第7話 青龍

 それから二日後の七日の朝、家茂の参内随行を理由に雪之丞は朝稽古を辞退した。

 一人早い朝餉を取って早々に二条城へと向かい、青龍に手伝ってもらって再び束帯の衣装をまとう。二度目なので少しだけ慣れた気がした。

 準備と会議が終わり、御所へ向かって行列が出発する。家茂のかごの後に、同じ束帯姿の大名たちが続いた。

 二条城と御所は近い。堀川通を北上したすぐの丸太町通を右に進むと、もう御所の木々が目に入る。御所の周りには宮家や近衛このえ、一条や九条などの公卿くげの邸宅が建ち並んでいた。しばらく進むと内裏だいりへの門の中で一番格式の高い建礼門が見えてきた。ここを使えるのは、将軍である家茂だけだ。雪之丞たちは公卿たちが普段使用する、宜秋門ぎしゅうもんから内裏へと入った。

 まずは孝明天皇の拝謁のため家茂と家茂の後見人一橋慶喜、そして諸大名たちが紫宸殿ししんでんへと向かう。さすがに雪之丞は最後列へと回った。

『雪之丞、席次に気が付きましたか』

 隣に律儀にも座した青龍が雪之丞へ言う。さすがに場が場だけに、雪之丞は視線で返した。

――席次?

『ええ。家茂様の席次が関白、左大臣、右大臣の次です。これではまるで朝廷が幕府より上ではないですか』

 本来なら家茂は関白より前であるはず。幕府の衰退がこんな所でも露見していた。

 孝明天皇が入室し、部屋の者が一斉に畳にひれ伏した。雪之丞も最後尾でそれにならうが、青龍も神籍ながら雪之丞に合わせるように頭を下げた。そして雪之丞の耳元で、

『晴芳様も部屋に入られました』

と言った。天皇と一緒に入ってくるということは、かなりの特別待遇だ。

 その後、粛々と孝明天皇のお言葉が発せられた。お言葉のはしはしに、朝廷の方が立場は上であることが感じ取れた。鎖国攘夷じょういの話も何度も出てきては、家茂に攘夷を迫った。最後には家茂に勅書ちょくしょが下り、幕府の存在こそ保たれたものの、場合によっては天皇が直接諸藩に指示を出すことを通告されてしまった。政に疎い雪之丞ですら数々の屈辱に唇を噛んだのだから、諸大名たちはどんな気持ちでこの場に座していただろうか。

 そんな拝謁は、実に夜中近くにまで達したのだった。

 その後、天皇と家茂との義兄弟(家茂の妻和宮かずのみやは孝明天皇の義妹である)の対談があり、家茂の退出まで雪之丞たちは紫宸殿の控室で待機することになった。

「晴芳様は天皇の御付きということで、まだ中にいるのだろうか」

 せっかくなので、この機会に挨拶を済ませたい。

『ちょっくら見て来るよ』

 早速偵察隊長の朱雀が控室を出ようとすると、

「神籍とはいえ、それは無礼というもの」

と束帯姿の人間が雪之丞の前に現れた。歳は五十路近くと見られる白髪頭で、豊かな顎ひげを貯えていた。ゆったりとした束帯ではあるが、かなり恰幅は良いと見える。顔も丸顔で愛嬌があるが、その眼は輪郭に相対して鋭かった。

『晴芳様です』

 青龍が後ろからささやいた。

「失礼いたしました」

「式神のしつけは、きちんとしていただかないと困りますな」

と、晴芳が言いながら四獣の三人を睨みつけた。このやり取りだけでも、この男は雪之丞に対して快く思っていないことが手に取るようにわかる。下手に返せば、余計こじれることは目に見えている。だが。

「お言葉を返すようですが、彼らは式神ではありません。自らの意志を持った神将でございます」

 式神は陰陽師が使役する使いのことで、陰陽師の命令で任務を遂行する。式神は陰陽師の命令で動くのであって、本人たちの意志で行動する四獣とは異なるものと雪之丞は思っている。それだけは、どうしても訂正したかった。

『雪之丞』

 たしなめるような声で言う、青龍の片目の翡翠の瞳は複雑に揺れていた。一方の朱雀と白虎は、自らの意志で雪之丞を護っているという自尊心にあふれた瞳をして堂々としている。

