File 3:『激撮!カワイイだけじゃダメですか?~スイーツは経費で落ちません!~』
龍巌窟での激闘から一週間。俺、蓮見司は、山のように積まれた報告書の処理に追われていた。あの事件で押収した証拠品の数は膨大で、しばらくはデスクワークから解放されそうにない。
うんざりしながらキーボードを叩いていると、上司である神崎統括官が、これまでで最も薄い、ピンク色のクリアファイルを持ってやってきた。その場違いな色合いに、俺は嫌な予感しかしない。
「お疲れ様、蓮見。次の仕事よ」
「……統括官。まだ龍崎の件が」
「そちらは他の者もいるわ。これは、あなたにしか頼めない類の事件なの」
神崎統括官は、うんざりした顔でファイルをデスクに置いた。
ファイルの表紙にはフリルのついた魔法少女のような衣装で、満面の笑みを浮かべる若い女性の写真が貼られている。活動名は「パティシエール・みかリン」。本名は、雨宮 美華(あまみや みか)。
「彼女が?」
「今、若者に大人気のインフルエンサーよ。ダンジョン『お菓子の森』からの中継配信と、そこに併設したカフェの経営で、莫大な利益を上げているわ。……問題は、その経費」
神崎統括官は、ファイルの二枚目を指で弾いた。そこに並んでいたのは、目を疑うような経費のリストだった。
「戦闘衣装代、動画配信用のメイク代、市場調査名目での高級レストランでの食事代、ペット兼食材であるシュガースライムの育成費……。これら全てが『必要経費』として計上され、結果、納税額はほぼゼロになっている」
俺は、思わずこめかみを押さえた。
神崎統括官は、深いため息と共に呟いた。
「これが計算され尽くした上でやっているなら、相当な知能犯。もし、本気でこれが通ると思っているなら、ただの世間知らず。……どちらなのか、見極めてきなさい」
それは、これまでとは全く異質な、史上最も甘い香りのする事件の始まりだった。
◇
翌日、俺は調査のため、地方都市ニイザとは逆方面の電車に乗っていた。
目的地は、若者たちの流行の発信地、ハラジュク。その一等地に、今回のターゲットであるダンジョン『お菓子の森』はあった。
ゲートをくぐった瞬間、俺はあまりの光景に眩暈を覚えた。
地面は巨大なクッキーで舗装され、道端にはジェリービーンの木々が生い茂り、遠くにはチョコレートの川が流れている。空気は、綿あめのように甘ったるい。周囲には、スマホを構えた若い女性やカップルが溢れ、「カワイイ!」という甲高い声を上げながら自撮りを繰り返している。
龍巌窟の殺伐とした空気とは、何もかもが正反対だった。
ダンジョン内には戦闘区域とは別に、安全に見学できる散策路が設けられている。そこを歩いていると、のっそりと歩くマカロンガメの群れに遭遇した。パステルカラーの甲羅を持つ、なんとも気の抜けるモンスターだ。俺が近づいても、彼らは砂糖でできた草を食むのをやめない。
一通りダンジョン内を見て回った後、俺は併設されたカフェへと向かった。
店内もまた、若い客で満席だった。俺はなんとかカウンター席を確保すると、覚悟を決めて店の看板メニューらしい「撃破!シュークリームオバケのショートケーキ」を注文した。
運ばれてきたのは、可愛らしいオバケの顔が描かれた、完璧な見た目のケーキ。だが俺にはどうにも、そのオバケの顔が悪魔に見える。
正直な所、甘いものは苦手なのだ。無駄に深呼吸をして気合を入れると、恐る恐るケーキをスプーンで口へと運ぶ。ふわりと鼻腔に充満する甘い香り。ええい、ままよ! 俺は内心で呻いた。
――いや、これは……悔しいが、美味い。
甘さの中に、ほのかな塩キャラメルの苦味が効いている。生クリームは軽く一切のくどさがない。それがまたしっとりと柔らかいスポンジと絶妙一体感を生み出している。これは、まぐれで出せる味ではない。雨宮美華は、本物のパティシエとしての才能を持っている。
店内に設置された巨大モニターでは、ちょうど「パティシエール・みかリン」の生配信が流れていた。
