80年後に君はボクの名を呼ぶ ― Remember, Call Me
緋前 寿洸
log:000 / 時の先への祈り
「月上(ツキガミ)、もう今日はその辺でいいんじゃないか?」
「なぜ? 休息なんて必要じゃない」
ラボグロウンコーヒーの匂いが染みついた研究棟の一室。壁一面に設置されたデータパネルには、感情曲線を示す青い光が蛇行するように点滅している。
薄暗い研究室には、ホロディスプレイに向かい続ける月上ユンの背中が揺れていた。彼はもう何時間も、空中に浮かぶウィンドウをスライドし回転させ、拡大と縮小を繰り返している。
微かに震えるユンの背中を、同僚は視線で小突いた。
「教授も言ってただろう。信条は疲れない、疲れるのは網膜だって」
宙空に点滅する画面のファイルを二本指でタップしながら、ユンは背後から聞こえる同僚の声に応えた。
「僕は、その冗談を笑えなかった」
ユンの短い言葉の後には、コアユニットの動作音だけが静かに広がった。
「……そうかい。じゃあ網膜は潰すなよ。お先に」
網膜など気にするものか。僕は、この耳で聴かなければならないものがある。
こめかみを汗が滴となって流れた。不快さとくすぐったさが、皮膚の表面を伝う。
空調の人感センサー、メンテナンス不良か?いや、動体予測プログラムの想定以上に、僕の体温が上がっているのか?
……まるで、メンテナンススタッフのぼやきだな。
小さく苦笑すると、ユンは目の前に浮かぶたくさんのホロディスプレイを慎重に見渡した。
これでいい。ここまでは、あらかじめ準備したフローチャート通りに進んでいる。
突然、同僚の言葉が耳の奥に蘇った。
『信条は疲れない、疲れるのは網膜だって』
……教授の冗談、僕はいつも笑えなかった。研究室に生まれる笑い声に、僕はいつも混じれなかった。
「………」
ユンは大きく息を吸い込み、小さく呟いた。
「AIDA(エイダ)、未来に繋げてくれ」
汗ばんだ人差し指で、赤い光に縁取られたホロディスプレイのキーをタップした。
壁一面のデータパネルに点滅する感情曲線が、大きく曲率を変化させる。
ユンは今初めて、この研究室で笑った。
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