「なるほど」

 晴芳はそれぞれの態度の四獣を見て、何やら思うところがあるようだった。

「そういえば」

 一瞬、晴芳の口元がにやりと口角が上がったのを、雪之丞は見逃さなかった。嫌な予感がする。

「一人見当たらないようだが」

 雪之丞の弱点を知っているかのように、さらに続ける。

「あれの行動も貴殿の命令ではなく、本人の意志ということですかな」

 玄武は京にいた。玄武の挙動は、晴芳の方が知っているに違いない。玄武のことを訪ねたい気持ちでいっぱいになるが、今聞くのは危険だとぐっと堪える。下手に答えると形勢不利になりかねない。適切な言葉を慎重に選んでいると、

『あれは雪之丞と意見の食い違いがあってのう、一昨年に破門になっておる』

と、いつの間にか人形となった白梅が、いつものようにふわふわとした足取りで晴芳と雪之丞の間に割り込んだ。相変わらず白梅は自由である。

『だからわらわらは、あれが何をしているかはあずかり知らぬ。そうよな、雪之丞』

 白梅はくるりと晴芳に背を向け、雪之丞に向かって言った。その赤い瞳はこの場は任せろと言っていた。ならば白梅にゆだねよう。

「この者の言う通りです」

 しばらく沈黙が続いた。晴芳の鋭い目が雪之丞をとらえていたが、その目は白梅に向かった。

「ところで貴殿は何者かね」

 平安時代の稚児の姿、白い肌白い髪、赤い瞳に額にはバンの赤い印。ただ者ではないのは見て分かる。晴芳も少し警戒気味だ。

『昔むかし、わらわは晴明の太刀たちだったのじゃが、最近磨すり上げられて小さくなってこの姿じゃ』

 晴明の太刀。白梅の衝撃的な告白に、驚いて声を上げそうになるのを何とか堪える。どうりで平安時代の稚児の姿なわけだ。本当に平安時代の刀だったのだ。しかしそんな貴重な刀を磨上げてしまっていいのだろうか、と今更ながら雪之丞は心配になってくる。

『白梅は、武家陰陽師の土御門家に代々伝わる家宝です』

 後ろから青龍がしれっと言う。しれっと言っておきながら、しっかりと武家陰陽師の土御門家も安倍晴明の子孫であることを晴芳に知らしめる。抜け目のない男だ。

「ほぅ」

 晴芳の瞳がすっと鋭くなる。何を考えているのか読めない瞳に、雪之丞は少し恐怖を覚えた。だが、その瞳はすぐに元に戻る。

「土御門の血が流れているのなら、問題なく修行の地に入れるだろう。場所は晴明屋敷の跡地だ。行幸ぎょうこう後から行くといい」

 先ほどからの敵意があった声色から、少し変化があった。白梅の、晴明の刀の存在がそうさせたのだろうか。そして、問題なく入れるとはどういうことだろうか。雪之丞は疑問に思いながらも、行幸後に行く旨を伝えて晴芳と別れた。


 その後は、夜も更けていたので前川邸には戻らず二条城に泊った。十一日の行幸の段取りなどをつけていると、すっかり日が傾き始めていた。そんな二条城から前川邸に戻る道すがら、ずっと気になっていたことを青龍に尋ねる。

「青龍、お前白梅のこと知っていたのか」

『はい。晴家から聞いておりました』

『俺は知らなかったぞ』

『俺もだ』

と朱雀と白虎が口々に言う。これで青龍が、朱雀たちとは立ち位置が違うことがはっきり認識できた。やはり青龍は晴家が召喚した四獣だろう。

「そんな大切な家宝を磨上げるというのは、どういうことなんだ」

 磨上げ自体は珍しいことではない。しかし晴明の太刀となると、実用としてではなくそれこそ代々続いた大事な家宝として飾るなり、宝物庫に保管するなりしてしかるべきものだろう。

『あちこちガタがきていてのう、わらわが晴家に頼んで磨上げてもらったんじゃよ』

 白梅が腰をとんとんと叩くしぐさをする。確かに千年近くも経てば、手入れをきちんとしなければ刀はすぐに傷んでくる。それにしても、太刀を短刀に磨上げるのは極端すぎる気がした。白梅が雪之丞の意を汲んで、

『小さい方が携帯しやすいじゃろ。わらわも身軽でよいわ』

と言った。確かに浄化の刀である白梅は、短刀の方が携帯しやすいし扱いやすい。その辺を考慮されての磨上げとなると、かなり雪之丞に合わせた仕様ということになる。この件に関しては、いつか父晴家を問い詰めようと思った。