『みかリンの必殺!マジカル・ホイップストリーム!これでフィニッシュだよっ☆』
フリフリの衣装に身を包んだ彼女が、泡立て器を模した魔法のステッキを振るうと、おびただしい量の生クリームがモンスターを包み込んでいく。そのあざとさに、俺は再びこめかみを押さえた。
カフェの奥はガラス張りになっており、そこから配信スタジオを兼ねた戦闘区域が見えるようになっている。ガラスの向こう側で、彼女がファンからのコメントに笑顔で手を振っているのが見えた。
なるほど、圧倒的なカリスマだ。下手に正面から踏み込めば、ファンを巻き込んで騒ぎが大きくなる可能性もある。
俺は珍しくケーキを完食すると、静かに席を立った。
まずはただの客として、そして経営者を志すファンとして、彼女に接触を図るとしよう。
◇
後日、俺はファンからの経営相談という名目で雨宮美華本人とのアポイントを取り付けることに成功した。
カフェの奥にある、ファンシーな内装のオフィス。そこに現れた彼女は配信用の衣装ではなく、流行のブランド服に身を包んでいた。
「はじめまして! パティシエール・みかリンこと、雨宮美華です! 蓮見さん、ですよね?」
「は、はい! 甘いものが大好きで、いつも配信見てます! 先日いただいたケーキも、本当に美味しかったです!」
俺は、興奮したファンを演じながら頭を下げる。
――本当は、甘いものは得意じゃない。だが、あのケーキの味は本物だった。そこは調査官として公平に認めざるを得ない。
「それで、カフェの経営について、相談があるって……」
「はい! 俺も、いつか自分のお店を持つのが夢で……。でも、経理とか税金とか、そういうのが難しくて……。特に、何が『経費』になるのか、全然分からなくて」
俺がそう切り出すと、美華は「あー、分かります!」と大きく頷いた。絶好の機会だ。
「例えば、みかリンさんのところだと、モンスターの材料費とか、どう計算してるんですか?」
「材料費ですか? うーん……」
彼女は少し首を傾げた後、満面の笑みで答えた。
「モンスターは、ダンジョンの恵みなんです! だから、原価はゼロなんですよ! 山で採れる山菜と一緒です!」
思わずズッコケそうになった。体勢が崩れそうになったのを即座に咳で誤魔化しながら今の言葉を反芻する。
――ダメだ。もうダメだ。原価計算という概念から、この世に存在していない。
「な、なるほど……。じゃ、じゃあ、あの配信で着ている可愛い衣装は……?」
「もちろん、必要経費です! あれは私の戦闘服で、作業着ですから! あんなに可愛い格好じゃないと、視聴者さんも喜んでくれません!」
――それは衣装代であって、福利厚生費や作業着としては認められん……!
「はは……。じゃあ、ブログによく上がっている、高級レストランでの食事は……」
「あれも、市場調査です! ライバルの味を知らないと、一流のものは作れませんから! 大事な、大事な勉強なんです!」
純粋な瞳。一点の曇りもない笑顔。
……間違いない。彼女は、天才的なパティシエで、そして、天才的なまでに無知だ。そこに悪意は、一切ない。
だが、法は無知を許さない。
俺は、その後も彼女の独創的すぎる経営理論に感心したフリを続け、面談を終えた。
「すごく勉強になりました! ありがとうございます!」
「いえいえ! 蓮見さんの夢、応援してますね!」
オフィスを出る俺を、彼女は笑顔で送り出してくれた。
カフェの喧騒を後にしながら、俺は静かに息を吐く。
任意での事情聴取は、ここまでだ。
次は、本番といくか。俺はスマートフォンを取り出し、神崎統括官に一本のメッセージを送った。
『対象は、クロ。ただし、悪意なし。――これより、正式な税務調査に移行します』
◇
俺はあの後、日を改めて雨宮美華の元を訪れていた。もちろん、ファンで経営者の卵、という建前のままだ。
