第2話 色の記憶
車窓の外、街灯がひとつ、またひとつと後ろに流れていく。
夜の闇が、まるで墨を垂らしたように、車内をじわじわと染めていった。
助手席の篠原は、拘留室のあの笑みがまだ脳裏に張りついている気がして、肩の力を抜けずにいた。
その沈黙を破ったのは、運転席の警官だった。
「目的地は港区の臨時闇市倉庫です。本日は現場の物品を先に整理します。篠原先生には、疑わしい作品の鑑定をお願いしたいとのことです。」
篠原は小さく頷いた。視線は変わらず前方の闇を見据えたまま。
……必要な手順だ。それは分かっている。
だが、容疑者を連れて現場へ同行するというやり方に、どうしても危うさを感じる。
その時、後部座席の御影が、窓の外を眺めながらぽつりと呟く。
「……心配性だね、鑑定士さん。」
声にはどこか甘さが混じっていた。
まるでからかうように、それでいて柔らかく、心の隙間に入り込むような調子だった。
「俺さ、途中で逃げるほどバカじゃない。逃げる前に――きっちり、帳尻合わせてもらわないとね?」
篠原は返事をしない。
ただ、冷たく突き放すように言い捨てる。
「……協力したところで、無罪にはならない。」
御影はその言葉に、ふっと息を洩らすように笑う。
「相変わらず、お堅いな。」
脚を組み替え、体を深く座席に沈める。
「でもさ……現場を見たら、あんた――たぶん、笑えなくなるよ。」
車が港区に差しかかる頃、車窓越しの空気が徐々に濁っていく。
潮の匂い、オイルの匂い、古い木箱の香り――その全てが混じり合っていた。
遠くには仮設のライトスタンドが光を放ち、倉庫の周辺では警官たちが押収された絵画や彫刻を運び出していた。
御影が口笛を吹く。
「ずいぶん賑やかだね。……こりゃ、今夜は眠れない人が出そうだ。」
篠原は無言でコートの袖を整え、車を降りる直前、ひと言だけを落とす。
「……余計なことはするな。」
倉庫の中は黄ばんだ照明に照らされ、空気には油彩の匂いと埃、そして古いキャンバスの匂いが混ざっていた。
警官たちは物品をナンバー付きのタグで記録しており、現場はまだ雑然としている。
篠原は腰をかがめ、取引リストを一枚ずつめくっていく。
一方の御影は、好き勝手に倉庫内をふらふらと歩き回り、最後にはひとつの木箱の前で足を止めた。
廃棄されたキャンバスを一枚引き抜く。
「現場に触れるな。」篠原が低く釘を刺す。
御影は軽く笑って振り返る。
「大丈夫。……真作を汚すのは、俺が一番恐れてるよ。」
彼はキャンバスを木箱の上に広げると、近くに転がっていた調色ナイフと絵の具管から、二色を選び取った。
手際よくパレットに絞り出し、金属と陶器のこすれる「カチカチ」という小さな音が空気に響いた。
御影の手つきは、どこか舞台の上のパフォーマンスのように滑らかで――
手首が返るたび、絵具が厚い青と柔らかな白へと変化し、盤の中で深く絡み合っていく。
刷毛が落ちた。
「シャッ……」という音が、倉庫の静けさを裂いた。
その瞬間、御影の表情が鋭く変わる。
まるでこの世の全てが彼の手元に集まり、意識のすべてが「描くこと」に染め上げられたかのように。
ほんの十分足らずで、白いキャンバスには《双子の夢》の一部が再現されていた。
光と影、奥行き、筆圧……その全てが、あまりにも本物に近い。
篠原は無意識のうちに一歩近づいていた。
その場で膝をつき、画面の端に指を伸ばす。
絵具はまだ濡れており、光を鈍く反射している――だが、
それは、どんな鑑定士であっても見抜けない偽物だった。
一瞬、息が止まる。
御影はその様子を目にし、再び口元をゆるめた。
「どうした? ……まさか、驚いた?」
調色ナイフを放る。
「カシャンッ」と音を立てて、ナイフは木箱に当たって跳ねた。
「あと三十分くれたら――あんたでも、本物と見分けがつかなくなるよ。」
篠原の目が、絵具の表面を捉える。
そこにある微妙な光沢は、真作と……まったく同じだった。
「……その速乾剤。通常のものじゃない。」
低く呟く。
「どこで手に入れた?」
御影は肩をすくめ、無造作に答える。
「闇市の定番さ。……扱ってる店は限られてるけどね。」
篠原は立ち上がり、手元の写真を静かにファイルへとしまった。
その視線が、初めて御影自身へと向けられる。
――この男がいなければ、調査は進まない。
その事実が、今はっきりと突きつけられていた。
「……行くぞ。」
御影は軽く笑って、一歩、篠原へと近づく。
その距離が、まるで空気を歪ませるようだった。
低く、囁くように。
「……ほら。もう、あんたは俺が必要になってる。」
篠原は一歩も引かず、ただ手の指をゆっくりと拳に握る。
「――調子に乗るな。」
背を向け、倉庫の外へと歩き出す。
警官が「現場の整理をお願いします」と声をかけてきたタイミングと、ほぼ同時だった。
御影は彼の半歩後ろを歩きながら、まだ笑っていた。
――その笑みは、まるで「勝ちを確信した人間」のものだった。
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