 雪之丞は着替えると夕暮れの縁側へ回った。そこでは土方と山南が囲碁を打ち、その横では沖田と齋藤が並んで刀の手入れをしている。何とも平和な光景だった。

「雪之丞くん、お勤めご苦労様」

 雪之丞の姿を見つけると、山南が先に声をかけてくる。土方が碁盤から目を離さずに、「今夜、島原に呑みに行くがお前も来るか」と尋ねた。

「今日は遠慮しておきます」

 正直そんな気分ではない。幕府の立場を目の当たりにした上、晴芳との緊張の対面で神経がすり減っていた。頭を冷やすためにも、体を拭いてすっきりしたくて庭の井戸に向かった。

 裏庭の井戸でさっぱりした気分になっている雪之丞に、斎藤が声を掛けてくる。

「今晩、銀の狼の聞き込みに行かないか」

 先日頼まれた銀の狼の目撃情報を得るため、雑鬼たちへ聞き込みを提案してくる。齋藤も宴会を回避したいらしい。雪之丞はついでに玄武の情報も得ようと思い、二つ返事で齋藤の案に乗った。何より齋藤がいれば、玄武の人相説明が不要になって手っ取り早い。

 やがて陽が落ち、京の町が宵闇に包まれる。旅籠の灯りがぽつりぽつりと灯る四条通で夕餉を済ませると、雪之丞と齋藤はそのまま鴨川方向へと向かった。今日は上空に朱雀、先行に白虎と後方が青龍という警護体制だ。

「齋藤さんは何故、試衛館を去ったんですか」

 ふと土方が言っていたことを思い出して、雪之丞が聞いた。齋藤は前を向いたまま、「迷惑をかけたくなかった」と言った。迷惑とは、と思っていると、

「人を殺した」

と齋藤がぽつりとつぶやく。まるで玄武が言ったように思えてぎくりとする。

「土方さんは戻ってくると信じていました」

 何と言っていいのかわからず、雪之丞は土方の名を出した。齋藤の歩が一瞬止まって、また何ごとも無かったように歩き出す。

「あの人は。土方さんは、そういうお方だ」

「わかります。土方さんは、不思議と付いていきたくなる人です」

「ああ、そうだな」

 それきり会話は途切れたが、互いが土方に信頼を寄せているということが確認できた。見鬼であるという他に共通点が見つかって、互いの距離がさらに縮まった気がした。

 時はまだの刻(夜八時)、物の怪もまだ本格的に活動する時間ではない。四条通から外れた灯りの少ない通りを選んで、雪之丞と斎藤、そして四獣たちは雑鬼を探しては銀の狼の話を聞いて歩いた。雪之丞は、そのついでに斎藤を示し、似ている男を見なかったか聞いて回る。一刻(二時間)も過ぎるとさすがに灯りが減っていき、町が暗闇に包まれた。

 銀の狼はやはり満月の夜に目撃されており、出没場所は神出鬼没で特定には至らなかった。それ以上の情報はなかったが、玄武の情報は収穫があった。まず容姿が変わっていた。結んでいた髪は下ろしており、黒曜石の瞳は月のような金色をしていた。服も見たことのない異国の服を着ているという。こちらも居場所までは特定に至らず、銀の狼同様に手あたり次第探すしかなかった。

 そろそろ子の刻(午前零時)となり、引き上げようと四条通を前川邸へと向けて歩いていた時だ。上空の朱雀が屋根の上に止まったのを見て、白虎が左腕を水平に上げて静止を告げた。雪之丞も歩を止め、斎藤もそれにならった。屋根の上の朱雀の様子見を白虎に任せ、二人は白虎が見える物陰に隠れた。青龍は二人が隠れた物陰の近くの建物の屋根に上がり、二人を襲う者がいないか上から警戒をする。この辺の四獣の連携は見事なものだ。

『どうやら、先日の天神が怪しい男と密会をしているようですね』

「先日の天神というと、小藤のことか」

 呪いたい相手がいる、そう言った天神だ。怪しい男は呪いたい相手なのだろうか。しばらくすると、屋根にいた朱雀が上空へ舞い上がった。

『朱雀が男の後を追うようです』

 青龍はそう言うと、四獣の形態になって上空に上がった。朱雀の代わりに上空から警護をするためだ。白虎は安全を確認して、出てきても良いと合図を送ってくる。四条の広い通りに出て、雪之丞は朱雀の姿を探した。わずかな月明かりに、朱雀が北の方角へ飛んでいくのが見えた。