「――というわけで、ぜひ! モンスターの『仕入れ』の現場を見学させていただけないでしょうか!」
俺が熱意を込めて頭を下げると、美華はキラキラした目で手を叩いた。
「いいですよー! 夢に向かって頑張ってる人、みかリンは全力で応援しますっ!」
あまりに軽いその快諾に、俺は若干の不安を覚えながらも、彼女に連れられて再び『お菓子の森』へと足を踏み入れた。
道中、すれ違う客は皆、美華に気づくと「みかリンだー!」「いつも見てますー!」と歓声を上げる。彼女はその一人一人に笑顔で手を振り返し、その姿はもはやアイドルのようだった。
「はーい、みんなー! あなたのハートにシュガースコール! パティシエール・みかリンだよっ☆ 今日は、みかリンのカフェのお手伝いをしてくれる、未来のオーナーさんと一緒にダンジョン探索していきまーす!」
ダンジョンに入ると、美華は慣れた手つきで小型のドローンを飛ばし、生配信を開始した。俺は「未来のオーナーさん」として、ぎこちない笑顔でカメラに手を振っておく。
探索を始めると、すぐに二人の若い男女が合流してきた。
「みかリン、お疲れー!」
「今日もよろしくねー!」
彼らは、美華の友人らしい。慣れた様子で、彼女の配信機材のセッティングを手伝ったり、モンスターを誘導したりしている。
「わあ、たくさんの方が手伝ってくれてるんですね! みかリンさんは人望が厚いなあ」
俺が感心したように言うと、美華はえっへん、と胸を張った。
「みんな、ボランティアで手伝ってくれてるんです! 私の夢を応援したいって!」
――ボランティア、ね。
俺は笑顔のまま、内心で冷静に分析する。業務の実態として、これは明確な労働力の提供だ。本来であれば、彼らを従業員として雇用し、給与を支払い、源泉徴収を行う義務がある。悪意がないのがまた、厄介だな。
「あ、見てください蓮見さん!マカロンガメですよ!今日のケーキの主役です!」
美華が指差す先には、のっそりと歩くマカロンガメの群れがいた。
「よーし、みかリン、いっきまーす! 必殺!マジカル・ホイップストリーム!」
彼女が泡立て器型のステッキを振るうと粘度の高い生クリームが放たれ、数匹のマカロンガメが動きを封じられる。友人たちが、それを手際よく捕獲用のケージへと回収していった。
そのあまりに手慣れた連携。これが、彼女のビジネスの日常風景か。
俺はこの甘ったるいダンジョンが想像以上に根深い問題を抱えていることを確信し始めていた。
その後も、俺たちの奇妙なダンジョン探索は続いた。
美華は、生配信の視聴者からのリクエストに応えながら、次々とスイーツモンスターを「調理」していく。その手際は見事なものだった。
「わあ、クリームだけ使うんですね! 皮の部分は、何か他に使い道はないんですか?」
俺は、彼女の友人たちがシュークリームオバケからクリームだけを掬い取り、残った皮を無造作にチョコレートの川へ捨てているのを見て、素朴な疑問を口にした。節約家の老人なら卒倒しそうな光景だ。そして俺は別の意味で卒倒しそうだ。景色のすべてが甘ったるい。
「えー? だって、皮はあんまり美味しくないし、可愛くないじゃないですかー」
美華は、悪びれもせずに答える。
「やっぱり、みかリンのケーキは最高に美味しくて可愛くないと! 妥協はダメなんです!」
「そ、そうなんですね……。でも、確か……お店で使う材料って、捨てちゃった部分もちゃんと記録しないと、税金の計算が合わなくなっちゃう、とかって聞いたような……。『棚卸資産評価損』? でしたっけ……」
俺は、自信なさげに、それとなく訂正を試みる。その言葉に、美華はきょとんとした顔を向けた後、ポン、と手を叩いた。
「えー? 難しいことはよく分かりませーん! でも大丈夫ですよ! だって、さっきも言ったみたいに、モンスターは『原価ゼロ』なんですから! ゼロは何したってゼロなんです!数学ですっ!」
