第16話 華は散るらむ



 春。屋敷の庭には一本の大きな桜があった。

 枝ぶりは堂々として、満開の花が空を覆い尽くすように咲き乱れている。花びらは時折、風に吹かれて舞い落ち、敷石の上に淡い薄紅の絨毯をつくっていた。


 縁側に座した焔は、静かに茶碗を手にしていた。薄い茶の香りが立ち上り、咳を鎮めるように喉を潤す。

 彼の白い髪が春風に揺れ、赤い瞳が淡い桜色を映すさまは、花そのものよりも儚げに美しかった。


「なあ主! 桜ってのは、こうして腹いっぱい眺めるもんだな!」


 豪快な声とともに、雅が縁側にどかりと座り込む。手には徳利と盃。早くも酒気を帯びた笑みを浮かべ、花びらを掬うように片手を差し出す。


「飲めよ、花も酒も逃げやしねえが、今が一番いい時なんだ!」

「昼間から騒がしい」


 焔はわずかに目を細めた。だがその口調には、いつもの棘よりも柔らかさが混じっていた。


「……花見に浮かれるなど、子どもじみた真似を」


 低い声とともに、暁が縁側の反対側に腰を下ろす。彼女の黒い髪にはすでに花びらがひとひら落ちていて、細い指先で無造作に払い落とした。


「とはいえ……確かに、悪くはありませんね」

「だろ? ほら暁、お前も飲め」

「結構です」

「ほらよ!」

「いらないといっているでしょ」


 さっそく小さな言い合いが始まり、焔は深く息を吐いた。


 花びらがひらひらと三人のあいだを舞い、笑い声とため息とが混ざって、春の空気に溶けていった。





 日は傾き、桜は夕焼けの赤を帯びはじめていた。

 薄桃色だった花びらが朱に染まり、やがて夜の蒼に沈んでいく。移ろう色の中で、三人の影も長く伸び、寄り添うように縁側に並んでいた。


「……静かだな」


 焔がぽつりと零した。


 その声に応えるように、花びらが風に散る。頬に触れた一枚を、雅が不器用な手つきで摘み取った。


「主に似合う色だな」


 思わず出た言葉に、焔は横目で睨んだ。





 夜風が吹き抜け、桜の枝を揺らした。

 ひとひら、またひとひらと花びらが降り注ぎ、縁側に座る三人を包み込む。


「……やれやれ。これでは落ち着いて茶も飲めない」


 暁が袖で花びらを払い落とし、冷ややかに言う。


「贅沢言うなよ。これも春の酒の肴だ」


 雅は笑い、掌に積もった花びらをぱっと宙へ投げた。白い風が舞い、焔の肩や髪に降りかかる。


「……まったく」


 焔は小さくため息をつきながらも、振り払うことなくそのままにしていた。白い髪に桜が映え、まるで花そのものがそこに佇んでいるかのようだった。


 暁は視線を逸らし、僅かに唇を結んだ。見惚れたのだ。


「本当に……厄介な主だわ」

「だから面白ぇんだろ」


 雅が即座に返す。

 二人の火花は相変わらずだ。だが、その真ん中に座る焔が静かに目を閉じると、不思議と争いは声を潜めた。


 しばしの沈黙。

 その静寂を破ったのは、焔の低い呟きだった。


「……退屈は、遠いな」





 花見の席はやがて散じ、暁は「片付けてきます」と言い残して屋敷の中へと姿を消した。

 庭には焔と雅、二人だけが残る。

 灯籠の火はまだ赤々と燃え、夜桜の花びらがひらひらと絶え間なく降り続けていた。


 雅は黙って空を仰いでいたが、やがて不意に言葉を零した。


「……なあ、主」


 焔が振り向く。白い髪が風に揺れ、花びらと重なり合う。


「何だ」


 豪快な雅には似つかわしくない、掠れた声だった。


「本当に……俺でいいのか。俺なんかが隣にいて、迷惑じゃねえかって……時々、思う」


 焔の紅い瞳が揺れた。

