45話
「とりあえず、婚約したよ。」
高島が紺野に報告した。
「嘘でしょ。」
「本当。」
「展開が早いわね。おめでとう。」
「ありがとう。」
「でも彼女は知らないんでしょう?俊輔の事を。」
「僕の事は知ってるよ。」
「そういう事じゃない。」
「僕は僕だ。」
「⋯そう。」
それから数ヶ月後、増渕の姿は都内の産婦人科にあった。緊張した面持ちで、彼女は受付に座っていた。彼女は高島には何も言わずに、ここを訪れていた。
『何時に家に行ったらいい?』
高島から連絡が来た。
『夕方くらいがいいかな。4時くらいでも良い?』
『分かった。4時に行くね。』
彼にメッセージを送ると、彼女は診察室に呼ばれた。
時間は夕方の4時過ぎ。高島はショートケーキの入った袋を持って、増渕の住むアパートにやって来た。
「少し遅れちゃったな。」
部屋の前に立ち、インターホンを押す。増渕がドアを開けて出迎えた。
「いらっしゃい、俊ちゃん。」
「お邪魔します。」
部屋に入ると、高島はすぐに袋を渡した。
「何これ?」
「ショートケーキ、買ってきたよ。」
「あら、ありがとう!冷やしておくね!」
彼女は袋を受け取ると、嬉しそうに、冷蔵庫にそれを閉まった。
「ねえ、俊ちゃん。話があるの。」
「何?」
「大切な話だから、座ってくれる?」
そう言うと、2人はリビングのフローリングに座り込んだ。
「どうしたの、奈々さん。」
「あのね。実はさっきね、産婦人科に行ってきたの。」
「産婦人科?」
その単語に、高島は敏感に反応した。
「うん。」
「それって⋯。」
「ううん。違うの、俊ちゃん。妊娠はしてないの。」
「じゃあどうして?」
「検査しに行ってきたの。ちゃんと妊娠が出来るのか。ホルモン検査とか、子宮検査とか。」
「そんな検査があるんだね。」
「実はね、デキるかなって思ったの。ずっと生でしてるし。」
「それは⋯そうだね。」
「俊ちゃんも、検査を受けて欲しいの。」
増渕が声のトーンを変えて高島に迫った。
「検査?」
「そう。私ね⋯。」
増渕の表情は真剣そのものだった。
「絶対に子供が欲しいの。何が何でも。」
まさか自分がこのような場所に来るとは思わなかった。高島は不妊治療の専門クリニックを受診した。彼女の気持ちに、何としても応えたかった。ただそれだけだった。
増渕は母子家庭という事を知っていた。高島はまだ会ったことはないが、とても優しく思いやりのある母親だと彼女から何度も話を聞いていた。
その母親に何としても孫を見せたい。それが増渕の強い思いだった。
「え?」
数日後の検査結果を聞いて、高島は言葉を失った。
「1度の検査では、正確とは言えません。再度検査してみてはいかがですか?」
担当医の方から説明される。高島は呆然として、再検査を依頼した。
「非閉塞性無精子症⋯。」
高島は検査結果が書かれた紙を増渕に見せた。彼女はただじっと紙を見つめた。
「何回も検査したんだ。間違いないって。」
「だから検査に時間がかかってたの?」
「うん。」
彼女は落ち着いていたが、高島と目を合わせなかった。
「精巣を詳しく調べて、精子を採取出来れば可能性はまだあるよ。」
高島が医師から受けた説明を彼女に話す。
「無理でしょう。」
「何?」
「無理よ。」
検査結果の紙を見たまま、増渕が言葉を発した。
「可能性はほとんど無いって聞いたことがあるわ。」
「それは分からないじゃないか。」
彼女は検査結果が書かれた紙を置き、座っていたイスから立ち上がった。
「奈々さん。落ち着いて。」
「落ち着けないよ、俊ちゃん。落ち着けない。」
奈々がその場をでウロウロと歩く。
「そんな⋯俊ちゃん⋯。」
奈々は明らかに落ち込み、混乱していた。
「落ち着いて考えようよ。」
「私は、子供が欲しいの。」
「分かってるよ。」
「私は32。来年33になる。どんどん可能性が下がっていくの。どんな治療をしたとしても。」
「まだ33歳じゃないか。」
「まだ!?」
「もっと高齢で出産している人だっているじゃないか。諦めるにはまだ早い。早すぎるよ。」
「私じゃない。俊ちゃんの問題でしょ!」
増渕が大声を上げた。高島が見る初めての彼女の表情だった。
「僕の⋯問題⋯。」
「ごめんなさい。別れましょう。」
「何て言った?」
「私達、別れよう、俊ちゃん。」
高島は唖然とした。
「本気じゃないよね?いきなり過ぎるよ。」
「本気よ。子供が出来ないなら、私達一緒にいる意味ない。」
「一緒にいる意味がないだって!?」
高島も立ち上がった。
「僕の事なんかどうでもいいってこと?」
「そうじゃない。でも、子供が出来ないなら私達に未来はない。俊ちゃんはまだ若い。でも、私はそうも言ってられないの。あっという間に40歳になってしまうわ。」
「それは⋯。」
「母も高齢よ。孫の顔を見せて上げたいの。」
「奈々さんは⋯僕の性器にしか興味が無いってこと?」
「ごめんね、そうかも。」
増渕は自分の鞄を持った。
「もう行くね。さようなら、俊ちゃん。」
そう言うと増渕は足早に高島の家を後にした。玄関のドアが開く音だけが、虚しく響いた。
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