――数学ではない。断じて。だが、この太陽のような笑顔の前では、どんな正論も霞んでしまう。俺は、曖昧に笑って引き下がるしかなかった。
そんな俺の内心を知る由もなく、美華は上機嫌で探索を続けていた。
一通り「仕入れ」を終えたところで、彼女は何かを思いついたように、パン、と手を叩いた。
「よし、今日の仕入れはこんなもんかな! あ、そうだ、蓮見さん!」
「はい?」
「せっかくだから、この森の主にご挨拶していきませんか? すっごく大きくて、迫力満点なんですよ!」
彼女が言う「主」とやらに、俺は嫌な予感しかしない。しかし、断れる雰囲気でもなく、俺は曖昧に笑って頷いた。
彼女は友人たちに後片付けを任せると、森のさらに奥へと進んでいく。
しばらくして、彼女に手を引かれてたどり着いたのは森の最奥にある、ひときわ広大な空間だった。
そこはまるで結婚式場の大広間で、壁はマーブル模様のフォンダンで覆われ、ねじれた巨大なキャンディケインが柱として天井を支えている。空気は、むせ返るようなバニラエッセンスの匂いで満ちていた。
その中央。ひときわ巨大なオブジェが鎮座している。
三段重ねの、巨大なウェディングケーキだ。全高は、五メートルを超えるだろうか。不格好に塗りたくられたバタークリームの表面に、最上段には砂糖菓子で作られた、どこか怒っているような表情の新郎新婦の人形が乗っていた。
「ゴーレムさーん! こんにちはー! みかリンですっ!」
美華が、その巨大なケーキに向かって能天気に手を振った。
その声に反応して置物のようにぴたりと制止していたゴーレムが動き始めるが――砂糖菓子だったはずの人形の目が、ぎょろり、と赤い光を宿して俺たちを睨みつける。
ゴゴゴゴゴ……と、地響きのような低い音が鳴り響き、巨大なケーキが、その身を震わせてスポンジの両腕をかち上げた。
「ウエェェディンンンーーーッグ!!」
およそ祝福とは程遠い、地の底から響くような、頭の悪そうな咆哮。それは、自らの縄張りを荒らされたことに対する明確な怒りだった。
巨大なウェディングケーキ・ゴーレムは、その巨体を軋ませながら、俺たちに向かってゆっくりと動き出す。
俺は激昂して襲いかかってくる巨大な砂糖の塊を見上げながら、本日何度目か分からない、深いため息をついた。
「何か怒っちゃったみたいですね。みかリン、いっきまーす!」
美華は少しも怯むことなく、愛用のステッキを巨大なゴーレムへと向けた。
「くらえー! 必殺! マジカル・ホイップストリーム!」
彼女の代名詞とも言える生クリームの魔法が、ゴーレムの足元に命中する。しかし、相手も同じ生クリームの塊。全く効果がない。
「ハッピィィィ・ウェディィィングッ!!」
ゴーレムは陽気な挨拶(のような鬨の声)を上げると、その巨体からおびただしい量のバタークリームを津波のように放出した。くどさを感じる乳製品と暴力的な人工香料の香りの匂いが鼻を突く。
俺は咄嗟に身を翻してそれを避けたが、美華は避けきれずに足元を掬われ、その場に拘束されてしまった。
「きゃー! 足が抜けなーい!」
「み、みかリンがピンチだ!」
友人たちが叫ぶが、粘度の高いバタークリームに行く手を阻まれ、近づけない。
――頭が痛い……。なんだこの甘ったるい匂いは。砂糖の塊に顔を突っ込んだようだ。
美華のケーキは、甘いものが苦手な俺でも素直に美味いと思えた、洗練された自然な甘さだった。だが、こいつは違う。くどくて、雑で、ただひたすらに甘い。存在そのものが、俺の味覚と嗅覚に対する暴力だった。
ゴーレムは、銀色の砂糖玉――アラザンを、散弾のように俺たちめがけて撃ち放つ。壁に当たったアラザンは弾け、むせ返るような粉砂糖の煙幕をあたりに撒き散らした。
「ゲホッ……! ごほっ……!」
息をするだけで、甘い粉が肺に入ってくる。視界も悪い。何より、この圧倒的な甘さで、思考が麻痺しそうだ。
――ダメだ、ここで体術を使えば一瞬だが、彼女たちに全てがバレる。何か……何か偶然を装えるものは……!
ポケットを探り、俺は一つの可能性にたどり着いた。
「蓮見さーん! 頑張ってー!」
バタークリームの中でもがく美華からの、なんとも気の抜けた応援が飛んでくる。
俺は意を決すると、粉砂糖の煙幕の中を、ゴーレムへと向かって走り出した。
「うわっと、足がもつれちゃった!」
俺はゴーレムの巨大なウエハースの足元でこれ以上ないほど派手に転んでみせた。思わず出た説明セリフに加えて下手くそな芝居だったが、正直バレないだろう確信がある。そして転んだ勢いで、懐から小さな袋を取り出してその中身をぶち撒けた。
――口直し用に持ってきた、超すっぱいレモンパウダーだ。
パウダーはキラキラと、ダイヤモンドダストの如く煌めきながらゴーレムに降り注ぐ。わー、きれい! と言った場違いな声が聞こえてきたが、幻聴だ。絶対。
その幻想的な光景の中、ジュワアアアアアッ、と、炭酸が抜けるような激しい音と共にゴーレムが溶けて崩れ去る。悪夢でも見ているのだろうか。砂糖と生クリームの塊であるゴーレムは、強酸性のレモンパウダーに触れたことで凄まじい化学反応を起こしたのだ。
「ハッ、ピィィィ…………ウェディ…………ン…………」
断末魔の叫びと共に、巨大なゴーレムはみるみるうちにその姿を失い、シュワシュワと音を立てながら、甘ったるい匂いの粘液の海へと変わっていった。
「は、蓮見さん、すごいです!」
バタークリームから解放された美華が、目をキラキラさせながら駆け寄ってくる。
「あのゴーレムを倒しちゃうなんて! やっぱり、あなたにはカフェ経営の才能がありますよ!」
俺は、立ち上る甘い湯気で軽くめまいを起こしながら、ただ引きつった笑顔を返すことしかできなかった。
龍崎のオーガの方が、まだマシだった。そしてこれまでのキャリアの中で最も過酷だったこの戦いの中で、ひとつだけ心に決めたことがある。
――もう二度と、ケーキとは戦わん。
◇
翌日。俺は、約束通り雨宮美華のオフィスを訪れた。ファンシーな内装は相変わらずだが、俺の服装は昨日とは違う。一切の無駄を削ぎ落とした、黒のスーツだ。
「蓮見さーん! お待ちしてましたー! それで、ご相談って……」
昨日と同じ、太陽のような笑顔で出迎えてくれた美華。だが、俺の姿を見るなり彼女の言葉は途切れ、その笑顔は困惑へと変わる。
「え……あの……蓮見、さん……?」
俺は何も言わず、彼女の前でゆっくりと野暮ったい丸メガネを外した。そして無造作にかかっていた前髪を片手で一気にかき上げ、寸分の乱れもないオールバックにする。
昨日の甘党青年の面影は、そこにはもうない。さあ、俺の本当の姿に、その権威に、恐怖しろ。
だが、彼女から返ってきた反応は、俺の想定とは百八十度違うものだった。
「え……うそ……。メガネない方が、ぜんぜん、かっこいい……」
ぽっ、と頬を染め、キラキラした瞳で見つめてくる美華。
内ポケットから黒革の手帳を取り出そうとしていた動きを、思わず止めてしまう。
――違う、そうじゃない……! そこは、俺の威圧感に怯える場面だろうが!
