第2話 仲間集め、朽ち船に灯す名
夜の港は、昼よりも真実に近い。
磨かれた石畳の匂いが薄れ、潮と魚と古い綱の香りが、まるで街の化粧を剥がすみたいに立ちのぼる。灯台の火が遠くで揺れ、波止場には点々と篝火があるだけだった。
私は、その少ない灯に照らされた自分の船を見上げていた。船と呼ぶのがためらわれるほど、痛んでいる。船腹の板はところどころ痩せ、鉄釘は赤く泣いて、帆は裂けたまま風に千切れた音を立てていた。
「ほんとうに、これで海に出るおつもりで?」
背後で声がして振り向く。
ランタンの光に、片方の袖が空っぽの男が浮かび上がった。二十代後半、油に濡れた髪をぐしゃりと撫でつけ、目だけが妙に澄んでいる。袖が空なのは、腕がないからではない。片手が器用に二つの工具を同時に弄び、反対側の空の袖で仮止めした板を押さえていた。紐で縛られている袖口からは、木屑がちらほらと覗いた。
「あなたが……船大工の、クォートさん?」
「クォートで結構。『旦那』と呼ばれる趣味はないんでね、令嬢様」
令嬢。
その言葉が、少しだけ過去の私の肩書きを引きずり出す。私は背筋を伸ばして、船を見た。
「令嬢ではありません。処刑猶予中の、航路開拓者です」
「へえ」
クォートは口笛の形を作ったが、音は出さなかった。
音を出す必要がない、という顔をしていた。
「まずは生き返らせる必要がある。船は人間より頑丈だが、傷んだ船は人間より正直だ。水を吸い込む。穴があれば、必ず沈む。穴を塞げば、沈む苦しみをやめる。そういうことだ」
「塞げますか?」
「板と釘と松脂と時間があればね。問題は、そのどれもが不足してるように見える」
「板と釘と松脂は、探してみせます。時間は……」
思わず言葉を切った。処刑の猶予は一季節、つまり三十日、王宮の時計で言えば三十回の夕暮れだ。
「時間は、私の命に直結しています。だから、何よりも無駄にしない」
「へえ」
クォートは同じ短い相槌をもう一度繰り返し、今度は音を出した。ひゅう、と海鳴りに紛れる小さな音。
「一人じゃ船は走らん。船大工は船を直せるが、帆は自分じゃ張れない。舵を持つ手が要る。星を読む目が要る。飯を作る腕が要る。喧嘩の時、前に立つ背中が要る。令嬢……いや、航路開拓者。あなたは、その全部を集める覚悟はある?」
「あります」
口に出した瞬間、不思議と胸の奥が静かになった。恐れは消えない。けれど、恐れに名前をつけると、急に手触りが出る。
私はランタンを高く掲げ、船の名板を照らした。
そこにはかつての名――〈メアリ・ルー〉――が消えかけの金文字で刻まれていた。誰の娘だろう。どこの誰が、どんな思いでこの名を選んだのだろう。船の名を呼ぶことは、船の魂を呼ぶことだ。私はそっと指で古い文字をなぞった。
「名は残しましょう。でも、あらたに『通称』が要る。港の連中は、通称で呼ぶのが好きだと聞きました」
「通称ね。じゃあ、俺の仕事が終わるまでの仮名は『三枚板』――いや、縁起が悪いな。『破れ帆』はもっと悪い。『まだ沈んでない』というのはどうだ?」
「嫌です」
私は思わず笑ってしまい、すぐ真顔に戻った。
冗談を言っている余裕はないのに、笑いが滑って出るのは、たぶんこの港の空気のせいだ。潮の匂いは、悲しみに塩を振って、食べられるくらい現実にしてしまう。
「『白い航路(ホワイト・ウェイク)』は?」
「いい名だ。夜でも見える」
クォートは、空の袖で額の汗を拭う真似をし、肩で笑った。
「名に負けるなよ、航路開拓者」
「名が私を引っ張るなら、負けません」
その時、波止場の石畳を踏む硬い音が近づいてきた。
私は振りむく前から、その歩き方の主を知っていた。長い訓練で磨かれた均整のとれた歩幅。腰から下が一本の線になって進むような、地面と喧嘩をしない足運び。
「来ると思ってた」