「あの方角は…」

 覚えたての京の地図を思い出す。それは先日参内した御所の方角だった。

 前川邸に戻ると、屋敷の中はしんとしていて、まだ誰も角屋から戻っていないのがわかる。雪之丞は齋藤と二人、布団をひいて寝る準備を始めていると、上空から朱雀の羽ばたきが聞こえてきたので縁側に向かう。朱雀はすでに人形に戻って、縁側に座って待っていた。

『男の後を追っていったら、とんでもねぇところに着いちまった』

 朱雀はいつの間にかそっくりさんの口調に似てきたな、と思っている雪之丞をよそに朱雀が報告を続ける。

『あの男は土御門の関係者だった』

「やっぱり」

『何だよ、驚かないのか』

「お前が御所方面に飛んで行ったからな。何となく想像がついた」

 種明かしをすると、『何だ』と言いながら朱雀はさらに続けた。

『その男は、この間角屋にいた小藤って女から、とある公家の男を呪ってくれと頼まれていたぜ』

 朱雀が聞いてきた小藤の話はこうだ。島原に遊びに来たとある公家が小藤を気に入り、来るたびに座敷に呼んでくれていたが、ぷつりと島原に姿を見せなくなった。何度も文を送ったが、なしのつぶて。心配になって人を使って調べさせたら、その公家は祇園の方へ通うようになっており、小藤は捨てられたと気が付いた。次第に何も言わずに去った公家に恨みを抱くようになり、呪いたいと思うまでになる。それでこの間の宴会でたまたま雪之丞に出会い、呪詛を頼むもけんもほろろに断られてしまった。小藤は懲りもせず、別の陰陽師に呪詛を頼んでいたのが先ほどの密会だった。

『ところが、まだその先がある』

 男が晴芳に小藤からの依頼を報告すると、晴芳は「一石二鳥だな」と笑ったのだ。よく朱雀が黙ってたなと雪之丞は思ったが、あえて口にはしなかった。

『あいつら小藤から呪詛の依頼料と、公家からも呪詛払いの金を取るつもりだぜ』

『ようは何もしないということですね』

『ひでぇ話だな』

 青龍の説明に朱雀が吐き捨てる。

「晴芳様には色々裏がありそうだな。修行先でうまく話を聞き出せると良いんだけど…」

と言いながら大きなあくびをした。一晩休んだとはいえ参内で心身ともに疲れた上、さらに聞き込みで歩き回ったこともあり、雪之丞の体力ははそろそろ限界になっていた。

『もう寝ろ。あとは俺たちが探っておいてやる』

 白虎がそう言って雪之丞に寝るよう促した。いつになく頼りがいのある発言をする。よほど晴芳の言葉が引っかかっているのだろう。意志を持って行動するところを見せたい、とやる気を出しているのなら任せようと雪之丞は思った。

「任せた。ただ無茶はするなよ」

 朱雀と白虎は喜んで外へ飛び出していった。そんな二人の後姿を見送りながら、『いつまで続くやら』と青龍が冷ややかに言った。淡々と寝床を整え、雪之丞の着替えを手伝う。

 青龍は晴芳の言葉を特に気にしていないように見える。四獣の中で一番自尊心が高いのは青龍だと思っていたから、雪之丞は少し意外に思った。

『私は』

 雪之丞の着物を畳みながら、青龍は静かに言った。

『晴家、いえ晴家様から命じられてあなたの護衛をしています』

 突然青龍が告白をする。しかし雪之丞が驚かないのを見て、青龍は小さなため息をついた。ずっと隠していた努力は無駄だった、朱雀と白虎とは違う扱いをされていたのかと青龍は少し胸が痛んだ。

『でも、私は私の意志であなたを護っているつもりです』

 青龍はきっぱりと言った。それは紛れもなく、青龍の本音だった。

「わかってるよ、青龍」

 玄武のように、いや玄武よりも、と青龍なりに陰で努力をしていることを知っていた。そこには間違いなく、青龍の意志がある。それは雪之丞も理解していた。だからこそ、晴芳の言葉を気にしていない青龍を意外に思っていたが、そこには「父の命令」で動いていることに対する後ろめたさがあった。それがこの告白の原動力だろう。