コホン、と一つ咳払いをし、俺は仕切り直して、懐から取り出した手帳を開いた。
「国税庁ダンジョン課税 特別捜査官、蓮見司です」
金色の菊花紋が刻まれた身分証を、俺は彼女の目の前に突きつける。
「雨宮美華さん。あなたの事業における、過大な経費計上による所得隠し――すなわち、脱税の嫌疑について、これより税務調査を開始します」
「え……? ぜ、税務調査……? だ、脱税……? な、何かの間違いじゃありませんか!?」
ようやく事態を理解したらしい彼女の言葉に、俺は一切の感情を排した声で告げる。
「まず、これまでの帳簿、及び全ての領収書を提出してください」
「ちょ、帳簿……? えっと、領収書は、この箱に……」
彼女がおずおずと差し出したのは、巨大なピンク色の靴の空き箱。その中には、おびただしい数のレシートや領収書が、ぐちゃぐちゃに詰め込まれていた。
俺は、その箱を無言で受け取ると、彼女のデスクに中身をぶちまけた。
「ひっ……!」
悲鳴を上げる美華を向かいの席に座らせ、そこから、俺によるマンツーマンの「特別税務講習」が始まった。
「まず、このドレス。『戦闘衣装』とありますが、これは経費ではなく、あなたの資産です。複数年にわたり、減価償却で計上する必要があります」
「げ、げんかしょうきゃく……?」
「次に、このレストランの領収書。『市場調査』とありますが、事業との直接的な関連性が不明確です。全額を経費として認めることはできません。認められても、交際費として一部のみでしょう」
「そ、そんなぁ……!」
「それから、このペットフード代ですが……」
俺は、山のような領収書を一枚一枚、冷静に、的確に、そして一切の妥協なく仕分けしていく。
悪意がないことは分かっている。だが、法は無知を許さない。これは、彼女が経営者として負うべき、当然の責任だ。
数時間が経った頃には、あれほど元気だった彼女は、机の上に突っ伏して、魂の抜けたような声でつぶやいていた。
「もうやめて……蓮見さんの正論、もうHPはゼロです……」
俺は、完璧に仕分けられた領収書の山を前に、静かに告げた。
「まだ始まったばかりですよ、雨宮さん。次は、この膨大な申告漏れを元に、正しい納税額を計算し直します」
その言葉に、彼女は小さな悲鳴を上げて、完全に沈黙した。
数時間に及ぶ死闘(主に俺の精神的な)の末、オフィスは完璧に整理された領収書の山と、新しく作成された帳簿データで満たされていた。
対照的に、雨宮美華は、完全に魂が抜けた状態でテーブルに突っ伏している。
「……以上です。これが、あなたが過去三年にわたり申告を漏らしていた所得と、それに対する追徴税額の概算です」
俺が打ち出した一枚の書類を差し出すと、彼女はゾンビのような動きで顔を上げた。そこに記された数字のゼロの多さを見て、ひゅっ、と息を呑む音が聞こえる。
「ただし、悪質な所得隠しとは判断しなかったため、重加算税は見送ります。速やかに修正申告と納税を行ってください」
「は、はい……」
もはや、彼女に反論する気力は残っていなかった。
俺が帰り支度を始めると、彼女はふらつきながらも立ち上がり、深々と頭を下げた。
「蓮見さん……。本当に、ありがとうございました。私、何も知らなくて……もう少しで、犯罪者になるところでした……」
その声は弱々しかったが、心からの感謝がこもっていた。
そして、彼女は一枚の名刺を俺に差し出す。
「私にできることなんて、これくらいしかありませんけど……もし何か、世間に広めたいこととかあったら、いつでも言ってくださいね! 全力で『バズらせ』ますから!」
「……覚えておこう」
俺はその名刺を、静かに受け取った。
俺がオフィスを出ようとすると、彼女は「あ、あの!」と声を上げた。手には、店のロゴが入った可愛らしい小箱が握られている。
「これ、今日の……お詫び、と言いますか……。その……」
俺は一瞬、あの暴力的な甘さの記憶が蘇って顔を引きつらせそうになったが、彼女の真摯な瞳を見て無言でその箱を受け取った。
カフェを出て、すっかり夜の帳が下りたハラジュクの雑踏を歩く。
俺はさっきもらった小箱を開け、中からマカロンを一つ取り出した。ためらいがちに、一口かじる。
――やはり、美味いな。悔しいことに。
サクッとした歯触りの後に広がる、上品で、計算され尽くした甘さ。彼女の才能は、本物だ。
俺は残りのマカロンを口に放り込むと、夜空を見上げて静かに息を吐いた。
「やれやれ。肉弾戦より、こういう方がよっぽど骨が折れる」
(第三話 了)
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