《真作と呼ばないで》
雪沢 凛
第1話 拘留室にて
鉄の扉が「カチャ」と音を立てて閉まると、空気が一気に静まり返った。
深い灰色のコートの袖には、まだキャンバスの繊維がわずかに残り、襟元は定規のように真っすぐ伸びていた。
眉間に浮かぶ薄い皺が、実年齢以上の厳格さを物語っている。
対面の男が、ゆるく前髪を揺らしながら顔を上げた。
その唇には、最初から結末を知っているような笑み。
手錠をかけられているのに、どこか無邪気な余裕を纏っている。
「へえ……これが噂の天才鑑定士ってやつ?」
まるでアクセサリーでも弄ぶように。
「館の至宝を『一目でニセモノ』って断言したとか。正直、もっと年食ってるかと思った。……写真より、ずいぶん若く見えるじゃん。」
篠原は返事をせず、椅子を引いて静かに腰を下ろす。
その動作だけで、室内の温度が数度下がったかのようだった。
視線は机上のファイルへ。
指先が一瞬止まる。
写真に写る、《
筆致、顔料、配合。
……あまりにも、見慣れた痕跡。
ほんの一瞬だけ呼吸が詰まり、それを押し殺して、篠原はファイルを机の中央へ滑らせた。
「――俺が言ったんじゃない。事実だ。」
その声は、石のように冷たく硬い。
御影が口笛を吹いた。
「ふーん、ずいぶん冷たいな。」
指先で写真の端をトン、と軽く叩く。
「噂じゃ、あの一言で館がパニックになったってさ。閉館もありえるって、みんな震えてたらしい。」
ふっと笑みを深くしながら――
「でも、そこに爆弾落としたのはあんただ。……面白いじゃん。」
篠原は何も言わず、別の拡大写真を取り出すと、音を立てずに机の上に置いた。
その紙の端が、御影の指先をかすめる。
「――これ。お前の仕事だろ。」
御影は一瞥しただけで、眉をわずかに上げる。
その目には、一瞬だけ本物の興味がきらめいた。
前髪をかき上げ、真正面から篠原の目を覗き込む。
「筆致は、似てる。……でも、俺じゃない。」
口元に笑みを浮かべたまま、言葉の端が鋭さを帯びる。
「――本当に俺だったら、あんた……見抜けたと思う?」
篠原の指が写真を強く押さえつけ、紙がわずかに折れ曲がる。
「警察は言ってる。お前が闇市のオークションに現れたのは、次の贋作を売るためだと。」
御影は肩をすくめ、身を乗り出した。
手錠が机に当たり、乾いた音を立てる。
「ちがうよ。俺は……自分の絵を取り返しに行ったんだ。」
その言葉に、篠原の目がわずかに細くなる。
「……自分の、絵?」
「うん。」
御影は飄々と指先で机をトントンと叩く。
「俺の筆致をパクって、勝手にばら撒いて。しかも俺に罪をなすりつける。……さすがにムカつくよね?」
そして、わざとらしく首をかしげると、じっと篠原を見つめた。
「真作、本気で取り戻す気あるなら――俺の力、必要なんじゃない?」
その瞬間、部屋の外から警官が一方通行ミラーをコンコンと叩いた。
「篠原さん。文化財対策課から、特別協力要請が通りました。館の理事会も承認済みです。御影氏が全面的に協力するという条件で、起訴は取り下げ、罰金のみとなります。」
篠原の眉間が、さらに深く寄る。
これは要請ではない。命令だ。
――館はスキャンダルを隠したい。
――警視庁は一刻も早く事件を解決したい。
そして、犯人を証人に仕立て上げた。
……その船に、俺も乗せられたということか。
篠原はゆっくりと視線を上げる。
その視線は、御影の笑顔を射抜くように鋭い。
御影は、まるでそれを楽しんでいるかのように、口角をさらに上げた。
「どうした? 俺と組んだら――本物とニセモノ、見分けつかなくなりそうで怖いの?」
……照明が、ふと陰ったように感じた。
篠原は無言で立ち上がる。
椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を残した。
「――証明しろ。自分の価値を。」
背を向けたまま、それだけを残し、彼は部屋を出ていった。
御影はその背中を見送りながら、かすかに笑った。
「……面白くなってきた。」
夜色は深く、警察署の裏手から吹き込む風には、鉄錆の匂いが混じっていた。
拘留室を後にした篠原結人の肩には、何かが重くのしかかっていた。
まるであの気だるげな笑みが、いまだミラーの向こう側に居座っているかのようだった。
「……容疑者を協力者に、か。」
ポケットに突っ込んだ手の中、指先が無意識に力を込める。
これが自分の望んだやり方ではない。だが、上の判断は絶対だ。従うしかない。
警察署の裏口には、黒いセダンが静かに待機していた。
ヘッドライトが夜の闇を斜めに切り裂き、冷たい光を路面に落とす。
御影 迅が連行されてきた。手錠はすでに外されている。
左右に警官を従え、どこか余裕すら感じさせる歩き方で車の方へと進む。
「副座にどうぞ。」
警官のひとりが篠原に促す。
無言で頷いた篠原は助手席へまわり、乗り込む。まるで自分も押送の一員になったかのような気分だ。
御影は後部座席に収まると、長い脚を伸ばし、リラックスした様子で座席に沈んだ。
それはまるで、押送されているのではなく、夜のドライブにでも出かける乗客のようだった。
車が静かに発進する。
車内には沈黙が落ち、聞こえるのはときおり警官が口にする地名だけ。
不意に、御影が篠原の方へ顔を向ける。
その口元には、相変わらず挑発的な笑みが浮かんでいた。
「……さっきの顔。まさか、俺が途中で逃げるとでも思った?」
篠原は視線を逸らさず、低い声で返す。
「そのつもりなら……今のうちに言え。」
御影は短く笑った。
背をシートに預け、天井を見上げながら答える。
「安心して。逃げるより……誰が俺に挑むつもりか、この目で見たい。それだけさ。」
その声は柔らかく、それでいてどこか不穏だった。
篠原はちらと彼の方を横目で見た。
その瞬間、車内の灯りが御影の横顔をかすめる。
若い。無防備なようで、そこには確かな「棘」があった。
その危うさが、胸の奥に微かなざわめきを残していく。
目線を前に戻し、篠原は膝の上で指を一つ、軽く鳴らす。
「――後悔させるな。」
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