第2節:過去の影

ユウは、マジックを始める前の自分をよく覚えていない。岡山県倉敷市にある実家は、ごく普通の家庭だった。父は穏やかで、母は優しかった。兄や姉もいたが、皆、自分よりもずっと社交的で、友達も多かった。

ユウは、そんな家族の中で、まるで透明人間のような存在だった。言葉を発するのが苦手で、人見知り。小学校の帰り道、友達が楽しそうに話している横を、ただ黙って歩く。それが彼の日常だった。

ある日、近所の図書館で一冊の本に出会った。表紙に描かれた、鳩を出すマジシャンの絵。その瞬間に、彼の心は掴まれた。

マジックは、言葉を必要としない。

ただ、指先を動かし、カードを操るだけで、人々は驚き、目を輝かせる。それは、ユウにとって、初めて見つけた「自己表現」の手段だった。

彼は、毎日毎日、本に載っているマジックを独学で練習した。誰も見ていない部屋で、来る日も来る日も、カードをシャッフルし、コインを消す練習を繰り返した。そのたびに、彼の指先は、誰にも真似できないほど正確で、速くなっていった。

中学生になった頃、地元に小さなマジックサークルがあることを知った。勇気を振り絞って見学に行った日、彼は、そこで生涯の師匠となる人物と出会った。

師匠は、ユウの技術を一目見て微笑んだ。

「君の指先は、神様が宿っているようだ」

そう言われた時、ユウは初めて、自分の才能を褒められたような気がした。

師匠のもとで、ユウはマジックの技術をさらに磨いた。しかし、同時に、ユウが持っていない特別な才能を持った仲間たちにも出会った。

一番弟子であるカイ。彼は、マジックの技術もさることながら、観客を惹きつけるカリスマ性を持っていた。舞台に立つだけで、場の空気を一変させる力。それは、ユウがどんなに努力しても手に入らないものだった。

もう一人の弟子、リョウ。彼は、観客と心を通わせるのが天才的にうまかった。マジックの合間に挟むジョークや、観客とのやりとり。それは、ユウの無口なマジックとは真逆のものだった。

そして、工房で仕掛けの製作をしていたタクミ。寡黙で職人気質の彼は、どんな複雑なイリュージョンの仕掛けも、完璧に具現化させる技術を持っていた。

ユウは、彼らと切磋琢磨することで、技術はさらに磨かれた。しかし、彼の内気な性格は変わらなかった。人前でのパフォーマンスに苦手意識を持つことは、変わらなかった。

師匠は、いつも言っていた。

「マジックは、技術だけじゃダメだ。魂がなきゃダメだ」

ユウは、その言葉の意味を理解しようと努力したが、答えは見つからなかった。

そして、その言葉が、ユウの心に深い傷を残す出来事が起きた。

それは、人生で一番大きな舞台だった。完璧な準備をして臨んだイリュージョンマジック。それは、師匠がかつて失敗した、伝説のイリュージョンだった。

ユウは、技術的には完璧だった。しかし、本番直前に予期せぬトラブルが発生し、彼のマジックは失敗に終わった。観客のざわめき、師匠の失望した視線。ユウは、完璧なマジックを追い求めるあまり、他人との協力を拒んだ。その結果、彼のマジックは、誰も助けてくれることのない、孤独なものになった。

それから数年。

ユウは、大阪の路地裏にあるバーで、ただの冴えないマジシャンとして、日々を過ごしていた。彼のマジックは、技術的には完璧なままだったが、そこには何もなかった。心を揺さぶる「魔法」は、そこにはなかった。

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