第16話 華は散るらむ
春。屋敷の庭には一本の大きな桜があった。
枝ぶりは堂々として、満開の花が空を覆い尽くすように咲き乱れている。花びらは時折、風に吹かれて舞い落ち、敷石の上に淡い薄紅の絨毯をつくっていた。
縁側に座した焔は、静かに茶碗を手にしていた。薄い茶の香りが立ち上り、咳を鎮めるように喉を潤す。
彼の白い髪が春風に揺れ、赤い瞳が淡い桜色を映すさまは、花そのものよりも儚げに美しかった。
「なあ主! 桜ってのは、こうして腹いっぱい眺めるもんだな!」
豪快な声とともに、雅が縁側にどかりと座り込む。手には徳利と盃。早くも酒気を帯びた笑みを浮かべ、花びらを掬うように片手を差し出す。
「飲めよ、花も酒も逃げやしねえが、今が一番いい時なんだ!」
「昼間から騒がしい」
焔はわずかに目を細めた。だがその口調には、いつもの棘よりも柔らかさが混じっていた。
「……花見に浮かれるなど、子どもじみた真似を」
低い声とともに、暁が縁側の反対側に腰を下ろす。彼女の黒い髪にはすでに花びらがひとひら落ちていて、細い指先で無造作に払い落とした。
「とはいえ……確かに、悪くはありませんね」
「だろ? ほら暁、お前も飲め」
「結構です」
「ほらよ!」
「いらないといっているでしょ」
さっそく小さな言い合いが始まり、焔は深く息を吐いた。
花びらがひらひらと三人のあいだを舞い、笑い声とため息とが混ざって、春の空気に溶けていった。
◇
日は傾き、桜は夕焼けの赤を帯びはじめていた。
薄桃色だった花びらが朱に染まり、やがて夜の蒼に沈んでいく。移ろう色の中で、三人の影も長く伸び、寄り添うように縁側に並んでいた。
「……静かだな」
焔がぽつりと零した。
その声に応えるように、花びらが風に散る。頬に触れた一枚を、雅が不器用な手つきで摘み取った。
「主に似合う色だな」
思わず出た言葉に、焔は横目で睨んだ。
◇
夜風が吹き抜け、桜の枝を揺らした。
ひとひら、またひとひらと花びらが降り注ぎ、縁側に座る三人を包み込む。
「……やれやれ。これでは落ち着いて茶も飲めない」
暁が袖で花びらを払い落とし、冷ややかに言う。
「贅沢言うなよ。これも春の酒の肴だ」
雅は笑い、掌に積もった花びらをぱっと宙へ投げた。白い風が舞い、焔の肩や髪に降りかかる。
「……まったく」
焔は小さくため息をつきながらも、振り払うことなくそのままにしていた。白い髪に桜が映え、まるで花そのものがそこに佇んでいるかのようだった。
暁は視線を逸らし、僅かに唇を結んだ。見惚れたのだ。
「本当に……厄介な主だわ」
「だから面白ぇんだろ」
雅が即座に返す。
二人の火花は相変わらずだ。だが、その真ん中に座る焔が静かに目を閉じると、不思議と争いは声を潜めた。
しばしの沈黙。
その静寂を破ったのは、焔の低い呟きだった。
「……退屈は、遠いな」
◇
花見の席はやがて散じ、暁は「片付けてきます」と言い残して屋敷の中へと姿を消した。
庭には焔と雅、二人だけが残る。
灯籠の火はまだ赤々と燃え、夜桜の花びらがひらひらと絶え間なく降り続けていた。
雅は黙って空を仰いでいたが、やがて不意に言葉を零した。
「……なあ、主」
焔が振り向く。白い髪が風に揺れ、花びらと重なり合う。
「何だ」
豪快な雅には似つかわしくない、掠れた声だった。
「本当に……俺でいいのか。俺なんかが隣にいて、迷惑じゃねえかって……時々、思う」
焔の紅い瞳が揺れた。
彼はゆっくりと立ち上がり、歩み寄って雅の前に膝をついた。
白い指が伸び、無骨な頬をそっとなぞる。
「……愚か者」
小さく吐き捨てるように言う。
「他に、誰がいる」
それは長い沈黙の果てに落とされた、焔の答えだった。
雅の胸が熱くなる。呼吸が乱れ、視界が滲む。
「……主」
名を呼ぶ声は震えていた。
焔はためらうことなく顔を寄せ、今度はゆっくりと唇を重ねた。
奪うのでもなく、試すのでもない。確かめるような、静かな口づけ。
雅の肩が震え、やがてその腕が焔を強く抱き寄せた。
白い髪と黒い髪が重なり、夜桜の下で二人の影がひとつになる。
花びらは雨のように降りしきり、焔の背にも、雅の腕にも、絶え間なく積もっていく。
唇を離すと、焔はふっと嗤った。
「……宥めただけだ」
「嘘つけ」
雅は涙を誤魔化すように笑い返す。
「宥めなんかじゃねえ。本気だろ、今のは」
焔は答えず、ただ花びらを一枚摘み取り、雅の手のひらに置いた。
「なら、そう思っておけ」
夜風が吹き、桜が一斉に舞った。
二人の上に降り注ぐ薄紅の嵐は、いつまでも終わらないかのようだった。
夜桜が風に散る。
その言葉に、雅は大きく笑い、暁は小さく鼻を鳴らした。
二人の影は、桜吹雪に覆われるように寄り添い、ゆっくりと夜へ溶け込んでいった。
――悪の華、紅に濡れて咲き、散るらむ。
それでも今宵、退屈はどこにもなかった。
◇
夜はさらに更けていく。
雅と暁の笑い声は遠くなり、焔は縁側にひとり残った。桜の花びらが肩に降り積もり、冷たい夜風が白い髪を揺らす。
――最初は鬱陶しいと思った。
声が大きく、笑いも喧しい。
けれど、その声がない夜を想像するのが、いつの間にか苦しくなっていた。
孤独でいいと信じていた。
他人の視線も、憐れみも、嫌悪も、すべてどうでもよかった。
なのに。
本気で、愛しいと思ってしまった。
雅も、暁も。
この手で作り出した式神でありながら、いつしか俺の支えとなった。
俺は多くを殺し、罪ばかり背負ってきた。
両親も、この手で葬った。
双子の弟を、煩わしさに任せて売り払った。
――極悪人のはずだ。
誰にも愛される資格はない。
そのはずなのに。
雅は真っすぐに俺を見た。
暁は冷たく見えても、隣に立つことを選んだ。
俺がひとりで立っていられない夜、二人が支えてくれた。
これが「家族」というものかもしれない。
俺が求め続けながら、諦めていた形。
……地獄に堕ちた俺でも。
この胸に宿った想いだけは、嘘ではない。
いつか滅ぶと知っている。
俺が消えれば、あいつらも消える運命。
だからこそ、どんな手を使っても生き延びる。
退屈は遠かった。
そう言って、あの二人が笑えるように。
それだけが、俺のせめてもの懺悔だ。
桜は散る。
花弁は儚く地へ落ちる。
だが、その一瞬があるから、人は足を止め、美しいと口にする。
ならば俺も、最後のときまで足掻こう。
桜の花のように。
散り際まで、美しく。
そして、あの二人が笑っていられる限り――
この命は、たとえ血に焼かれようとも惜しくはない。
退屈の遠さを抱いたまま、俺は歩む。
桜吹雪の中で、ただひとり嗤いながら。
《了》
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