第二幕・第六章:剥がれる白野
闇の雫が草原に触れるたび、空気がひやりと冷え込んだ。
その冷気は皮膚の表面だけではなく、骨の芯にまで染み込んでくる。
指先がかすかに痺れ、呼吸をするたびに肺が細く締め付けられる感覚があった。
足元の羽毛草は、黒い滴を浴びると瞬時に縮れ、灰色の繊維となって地面に沈んでいった。
その灰が沈む音は、まるで細かい砂が水に落ちるような「シャリ……」という微音で、耳の奥に不快な残響を残した。
空を覆う裂け目の縁では、銀色の糸がぶら下がり、蜘蛛の巣のように絡み合っていた。
そこに闇が滴るたび、糸は音もなく切れ、地面へ落ちて消えた。
裂け目の奥は何も見えない——ただ、暗い深淵が口を開けているだけだった。
風は止んだはずなのに、頬をなぞる湿った空気があった。
それは風ではなく、裂け目の奥から吐き出される“息”のようだった。
その息には焦げた木の匂いと、濡れた土の匂い、そして血の鉄臭さが混じっていた。
巨木の幹に浮かんだ顔たちは、まばたきをしないまま瞳を動かし、四人の動きを追っていた。
目が合うと、静馬の視界がわずかに滲み、足元がふらつく。
まるで視線の奥から体の中へ何かを引きずり込まれるような、重く湿った圧力を感じた。
木の皮膚が剥がれ落ちると、その下からは絡み合った白い腕が現れた。
一本一本の腕には煤がこびりつき、皮膚はひび割れ、その隙間からは灰色の粉が絶え間なく流れ出している。
その粉は地面に落ちると、即座に小さな穴を穿ち、そこから新たな腕がゆっくりと這い出してくる。
耳の奥で、薪のはぜる音が途切れ途切れに響く。
パチ……ジュゥ……パチ……シュウ……
その間に、低い呟きが混じっていた。
「……代わりを……代わりを……」
夏芽が後ずさりし、狩野が彼女を庇おうと前に出た。
しかし、その足が羽毛草の根元を踏んだ瞬間、草が生き物のように巻き付き、彼の足首を締め上げた。
草の先端からは微細な棘が皮膚に突き刺さり、瞬く間に血が滲む。
上空で裂け目がさらに広がり、世界の蒼が崩れ落ちるように剥がれ始めた。
剥がれた空の破片は白く輝く欠片となって降り注ぎ、地面に触れた瞬間、光から黒い泥へと変わって広がった。
その泥は動き出し、まるで意思を持った蛇のように四人の方へと這い寄ってきた。
澪の顔は微笑を浮かべたまま、幹の奥へと半分沈みかけている。
その口元からは黒い糸のような液体が垂れ、地面に落ちると静かに蒸発した。
蒸気には甘くも腐敗臭の混じった香りがあり、嗅ぐほどに意識がぼやけていく。
静馬は短刀を握る手に力を込めた。
この世界は——美しさの皮を被ったまま、内側で腐り落ちている。
長くいれば、心も体も溶けて、この巨木の幹に閉じ込められる。
澪も、そして母が語らなかった幾人もの人間も——ここにいる。
しかし、澪の瞳は静馬を捉えて離さなかった。
その奥に、一瞬だけ、本物の澪の光が揺れた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます