第3話 初帰還、処刑猶予の延長条件――「航路の価格」

 王都の塔が近づくにつれ、海は街の匂いを思い出した。

 おがくず、焼いたパン、油のにおい、そして人のざわめき。

 〈ホワイト・ウェイク〉の舷側を指でなぞると、塩のざらつきの下に、薄く新しい木の肌があった。クォートが夜通し入れた当て板の感触だ。


「入港旗、上げ。監察官の紋章を併記」

 ロザンヌの短い指示に、少年たちが走る。

 王家の紋がはためくと、港湾兵が一斉にこちらを向いた。

 私たちは、王命が書かれた羊皮紙と、湾で採取した証左を抱え、王都の埠頭に舫った。


 最初に甲板を踏んだのは、革靴の音だった。

 港務長が羊皮紙を受け取り、検印。続いて王家使いの若い文官が帳面を繰り、顔を上げた。

「アリアナ・ヴァルロット。命に従い、往還を確認。提出物は……」


「未登録の海藻、貝、潮目の記録、星図の微修正案。灯台の新設提案が一件」

 ロザンヌが淡々と読み上げる。

「王城へ。直ちに」


 埠頭に人だかりができていた。

 『令嬢が船で帰った』『処刑を逃れるために海へ出た』――噂は、港風より速い。

 声が絡まる。驚き、嘲笑、興味。

 私は帽子の庇を下げ、足を止めなかった。人の目に止まるのは構わない。目が足を縛るのは、まっぴらだ。


◇◇◇


 王城の謁見の間は、海より冷たかった。

 石の床は磨かれて、私の影を薄く伸ばす。

 王は玉座に座り、王子レオンハルトは右手に控えていた。聖女セリーヌは軽いヴェールの奥で、まなざしを伏せている。

 私は跪いた。ロザンヌが横に立ち、提出物を台に並べる。

 文官が素早く読み取り、王子の耳に囁く。囁きは冷たい風のように、少しずつ空気の温度を下げた。


「往還は認める」

 王の声は短かった。

「だが、命は一度の往還で清められはしない」


 わかっていた。

 私は顔を上げる。

「条件を、お示しください」


「航路は王のもの。開く者が誰であれ、最終的に王が所有し、民はその恩恵を受ける。それが王国法だ」

 王は視線を少しだけ動かし、王子が一歩前に出た。

「おまえに、第二の往還を命ずる。ただし今回は“価格”を払え」


「価格?」


「航路の価値を、王国に示せ。貨幣でなくてよい。王城、商会、市井――三者が『価値がある』と認める“形”で提出するのだ」


「たとえば?」


「港の相場を動かす新商品。灯台の運用計画。海図の改訂。海賊を遠ざける算段。あるいは、人心を動かす見せ物でもいい」

 王子は、薄く笑った。

「処刑台の代わりに舞台に立つのなら、拍手をもらえるように踊ってみせろ、ということだ」


 私は短く息を吐いた。

 価格――それは、数字に置き換えられるものだけではない。時間、命、信用。

 “何で払うか”を選ぶのは、私だ。


 王の手がわずかに動き、文官がもう一枚の羊皮紙を差し出した。

「王家監察官は継続乗船。併せて、王都商会連合と“価格”の査定会を開く。三日後、王都市場にて」


 三日――笑ってしまいそうになった。

 造船も、訓練も、航路の説得も、生身の人間の呼吸でできている。その呼吸に、三日という制限をかけるというのか。

 だが、顔は笑わない。

 笑うのは、舞台でだけでいい。


「拝命いたします」


◇◇◇


 謁見が解け、石廊下に出ると、湿った風が頬に触れた。

 ユーグが距離を取りつつついてくる。ロザンヌは紙束を腕に抱え、歩幅を崩さない。

 背後から呼び止める声があった。


「アリアナ様」


 振り返ると、聖女セリーヌが立っていた。側仕えの影を従え、自身は相変わらず軽く微笑んでいる。

「お怪我は、ありませんか」


「お気遣いなく」

 私は礼だけ置き、歩き出そうとした。

 彼女の微笑みが少し揺れた。

「わたくしは、あなたに――嫉妬していません」


 足が止まった。

 彼女は淡々と続ける。

「わたくしは“救う”力を与えられたけれど、世界を動かす力は、持っていません。あなたは違う。海を前にして、歩き出せる。……どうか、死なないで」


 綺麗な祈りは、時に刃より痛い。

 私は会釈し、背を向けた。

 祈りよりも、縄の結び目を増やさねばならない。


◇◇◇


 王都商会連合――石畳の広場に面した大屋根の下、数十の商会看板が軒を連ねる。

 査定会の知らせは、もう貼り出されていた。

 『航路価格査定会、王都市場特設舞台にて』

 『査定対象:新航路の市場価値(実物・計画・見せ物いずれも可)』

 周囲で、人々が好き勝手に解説している。

「“見せ物”ってよ。令嬢のダンスでも出すのかね」

「ひやかしでもいい、客が集まれば価値だ。商会は、客を嫌わない」


「三日だ」

 ユーグが呟く。

「間に合わせる」


 私は市場の中央を見回した。

 石畳の上に、四角く組まれた木製舞台。周囲には屋台の骨組み。匂いが渦巻く。焼いた豆、胡椒、干し肉、蜜。

 ――価値は、ここにある。

 人が集まり、金が動き、噂が走る場所。ここで航路の価値を“見える化”しなければ、王城の机は納得しない。


「やることは三つ」

 私は指を三本立てた。

「一、“見える品”を作る。二、“見える計画”を示す。三、“見える物語”を用意する」


「品は?」

 ロザンヌが問う。

「湾で採れた海藻から作る塩と、貝の加工品。ミレイ、できますか」


「塩は時間を食う。だが、味を見せるなら、煮詰めでいける。貝は殻を磨くのに人手がいる」


「人手は市場から雇う。問題は“計画”――灯台の提案書を図にして、誰でも理解できる形で出す。エルド、できますね」


「星と火の話は、貴族より市井の方がわかる。図は大きく、言葉は少なく」

 エルドの赤い目が光る。

「物語は?」

 ユーグが言う。

「語り部を雇うか」


「語り部は舞台に立つのに日数がいる。私がやる」


 ユーグが眉を動かした。

「危険だ」


「舞台は処刑台の代わり。自分で上がる」


 ロザンヌが横から口を入れる。

「宣伝が要る。三日のうちに、市場の耳に届く言葉」


「任せて」

 私は首飾りの鎖を少しだけ握った。

 令嬢が身に着けるべき宝ではない。ロープの束を解く時の癖が残るような簡素な鎖。

「港は噂を食べて生きてる。私の舌も、港の一部」


◇◇◇


 その夜、埠頭の見回りの兵が、船の舫い綱の一本が切られかけているのを見つけた。

 繊維の半分だけ、目立たぬように。潮が強ければ、自然に切れたように見えただろう。

 ユーグが痕跡を辿る。

「刃の角度が二つ。二人組だ。港の裏路地に引いた」


 王城の犬か、商会の手か、海賊の金か――いずれにせよ、“航路の価値”に賭ける者たちの嗅覚は早い。

 私は綱を新しくし、見張りを増やし、ロザンヌに報告した。

「王城にも報せる」

 彼女の声は冷たく静か。

「ただしあなたも覚えておきなさい。航路に値段をつけるということは、誰かがそれを盗むこともある、ということ」


「盗ませないわ。盗まれるくらいなら、私が値札の位置ごと変える」


「期待している」


 ほんのわずか――氷の下で水が動く。


◇◇◇


 二日目。

 市場の舞台の上で、私たちは“見える化”を始めた。

 クォートが白墨で大きな板に船体の断面を描き、エルドが星と灯台の位置関係を示す。

 ミレイは海藻塩の試作を小瓶に分け、貝殻は少年たちが磨き、ロザンヌは「王家監察官乗船中」の札を舞台の上に掲げた。

 最初は物珍しげに見ていただけの人の輪が、だんだんと厚くなる。

 子どもが貝に触る。

 女たちが塩の粒を舌に乗せる。

 商人が星の図に鼻を近づける。

 私はその間中、ひたすら“語り”を繰り返した。

 断罪の夜から、〈ホワイト・ウェイク〉の舷側がきしむ音、初めて掴んだ風、避けた小舟、湾の浅瀬、砂の手触り。

 物語は、手触りがなければ嘘になる。

 私は嘘をつかない。

 嘘の匂いは、港で一番目立つからだ。


「三日目の正午、王都商会連合の査定が入ります」

 最後にそう告げると、ざわめきが波紋のように広がった。

 好奇。

 期待。

 賭け。

 “価値”の匂いが、鼻にかかる。


◇◇◇


 三日目の朝。

 舞台裏の樽の陰で、黒い影が動いた。

 少年のひとり、タバルが声を上げる前に、影は彼の口を塞いだ。

 私は反射的に走り、ロープの端を影の足に引っ掛けた。

 影が転び、ユーグの膝が喉を押さえた。

 短いもみ合い。

 影が吐き出したのは罵りではなく、銀の笛だった。

 その笛の音を、私はどこかで聞いたことがある――王城の警笛。

 “内側”の人間。


「誰の命だ」

 ユーグの声は低く短い。

 影は答えなかった。

 ロザンヌが近づき、袖口をめくる。

 白い皮膚に細い焼き印。

 王家近衛の副印。

 彼女はほんの一瞬だけ目を細め、次いで顔を無表情に戻した。

「城に引き渡す」


「待って」

 私は影の指から笛を抜き取り、袖口の中に仕込まれていた紙片を取った。

 そこには、短い文。

 ――航路を高く売りすぎるな。王都に“敵”を増やすな。

 震えた文字。忠告か、命令か、罠か。

 “価値”が生まれると、誰かが“配分”を気にし出す。

 市場の法。

 王都の法。

 海の法。


◇◇◇


 正午、鐘が鳴った。

 舞台の前に商会連合の代表が並び、王城からは文官、そして王子レオンハルトが自ら姿を見せた。

 人垣が幾重にも重なる。

 私は深呼吸をした。

 背中に、帆の音が吹き込む。

 甲板ではない。ここは石畳。

 けれど、風は同じだ。


「アリアナ・ヴァルロット。航路の“価格”を示せ」

 王子の声が市場の屋根に当たり、跳ね返る。


「承知しました」

 私は三つの台を前に押し出した。

 一つ目――海藻塩と貝の加工品。

 二つ目――灯台の運用計画図。

 三つ目――空の台。


 ざわめき。

 私は一つ目の蓋を開け、ミレイに手振りで合図した。

 鍋の湯気が立つ。

 海藻塩で炊いた豆、干し魚に薄く振った塩、海草の油漬け。

 口に入れると、海の匂いが舌に広がる。

「味は“価値”です。今日ここで、王都の舌が変われば、相場が動く」

 商人の目が細くなる。

 二つ目の図を掲げる。

 灯台の位置、燃料の配給法、夜番の交代、税の徴収まわり――“運用”を図にした。

「灯台は“火”ではなく“仕組み”です。仕組みは、誰もが理解できるほど価値が上がります」

 文官の筆が走る。

 そして――三つ目の空の台。

 私はそこに、白墨で一本の線を引いた。

 ただの、白い線。

 市場が戸惑いの音を立てる。

「これは、“航跡”です」


「見えないものだ」

 王子の声。

「ええ。だからこそ、値段がつきにくい。けれどこの三日、王都の子も母も職人も、この線に触れました。ここに立ち、話を聞き、塩を舐め、星を見上げた。伝聞と現物の間に、“実感”が生まれた。――実感は、金より速く広がる通貨です」


 沈黙。

 その静けさの中で、私は最後の言葉を置いた。

「航路の価格は、貨幣ではなく“信用”で払います。商会連合の三つの商会に、先行出資を求めます。出資の代わりに“分配”ではなく、“命名権”を渡す。灯台の名、海藻塩の名、航路の俗称。王都の舌が、王都の地図が、それを呼べば――価値は固定される」