「私も、無意識に玄武と比較してしまって悪かった。玄武と張り合う必要はないし、私もお前を玄武の代わりとは思ってない。お前はお前だ。だからこれからも頼んだぞ、青龍」

 今までずっと胸に引っかかっていたことを言えて、雪之丞は少しほっとした。

『雪之丞…』

 青龍の着物を畳む手が止まる。その手に冷たいものが落ちて、青龍はひどく驚き心が乱れたが、雪之丞に悟られないように静かに頭を下げた。

『御意』

 仕える晴家にするように、いや、それ以上の気持ちを込めて雪之丞の言葉を受け取る。雪之丞はそんな青龍を知ってか知らずか、黙ってそのまま布団の中に入った。

 青龍はそれを見届け、途中だった着物を畳んで雪之丞の枕元に置いた。そして一人、弦月が照らす縁側に座り込んで、かき乱された気持ちを整えるように長い息を吐いた。

『まさか私が涙を流すなど。どうしてこんな感情を…』

「認めてもらえて嬉しかったのだろう」

 突然の声に振り向くと齋藤が立っていた。まるで玄武に言われたようで、複雑な気持ちになるが、齋藤の言葉はすとんと青龍の心に落ちた。

『そんな感情は、人の子のものだと思っていたのですが』

「でも、そんな感情も悪くはないだろう」

 まるで自分に言っているかのように、齋藤がぽつりとつぶやくように言った。あまり感情を表に出さない齋藤ではあるが、土方に認められた時はやはり嬉しかったことを思い出した。

『そうだな』

 そう言いながら、青龍はある決意をする。やがて朱雀と白虎が戻ってくると、雪之丞の警護を任せて青龍は漆黒の空へと飛んで行った。


 あくる朝。

「さぁ、朝稽古の時間ですよ」

 沖田の明るい声で、雪之丞は目が覚めた。遅くまで角屋にいた割には元気な声だ。隣を見ると、齋藤の布団はもうきれいに片付いていた。

「行幸も控えてますし、そろそろ修行も始まりますから当分朝稽古は欠席します」

と雪之丞は布団の中でもぞもぞしながら沖田に言う。

「稽古も修行のうちです」

 いやいやいや。陰陽師の修行に木刀を振る必要はどこにもない。

『往生際が悪いですよ』

「青龍まで何言ってるんだ」

 昨夜の殊勝な青龍はどこへ行った。雪之丞は布団の中から恨めしそうに青龍を見上げた。

『昨夜、晴家様のところへ行ってお暇をいただきました』

「はぁ?」

 突然の話に、素っ頓狂な声が出て飛び起きた。

『今日からはあなたの命令で動きます』

「どういうことだ」

『ですから、今日からは遠慮なく言わせていただきます』

「今まで遠慮があったようには見えなかったが? というか、どういうことかまず説明しろ」

「誰と会話しているのかわかりませんが、朝稽古行きますよ」

 青龍との会話に沖田が無理やり割り込んでくる。

「ただ今ものすごーく取り込み中なので、朝稽古は欠席します」

 まだ何か言いたげな沖田を、顔を洗いに井戸から戻ってきた齋藤が引っ張って外に連れ出してくれる。部屋に静寂が戻った。

「どういうことなんだ、青龍」

『言った通りです。今までは晴家様の式神として、晴家様の命令で動いておりましたが、式神契約を破棄して参りましたので、今日からはあなたの式神として働きます』

 いやいや。先ほどの言葉を丁寧にしただけで、根本的な説明になっていない、と青龍と膝をつき合わせて言う。

『あなたを護るというのが目的なら、主が晴家様だろうがあなただろうが変わりはありません。ならば、より私の意志で動けるあなたを主としようと思いまして、晴家様に願い出た次第です』

「父はそれを承諾した、と」

『はい。報告が必要なら、これからは直接あなたに聞くと言っておりました』

 今まで父から色々と聞かれなかったのは、青龍が報告していたからだ。これからは、直に報告を求められるのだろう。それはそれで面倒ではあった。

 雪之丞は一つため息をついて「わかった」と言った。

『ですが、問題が一つ』

 青龍が遠慮がちに言う。先ほどまで遠慮なく物を言っていた青龍が、急に言葉に詰まるので不審に思って片目の翡翠の瞳を見る。

『契約が切れた式神は、そう長く存在することができません』

 式神は本来、召喚されて師従関係の契約を結ぶ。その師従関係が切れた場合、元の神籍に戻らなければならない。晴家との契約が切れた青龍は、もうすぐ神籍に戻ることになる。

「その前に私と契約を結びたい。そういうことか」

『はい。本来なら再召喚するのが一番早いのですが』

 そう言ってまた青龍の言葉が止まる。今度はその意味が理解できた。

「召喚してもお前が来ることはない。そうだな?」

『はい。私はあくまで晴家様が召喚した青龍であり、あなたが新たに召喚する青龍は別の者になるでしょう。例え偶然同じ姿だったとしても、記憶まで引き継がれるとは限りません』

 もう二度と今の青龍とは会えなくなる。それは雪之丞の望むものではないが、既に青龍は父と契約を切ってしまっている。もう時間がない。

「どうすればお前のまま私と契約できる?」

 方法がないのに、青龍が契約を切ってくるわけはない。先ほどまで、自分の意志で動きたいと言っていた言葉に偽りはなかった。ならば方法は必ずあるはずだ。

『形だけの召喚の儀式を行い、あなたの血をもって契約を交わす。この方法ならば可能かと』

 正直、方法は難しいのではないかと雪之丞は思っていたので、思ったより簡単な方法でほっとした。雪之丞は、わかったと言って召喚の準備を始める。

 召喚は陰陽師ごとにやり方が異なる。雪之丞は一歳になる前に、つかまり立ちした式盤から意図せず玄武を召喚した。そのことから朱雀と白虎も、式盤から召喚する方法を取った。今回も同じように、式盤から儀式を行うことにする。

 式盤は、正確には六壬りくじん神課式盤という式占しきせん用の器具である。碁盤のような四角いなつめの木でできた盤に円形の盤が付いていて、その円形の盤を回転させて占うのである。円盤の方には十二天将や干支などが示され、中央には北斗七星が描かれている。四角の盤の方には、占いに必要な文字や記号が書かれている。本来は占いのために使用するものだが、雪之丞は占いはさっぱりなので普段は埃をかぶって隅の方に置かれていた。前回使用したのは、朱雀と白虎を召喚して以来なので五年ほど前になる。

――そういえば朱雀を召喚した時、あいつすごい乱れた恰好でやってきたな。あれは何だったんだろう。

 丁寧にほこりを払い、塩と酒で清めながらふと五年前を思い出す。

「これでよし」

 一通りの準備を終え、召喚の儀式を始める。

 呼び出したい十二天将は四獣の青龍。青龍の文字と自分の生まれた干支と時間、そして今の場所やら必要条件の文字と記号を回転させて合わせる。本来ならそれで式盤に手を置き、印を結べば呼び出したい十二天将が召喚される。しかし既に青龍は存在しているので、召喚されたていを装う必要がある。

「青龍、式盤に乗って」

 言われるがまま青龍が式盤の上に上がると、雪之丞が式盤に手を置いて、「出でよ青龍」と形式的に言った。これで召喚された直後の状態となる。本来なら呼び出した時点で契約が成立する。しかし形式的に呼び出しただけなので、正式な契約の状態にはなっていない。そこで雪之丞の血を青龍に与えることで、正式な契約と同等の契約が結ばれる。

 雪之丞は懐から白梅を取り出した。

「白梅、ごめんね」

と言ってその刃先で人差し指の腹を切る。浄化のための刀なので、本来なら血はご法度だ。

『青龍のためなら構わぬよ』

 刀のまま白梅が言った。 

 赤い血が滴った指先を、雪之丞は青龍に差し出した。

「我を主とせよ」

 青龍はその赤い指先を口に含んだ。一瞬、体に稲妻が走った感覚を覚える。どこか召喚時の感覚に似ていた。

 これで儀式は終わりだ。

「どうだ青龍。何か変化はあるか」

 式盤を片付けながら雪之丞が青龍に問うと、

『変わったことは特に』

と言ったものの、口にこそしなかったが、雪之丞への思いが少し変わったように思えた。命令ではなく、心の底からこの人を護らなければ、という思いが湧き上がってくる。青龍は少しだけ、玄武の気持ちを理解したような気がした。それだけに、今の玄武の気持ちが理解できなかった。何故雪之丞を護らないのか、と。一方で、もし玄武の気持ちが変わらないのであれば、玄武は必ず雪之丞のために動いているに違いない、とも思った。

『玄武。必ず雪之丞の元に戻って来い。それまでは私が雪之丞を護ってみせる』

 白梅を浄化する雪之丞の背に、青龍は固く誓った。



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