声に、彼は眉をほんの少しだけ上げた。
幼なじみの騎士、ユーグ・リオン。
王都の騎士団に入ってからは滅多に会わなくなっていたが、彼の眼差しは昔と変わらず、まっすぐだった。風に吹かれても、火に炙られても折れない、鉄では作れない真っ直ぐさ。
「アリアナ。……殿下の命で来た」
「監視?」
「護衛だ」
短く言い切った。
彼の肩には王家の紋章。つまり王子の「目」と「鎧」だ。
けれど私は、その言葉の奥に、もうひとつの音色を聞いた。
幼いころ、川に落ちた私を引き上げたときと同じ、焦りを押し殺した音。
「護衛なら、剣もいっしょに」
「もちろん」
ユーグはマントの留め金を外し、剣帯に触れた。
「だが、条件がある」
「何?」
「あなたが船に乗る。それはもう止められない。王命だからな。だが――俺がいないときに出航はしないでくれ。必ず、俺が舷側に片足をかけてから帆を上げろ」
「交渉ね」
「約束だ」
昔から、彼は交渉が下手だった。誠実すぎて、いつもすぐ約束にする。私は頷いた。
「約束します。ユーグ。あなたの片足が船にあるとき、船は倒れない」
クォートが咳払いをして、空の袖で「退屈だ」とでも言うように空気を払った。
「騎士殿、俺は船大工だ。出航までのすべてに口を出す権利を、航路開拓者から預かってる」
「承知している。俺は外を守る。中は任せた」
「なら話は早い。今日の課題は三つ。『腹を塞ぐ』『舵を診る』『帆を縫う』。それから、人手。星読みとコックと甲板員が最低限。足りないなら、喧嘩が強い奴を」
「喧嘩は、俺がいる」
ユーグが淡々と言い、私は息を吐いた。
「星読み……」
思い浮かぶ顔がひとつあった。
流刑寸前の天文官補――エルド・マナ。学舎で星を読みすぎて、星を疑いすぎて、結局、星よりも人間の権威を怒らせた男。
噂では、今は港外れの小屋で酒に溺れているという。
「行ってくる」
私は言い、ランタンを掴んだ。
ユーグが一歩寄る。
「俺も」
「喧嘩の匂いはしないわ。説得の匂いだけ」
「説得の方が、喧嘩より危ないこともある」
それは、私も知っている。
結局、二人で行くことにした。クォートは船腹に片膝を立て、空の袖で器用に釘を咥えながら、私たちの背中に雑な祝福を投げた。
「星を連れ戻せ。夜は短い」
◇◇◇
港外れの小屋は、潮と煙草の匂いで膨らんでいた。
戸口にぶら下がる鈴を鳴らすと、床から鈍い呻きが返ってきた。
部屋の奥で、男がうつ伏せに寝ている。髭は伸び、髪はほどけ、机の上には星図が幾枚も重なって、星の線が酒の輪染みに溶けていた。
「エルド・マナ」
名を呼ぶと、男の背がぴくりと動いた。
彼はのろのろと身を起こし、赤い目でこちらを見た。目の赤さは酒だけのせいではない。夜空を見続ける者の毛細血管は、しばしば抗議を口にする。
「……誰だい。星は、俺の名前を忘れないが、人間はよく忘れる」
「アリアナ・ヴァルロット。処刑猶予中の、航路開拓者」
彼は噴き出した。笑いとも咳ともつかない音。
「処刑されたいのかい、令嬢」
「生きたいの。星の下で」
エルドの笑みが、少しだけ形を変えた。
彼は机の上の星図を手繰り寄せた。紙の端が汚れているのに、中の線は驚くほど精密だった。
「航路は海図で作る。星図は、その海図の、もっと上の地図だ。……あんた、星が見えるのか?」
「見えるのは希望と恐れだけ。でも、それなりに、北と南の違いくらいは」
「船で真っ直ぐ進むのは、陸で真っ直ぐ歩くより難しい。星は、真っ直ぐという嘘を許さない。……報酬は?」
「名を」
私は、不意にそう言っていた。
エルドが片眉を上げる。
「名?」
「あなたの名を、船に刻む。その代わり、あなたは星を刻む。船の名を呼ぶたびに、私はあなたを思い出す。思い出すたびに、あなたは少しずつ世に帰る」
部屋の奥で、誰かが眠りから目を覚ましたみたいに、埃が舞った。
エルドはしばらく黙り、やがて机の下から細長い筒を取り出した。
「星筒だ。覗け。夜は、まだ落ちきってない」
表に出る。港の灯が遠くで瞬き、空は墨に白い粉砂糖を振ったみたいに星でざわめいていた。
星筒を覗くと、星がすぐそこに寄ってくる。吸い込まれそうになる。
私は、息を吸った。
星は、言葉を持たない。けれど、線で話す。
北極星の無口な一点。
夏の大三角の、仲間を呼ぶ形。
羅針盤の針の、ためらわない震え。
「エルド・マナ。あなたが必要です」
私は筒から目を離して言った。
沈黙のあと、彼は短く笑った。
「いいだろう。俺は星に見放されたが、星は俺を見放してないらしい」
彼は酒瓶を机の端に置き、倒れそうな椅子を蹴り起こし、乱暴に外套を引っかけた。
「ただし俺にも条件がある。出航の前に、船の名を付けてくれ。名は星に聞け。名が嘘なら、海は機嫌を損ねる」
「約束する」
私たちは握手をした。彼の手は冷たく、魚の腹みたいにぬめっていたが、握り返す力は強かった。
ユーグがそっと肩に手を添え、低く言う。
「陛下の命で、あなたを一時的に罪から外す。だが、逃げれば追う。海の向こうでも追う」
「逃げないさ、騎士殿。俺は星から逃げたくてここまで落ちたが、もうこれ以上落ちる床がない」
◇◇◇
港に戻ると、クォートが松明を掲げて待っていた。
船腹には新しい板が仮止めされ、舵の付け根には鉄の環がはめ直され、裂けた帆は浜の女たち――クォートが雇ったらしい――が大きな針で縫っていた。
手が増えると、夜の仕事は昼に追いつく。
「星は捕まえたか?」
「捕まえた。あとは腹と舵と帆。コックは?」
「コックは……今連れてくる」
声がした方を見ると、樽を抱えた大女が歩いてきた。
雲の柱みたいな腕に、切れた耳飾り。片目の下に古い白い傷跡。
「誰も飯を作れないなら、海は女の仕事だよ」
彼女は樽をどん、と置いた。蓋を開けると、干した魚と固いパン、塩と乾燥したハーブ。
香りが、突然、家の匂いになった。
彼女は私を上から下まで見た。
「お嬢。あたしはミレイ。昔は船の台所を守ってた。今は浜で鍋を振ってる。あんたの船に、火を持ち込んでやる」
「ようこそ、ミレイ」
「うまく言うね。腹が立つくらいに」
ミレイは笑い、肩で私を軽く叩いた。
叩かれた場所に、火が灯ったみたいに温かさが残る。
人は、食べ物で一人ではなくなる。
「それから、力仕事はどうする?」
ユーグが周囲を見回す。暗がりから、ひょろ長い影が三つ、四つ、伸びてきた。港の少年たちだ。
クォートが空の袖で合図する。
「朝から手伝ってる連中だ。金がもらえなくても、飯が食えるなら働く。航海が終わったら、誰かは甲板員のまま残るかもしれない」
「全員、名前を教えて」
少年たちは驚いた。名を問われることは、命を問われることほどに少ないのだろう。
彼らは順に名を言った。
リース。
タバル。
ピコ。
そして、末っ子の女の子が小さな声で――
「シア」
私は繰り返した。
「リース、タバル、ピコ、シア。ようこそ」
名を呼ぶと、顔に血が通う。どの顔も、急に「この世」に所属するみたいに。
エルドが星図を広げ、ミレイが鍋に水を張り、クォートが板を合わせ、ユーグが剣を傍らに置いた。
夜が、働く者のために伸びた。
◇◇◇
横腹を塞ぎ、舵を診、帆を縫いながら、私たちは最初の航路を描いた。
大きな冒険ではなく、短い跳躍。王都から南に外れて、小さな湾へ。そこは海賊の気配が薄く、潮の流れが穏やかで、戻りやすい。
エルドが言う。
「最初は、空の教えに従う。夜明け前、北極星が最も低く沈む瞬間、風が変わる。そこで帆を取り換えるんだ」
「風を、取り換える」
私は呟いた。
風は誰のものでもない。でも、風を味方にしている者だけが、風の名を呼べる。
