。辺りは闇に包まれ、すぐに眠気がやって来るが背後に彼の気配を感じると、どうしても気になってしまう。

「…やっぱりシャオさんの方がしっくりくるなぁ…」

「何が」

「…あんたと親しくなりたいけど、こう…一線を超えたらいけない気がするんだよ。天陽龍テン・ヤンロンに悪いなって気持ちが先に来ちゃってさ」

「そんなことを気にしていたのか?お前の言う、一線とは何だ」

「字で呼ぶの、限られた人だけなんだろ。親友とか、親とか…伴侶とか」

「既にお前もそのうちの一人だが」

「俺もいつかそうなれたら良いなって……え?」

「…いいから寝ろ」

 陽斗は暁八雲シャオ・バーユウの言葉に驚愕して、自分の口を両手で抑えた。叫び出しそうになったがかろうじて留まり、鼻で息を大きく吸う。まさかこちらの時代で出会って間もない仙人の暁八雲シャオ・バーユウと親友になれたのかと思うと、嬉しいような恐れ多いようなこそばゆさがあった。

「ちょっ…今のは…あ…そうだな、白福バイフー起こしちゃ駄目だよな…」

 寝返りを打つ衣擦れの音がして、陽斗は強く両目を瞑った。すると背中に手の平のような大きさのものが触れ、次第に全身が温かくなってくる。

「…ん…なんだこれ…あったかい」

天原テンユェンの霊脈を活性化している。これで明日は二日酔いにならなくて済むはずだ」

「へぇ、そんなことまでできるんだね?さすが仙人!」

「…強い酒をあんな風に飲む奴を初めて見た」

「俺もあんなに強くて美味くない酒は初めて飲んだ。…匂いは良かったけど、強すぎだ」

「おまえは普段どんな酒を飲んでるんだ?」

「チューハイとかかなぁ。焼酎って酒を水とか果汁で割って飲むんだ。にほ…じゃなくて東瀛で造る酒、いつかシャオさんも飲んでみて欲しい。口に合うといいんだけど…」

「ああ……いずれその日がくるのを楽しみにしている」

「うん…その時はまた、一緒に…付き合ってくれ…」

 次第に陽斗の声と意識が弱々しくなり、寝息が聞こえてくると横向きになっていた体勢が寝返りを打つ。暁八雲シャオ・バーユウの視界の先に見える、暗闇の中でも忘れない天陽龍テン・ヤンロンの表情は、幾多の戦場を共にくぐりぬけた精悍な道士ではなかった。世間知らずであどけない、この時代では見たことのない穏やかな青年の顔立ちだ。仙人や妖魔との戦いなど、経験したことがないだろう。

(…青天目陽斗なばためはると…これがおまえの素顔なんだな)

 傷ひとつない彼の頬に指先で触れ、食い入るように見つめる。彼を護ることで天陽龍テン・ヤンロンの血族を後世に繋ぐことになるならば、自分のことはどうなってもいいとでも考えていそうな表情だった。

 しかしその顔は闇に紛れ、誰にも見られることはなく時間だけが過ぎていく。いつの間にか暁八雲シャオ・バーユウも眠りについていた。


   ×   ×


 寝息のような、穏やかな呼吸音が途切れ途切れに聞こえていた。

 楽しい、と思っていた今までの道程が、霞んで消えてゆくのがわかる。

 やけに息が苦しくなっているのは、自分が息をするのを躊躇していたから。過呼吸になるでもなく、心臓が痛い位に早鐘を打っている。

「なん、で…」

 どうしてこうなったのかが分からない。しかし、自分は悲しいくらい非力なのが分かる。

 ようやく陽斗たちが辿り着いた崑崙山で待ち受けていたもの。それはおびただしい妖魔と、数え切れない亡霊の群れだった。

 先程まで笑いながら歩いていた。山道の険しさを痛感したものの、しかし天陽龍テン・ヤンロンの肉体は衰えていなかった筈だ。あまりにも突然のことで、目の前の出来事がスローモーション送りにしたドラマのようにゆっくりと、確実に陽斗の視界を蝕んだ。陽斗は自分の腕の中で、命の灯火を微かに弱めてゆく彼を空虚な眼差しで見つめる。あやかし共の狂気に深々と貫かれた腹部、そこから溢れる紅は陽斗の両手を暁に染め、拭おうとしてもすぐに落ちることがない。

 微かに唇を動かし、何かを伝えようとしている暁八雲シャオ・バーユウを目の前にして呆然としゃがみ込んでいると、その身体の主である天陽龍テン・ヤンロンの嗄れた声が陽斗の脳裏に突き刺さる。

『貴様にその名を封ずる覚悟はあるか、青天目陽斗なばためはると

「なんのことだよ……なんで…シャオさんがこんな目に…なんで俺はこんな光景を見せられてるんだ?訳が分からない!」

『…言いたいことはそれだけか』

「俺に何をしろって言うんだよ!俺は…あんたみたいに強くなれない…」

『…容易く折れてしまうおまえに用は無い。代われ』

 無理やり弾き出されたように遠のいていく意識の中で、自分ではない彼が何かを言っている。


【天……霊…名を……せ】


 途切れ途切れに聞こえるその言葉は、何処か悲しげな音が込められていた。何故自分がこんな目に合わなければならないのだと、陽斗は半ば怒り任せにその名を叫ぶ。

「しっかりしろ!暁八雲シャオ・バーユウ!目をさませ!」

「っ…?」


 室内に大きな声が轟き、沈黙の後、エアコンの駆動音が低く唸るような音を立てていることに後になって気が付く。

 

 そこは、陽斗と赤月八雲が初めて言葉を交わしたあのビジネスホテルだった。

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