 彼はゆっくりと立ち上がり、歩み寄って雅の前に膝をついた。

 白い指が伸び、無骨な頬をそっとなぞる。


「……愚か者」


 小さく吐き捨てるように言う。


 「他に、誰がいる」


 それは長い沈黙の果てに落とされた、焔の答えだった。

 雅の胸が熱くなる。呼吸が乱れ、視界が滲む。


「……主」


 名を呼ぶ声は震えていた。


 焔はためらうことなく顔を寄せ、今度はゆっくりと唇を重ねた。

 奪うのでもなく、試すのでもない。確かめるような、静かな口づけ。

 雅の肩が震え、やがてその腕が焔を強く抱き寄せた。


 白い髪と黒い髪が重なり、夜桜の下で二人の影がひとつになる。

 花びらは雨のように降りしきり、焔の背にも、雅の腕にも、絶え間なく積もっていく。


 唇を離すと、焔はふっと嗤った。


「……宥めただけだ」

「嘘つけ」


 雅は涙を誤魔化すように笑い返す。


「宥めなんかじゃねえ。本気だろ、今のは」


 焔は答えず、ただ花びらを一枚摘み取り、雅の手のひらに置いた。


「なら、そう思っておけ」


 夜風が吹き、桜が一斉に舞った。

 二人の上に降り注ぐ薄紅の嵐は、いつまでも終わらないかのようだった。


 夜桜が風に散る。

 その言葉に、雅は大きく笑い、暁は小さく鼻を鳴らした。


 二人の影は、桜吹雪に覆われるように寄り添い、ゆっくりと夜へ溶け込んでいった。


 ――悪の華、紅に濡れて咲き、散るらむ。

 それでも今宵、退屈はどこにもなかった。


 ◇


 夜はさらに更けていく。

 雅と暁の笑い声は遠くなり、焔は縁側にひとり残った。桜の花びらが肩に降り積もり、冷たい夜風が白い髪を揺らす。


 ――最初は鬱陶しいと思った。

 声が大きく、笑いも喧しい。

 けれど、その声がない夜を想像するのが、いつの間にか苦しくなっていた。


 孤独でいいと信じていた。

 他人の視線も、憐れみも、嫌悪も、すべてどうでもよかった。

 なのに。


 本気で、愛しいと思ってしまった。

 雅も、暁も。

 この手で作り出した式神でありながら、いつしか俺の支えとなった。


 俺は多くを殺し、罪ばかり背負ってきた。

 両親も、この手で葬った。

 双子の弟を、煩わしさに任せて売り払った。


 ――極悪人のはずだ。

 誰にも愛される資格はない。

 そのはずなのに。


 雅は真っすぐに俺を見た。

 暁は冷たく見えても、隣に立つことを選んだ。

 俺がひとりで立っていられない夜、二人が支えてくれた。


 これが「家族」というものかもしれない。

 俺が求め続けながら、諦めていた形。


 ……地獄に堕ちた俺でも。

 この胸に宿った想いだけは、嘘ではない。


 いつか滅ぶと知っている。

 俺が消えれば、あいつらも消える運命。

 だからこそ、どんな手を使っても生き延びる。


 退屈は遠かった。

 そう言って、あの二人が笑えるように。


 それだけが、俺のせめてもの懺悔だ。


 桜は散る。

 花弁は儚く地へ落ちる。

 だが、その一瞬があるから、人は足を止め、美しいと口にする。


 ならば俺も、最後のときまで足掻こう。

 桜の花のように。

 散り際まで、美しく。


 そして、あの二人が笑っていられる限り――

 この命は、たとえ血に焼かれようとも惜しくはない。


 退屈の遠さを抱いたまま、俺は歩む。

 桜吹雪の中で、ただひとり嗤いながら。







《了》




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