準備が整いつつある頃、王城から正式な文書が届いた。
封蝋に王家の獅子。
本文は冷たい文語で、ただ事実だけが並んでいる。
――アリアナ・ヴァルロット。新航路開拓命に基づき、三十日以内に往還を成すこと。往還の証左として、未登録の海藻、貝、鳥、海流の記録、星図の修正、灯台の新設提案を提出せよ。随行の王家監察官を船に乗せること。
王家の監察官。
私は文を握りしめ、ユーグに目をやる。
「監察官……つまり、私の首に結びつける紐を、王が自ら渡してくるのね」
「紐があるなら、切れることもある」
ユーグの言葉は慰めではなかった。現実の輪郭をなぞっただけ。だからこそ、少し力になった。
「いつ、来る?」
「明朝。――俺が迎える」
◇◇◇
夜明けは、決まって訪れる。待つ側にどんな事情があっても、空は自分の都合で明るくなる。
東が白み始めた頃、波止場に駆け足の音が重なった。鎧の擦れる音。秩序の足音。
ユーグが先に立ち、その後ろに紺の外套を纏った人物が続く。外套の裾は砂に濡れ、靴は清潔すぎて港に似合わない。
フードが外される。
現れた顔は、意外だった。二十代前半、冷たい水面みたいな瞳。
女だった。
「王家監察官、ロザンヌ・トレル。以後、貴船に乗り組む」
声は低く、遠くの岩に当たって返ってくるような響きがあった。
私が名乗ると、彼女は小さく頷いた。
ロザンヌは手袋を外し、手を差し出す。指先に薄い傷がいくつも走っている。机の上だけで生きてきた手ではない。
「職務に感情を持ち込まないのが原則だが、ひとつだけ先に言っておく」
「何かしら」
「海は、あなたの敵でもあり、味方でもある。だが、王はあなたの敵でも味方でもない。王は王だ」
言葉は刃ではなかった。凍った水。触れたところから冷たさが伝わる。
私は微笑んだ。
「私もひとつだけ言っておくわ、監察官殿。私は私だ。罪人でも、令嬢でも、王の道具でもない。航路開拓者。船の名は――」
私は振り向き、船首の名板に手を置いた。昨夜、エルドと星図を前に決めた通称。
白いチョークで仮に書いた文字は、朝の湿りを吸って濃くなっていた。
「――〈ホワイト・ウェイク〉。白い航跡。夜でも見える、目印」
ロザンヌが、かすかに息を飲んだ。
クォートが顎で合図する。
「名は決まった。なら、船の魂は起きてる。起きてる魂は、働かせないと拗ねる」
「出航はいつ?」
ユーグが問う。
私は空を見る。北極星はもう見えない。けれど、エルドが言った夜明け前の兆しは、今も風の角で尖っている。
ミレイが鍋の蓋を叩いた。
「朝飯をかき込んだら、今だ」
エルドが星筒を肩に担ぎ、ロザンヌが手帳を開き、ユーグが剣帯を締める。少年たちが綱を解き、クォートが最後の釘を打った。
私は舷梯を上がる。
足が甲板に触れた瞬間、心臓が二度跳ねた。
そこは、思い描いていた場所よりも狭く、もっと匂いが濃く、もっと音が多かった。
風の音、帆の音、木の軋む音、人の息の音。
生きている音。
「舫い解け!」
自分の声が、自分の喉から出たとは思えないほど、はっきりと響いた。
リースが返事をし、タバルが綱を放ち、ピコが跳ねるように走り、シアが太い結び目をほどいた。
船が、港から自由の一歩を踏み出す。
私は舵輪に手を置いた。木のぬくもり。そこに幾人もの手が重ねられた痕跡。
ユーグが舷側に片足をかける。約束の形。
私は、口の中で小さく言った。
「行くわよ、〈ホワイト・ウェイク〉」
風が、帆を叩いた。
朝の光が、海の皮膚に白い筋を描いた。
それは、航跡の予告線。
ロザンヌが手帳に短く記し、エルドが星図を折り、クォートが空の袖で帽子を押さえ、ミレイが鍋の火を強くした。
港の人々が振り向く。知らない目と、少しだけ知っている目。
私は振り返らない。
処刑台は背中側にある。
未来は、船首の前にある。