 人々が一斉にざわめいた。

 名――名は、誇りと広告を同時に運ぶ。

 商人たちが顔を見合わせ、すぐに計算を始める。

 王城の机は、眉をひそめるだろう。

 だが、名が市場に刺されば、机は引き抜けない。


「なるほど」

 王子の口元がわずかに上がる。

「踊り方は悪くない」


 代表商会が一歩前に出た。

「王都塩商会、灯台命名権に金貨百二十。王都陶工組合、貝工芸名に金貨八十。王都海運組合、航路俗称権に金貨百」


 数字の風が市場を走った。

 私は頷き、すぐに言葉を重ねる。

「王命に従い、灯台と海図の権利は最終的に王に帰属します。が、名は、民のもの。――“呼び名”は、奪えない」


 ロザンヌが小さく目を閉じ、開いた。

 文官が王子の耳に何かを囁く。

 レオンハルトは短く頷き、人々に向き直った。

「第一段の“価格”を認める。アリアナ・ヴァルロットの処刑猶予を、次の往還まで延長する」


 舞台の周囲で歓声と口笛が交じった。

 私は息を吐き、背中の汗が冷えるのを感じた。

 ――生き延びた。

 次の瞬間、王子が続けた。


「ただし、条件がある」


 市場の空気が、再び冷える。

「次の往還には“加護”を添えよ。聖女セリーヌを同行させる。海の神意を確かめるためだ」


 空気が凍り、私の喉の奥がきゅっと縮んだ。

 聖女を乗せる? 王都の宝を。

 それは、加護という名の鎖。

 彼女が甲板で風に祈りを捧げるたび、私の航路は王家の陰影を濃くする。


 セリーヌは微笑みを崩さず、ただ一歩、私に向けて頭を垂れた。

 王子はさらに言う。

「そして監察官ロザンヌは、“加護”の記録係に就く。あなたは舞台を得た。ならば、観客も連れていけ」


 “観客”――王の目と、王の耳。

 海は味方にもなるが、王は王。

 ロザンヌの横顔がわずかに硬くなり、ユーグの拳が音もなく握られた。


 私は黙って、頭を下げた。

 もう、引けない。

 加護が鎖でも、鎖で舵は取れる。

 必要なのは、鎖の重みを利用して曲がる角度を決めること。


◇◇◇


 夕刻、港に戻ると、〈ホワイト・ウェイク〉の舷側に花束が結わえてあった。

 白い花、青い花、潮を吸って少し重い。

 誰が結わえたのか、名はない。

 私は結び目を解かず、そっと位置だけを直した。

 花は航跡と同じ。

 誰かが見上げたことの証。


「出航は?」

 ユーグが訊く。

「明後日の夜明け。星が低くなる前」


「聖女の同行、準備は?」


「祈りの場所と、静かな影。甲板の上に“礼儀”の小さな島を作る」

 ミレイが頷く。

「賄いは少し甘くする。祈りの腹は、少し甘い方がいい」


 ロザンヌが船縁に手を置いた。

「王城から補給の箱が届く。中身は……あまり役に立たないものも混じるだろう。だが、受け取れ」


「見せ物か」


「ええ。王は王だ」


 エルドが星筒を肩に担ぎ、ぽつりと呟く。

「星は、王の顔は見ない。風も、名を呼ばない。ただ、線を引け、とだけ言う」


「線を引きましょう」

 私は海を見た。

 夜の海の皮膚は、昼より厚い。

 切るには、覚悟が要る。


「……価格は払った。次は、約束」

 自分に言い聞かせるように言葉を落とす。

 処刑台は遠ざかった。

 だが、距離は航海の長さではなく、舵の決め方で決まる。


 甲板の下で、少年たちが寝台を叩いている。

 ミレイが鍋の火を落とし、クォートが夜の船体を撫でるように歩いた。

 ロザンヌは手帳を閉じ、私を見る。

「生きて、帰るのよ」


「ええ。――生きて、帰る」


 そのとき、桟橋の向こうで、笛の音がした。

 昼に奪った銀笛の、同じ音色。

 私は舷側に身を乗り出し、目を凝らした。

 人混みの間を縫って、一枚の薄い紙がこちらに滑ってくる。

 拾い上げると、そこには短い文。


――“地図”が一枚、消えた。


 エルドの星図? 王城の海図? 灯台の位置図?

 誰が、どこで。

 胸の奥に冷たい指が入る。

 星は盗まれない。

 だが、星を“読む方法”は盗める。


「出航前に、船を洗おう」

 私は静かに言う。

「余計な影を、落とさないために」


 夜風が、帆を見上げた。

 〈ホワイト・ウェイク〉は、似合わないほど白い。

 白は、汚れが目立つ。

 だから、守りやすい。


 私は舵輪に触れ、ほんの短い祈りを口の中でほどいた。

 祈りは誰のものでもない。

 海と、風と、星と、名――それから、まだ値札のつかない未来に。

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