log:001 / 月夜の想至、羽音は朝日へ


『ワタシ、そンざいすルの、こノせカイに。わタシのしメイダから。ソれガ』 

            @.A : Mind Signal


 あの研究棟にある一室を離れて、どれくらいの月日が流れたのだろう。


 深く皺の刻まれた手から関節の曲がった人差し指を伸ばして、月上ユンは目の前に浮かぶホロディスプレイのキーに触れた。


《プロフェッサー月上。ご用件はなんでしょう》


 部屋に設置されたヴォーカル・インターフェイスから声が響いた。しかし、音源の特定ができないほど音は均質に広がり、空間そのもので語りかけてくるようだった。なにより、よく耳に通る。

 

 そうだろう、AIDA(エイダ)の合成音声は、聴力の落ちたユンの耳にはっきり届くよう、周波数帯は最適化されていた。


「……ああ」

 

 ユンは掠れた声で応え、宙に投影されたキーからゆっくりと指をおろした。ずいぶんと、ホロディスプレイのキー操作が億劫になったものだ。


「AIDA……」


《プロフェッサー月上、ご用件は把握しています。現在『@.A』の構築プロセスは安定状態を維持しています》


「そうか……」


 ユンはAIDAの報告を聞くと、椅子から身体を起こした。マホガニー製のゆったりとした肘掛け椅子。オールドスタイルで造られた椅子の木肌は、長年使い込まれた艶を宿していた。


 時間をかけて立ち上がったユンは、半歩分だけ脚を出し、また半歩分だけ逆の脚を出す。

 

まったく……思わず苦笑いが口元に浮かぶ。


 動体補助デバイスは部屋の隅に置きっぱなしだ。ユンは自力だけの覚束ない足取りで寝室を進んだ。向かう先にあるカーテンの隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。


 最後に月を見上げたのはいつだったか。研究室に通い詰める日々に、夜空を見上げる余裕などなかった。


 悔いているのか? ユンは胸の内にこぼした。


 ──いや、これでいい。


 そして、また小さく踏み出した。差し込む月明かりが目を撫でる。瞼を細めた瞬間、不意に思い出の中の光が輪郭を定めた。

 

* * *


『あら。えっと、あなたは』


『……月上ユンです』


 息が詰まりそうになりながら、僕は小さな声で応えた。その時、後ろの方から、からかうようなクスクス笑いが聞こえた。


 ここは、僕のいる場所じゃない。いや、ここも僕のいる場所じゃないんだ。ユン少年の脳裏に浮かんだのは、眉根に皺を寄せたおばさんの顔だった──

  

『ほら、お前は今日から小学生だ。学校の場所は分かるだろう? 早く行っといで! 』


 おばさんはそう言うと、ひどく形崩れした黒革のリュックを足元に投げた。ユンはそれを拾い、両肩に背負った。


 そうだ。今日から僕は、あの建物に行くんだ。コンクリートでできた、大きくて四角い建物。いつも、お使いの途中でその建物の前を通っていた。たくさんの子供たちが駆け回っていた場所。


 あそこは『学校』という場所だとおばさんから教わったのは、ほんの数日前のことだ。僕はいまから、そこに向かう。


 鼻緒を直したばかりのサンダルを足指に引っ掛け、ユンは玄関を出た。

 朝の光が、おでこにくすぐったいほど眩しい。


 今日はここに居なくてもいい、それが嬉しかった。どこか他の場所へ行けるのだ、それだけで胸の奥が軽くなった。おばさんのお使いじゃない。僕は僕のために、行くべき場所に歩く。


 空を見上げる。


 ブン──


 空気をはらんだ音が耳を掠めた。ユンの見上げる空に、一匹のトンボが光を散らして飛んでいった──



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