◇◇◇
最初の湾までの航路は、静かなはずだった。
だが、海は授業の前に小テストを用意するのが好きだ。
外海に出る手前、海面がざわりと波立ち、真横から風の塊が突っ込んできた。
帆が膨らみすぎ、マストがきしみ、舵輪が私の手の中で暴れた。
私は反射的に舵を切り、舵輪が肩に食い込む。
「風下に!」
ユーグが背後から舵に手を添える。
エルドが叫ぶ。
「メインを半分! トップを落とせ!」
少年たちが走り、ロザンヌが手帳を閉じ、クォートが空の袖で綱を押さえ、ミレイが鍋を掴んで火を庇った。
帆がばさばさと鳴き、船は一瞬、傾いた。
海は、私たちの決意の強さなど知らない。知っているのは、力の向きと大きさだけ。
私は歯を食いしばった。
舵輪は重い。
でも、重いものは、重さの分だけ、こちらの命令を聞く。
少しずつ、少しずつ、船首が風に顔を向ける。
風は怒るのをやめ、少しだけ笑う。
水平線の向こうに、薄い影が見えた。
黒く細い、動く線。
エルドが息を止めた。
「櫂船……いや、小舟の群れだ。三、四、五……七隻。こちらに向かってる」
海賊?――喉の奥が音になりかけて、私は飲み込んだ。
まだ判断は早い。
ユーグが斜めに立ち、太陽を背に、遠目をした。
「旗は?」
「見えない。……だが、漕ぎ手の動きが揃ってる。訓練された手だ」
ロザンヌが短く言う。
「迎撃するのではなく、避けるのが最善。監察官として進言する」
「同意」
私の声に、自分でも驚いた。怖れているのに、声は穏やかだった。
恐れは役に立つ。見たいものだけを見る癖を抑える。
私は舵を切り、〈ホワイト・ウェイク〉を、影から遠ざける角度に滑らせた。
風が味方をしてくれた。
小舟の群れは、私たちの航跡を横切り、別の獲物を追っているように見えた。
私たちは、彼らの背中だけを見た。
やがて影は、海の皺の向こうに消えた。
ミレイが長く息を吐いて、鍋の蓋を少しだけ持ち上げた。
湯気に、ハーブの香りが混ざる。
船の上に、家ができた。
◇◇◇
湾に着くと、海は急に浅くなった。
エルドが星図と海図を照らし合わせ、クォートが深さ棒で底を感じ、少年たちが碇を落とす準備をした。
砂地。
海草。
小さな貝の群れ。
ロザンヌが手帳を開き、ミレイが網を広げた。
私たちは、王命の「証左」を集める。
未登録の海藻。
見慣れたようで少し違う貝殻。
潮の匂いの中に、別の香りが混じる場所――つまり海流の縫い目。
海は、秘密を嫌っていない。秘密は、ただ人間が見落とすだけ。
私は一枚の貝を拾い上げ、ロザンヌに渡した。
彼女は黙って受け取り、手袋の内側の指でその縁を撫でた。
顔に、初めて、感情が灯った。
「……美しい」
「ええ」
言葉はそれだけ。
でも、十分だった。
彼女が人形ではないと知るには、それで足りた。
◇◇◇
湾の奥で、私たちは夜を待った。
星はまた、空に灯る。
エルドが星筒を構え、クォートがマストに背を当て、ミレイが鍋をかき回し、ユーグが甲板を見回り、ロザンヌが灯りの位置を記録する。
私は舵輪に手を置いた。
船は、眠っているようで、眠っていない。
眠りながら成長する子どものように、音もなく自分の体を作り直している。
星は、私の中に線を引いた。
過去と現在と、未だ見ぬ未来を、まるでひとつの航路のように。
処刑台の影は、まだ足元にある。
でも、影があるということは、光があるということ。
「明日、戻る」
私は小さく言った。
王都へ。
証左を抱え、航跡を背に、名を前に。
甲板の上で、誰も返事をしなかった。
でも、風が、答えた。
帆が、うなずいた。
海が、息をした。
そして、〈ホワイト・ウェイク〉は、夜の中に白い線を引いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます