第二幕・第五章:異界の白野

 目を開けると、空は透き通るような蒼に満ちていた。

 雲ひとつないはずの空に、銀色の糸のような光が幾筋も走り、まるで水面の反射が逆さまになったように漂っている。

 足元には、雪のように白い草原が広がっていた。

 だがその草は雪ではなく、細い羽毛のような質感を持ち、触れるとほんのり温かい。


 風が吹くたび、その羽毛草が一斉に波打ち、無音のさざ波が地平線まで広がっていく。

 耳を澄ますと、遠くで薪のはぜる音がした。

 それはここでは心地よい焚き火のように響き、不思議と恐怖を感じさせない。


 静馬はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。

 夏芽と晴人、狩野も同じ白い草原の上に横たわっている。

 皆、意識はあるようだが、夢の中にいるようなぼんやりとした表情を浮かべていた。


 「……ここ、は?」

 夏芽がかすれた声を漏らす。

 その声さえも、空気に吸い込まれて柔らかく響く。


 遠くには一本の巨木が立っていた。

 幹は白銀色で、枝には無数の透明な葉が揺れている。

 葉の一枚一枚が光を帯び、風に揺れるたびに鈴の音のような響きを奏でた。

 その音色は甘美で、聞いていると胸の奥が温かく満たされる。


 しかし、静馬は違和感を覚えた。

 光の揺れ方が、風と一致していない。

 巨木の葉が右に揺れているのに、草原の羽毛草は左に揺れている。

 風の匂いも、瞬間ごとに変わった。

 花の香りの次に、潮の匂い、さらに薪の煙の匂いが混ざる。


 「……おかしい」

 呟いた声が、自分の耳に届く前に空気に溶けていった。

 ここでは音が空に吸い込まれていくようだ。


 足元で何かが動いた。

 羽毛草の隙間から、小さな光の粒がふわりと浮き上がった。

 それは蛍にも似ていたが、光の色は青白く、瞬きではなく脈打つように強弱を繰り返す。

 光の粒はゆらゆらと舞い上がり、静馬の肩に降り立つと、まるで生き物のように皮膚を這い、耳元で微かな声を囁いた。


  「……帰れる……代わりを……」


 静馬は肩を払ったが、粒は指先をすり抜けるように消えた。

 夏芽もまた、自分の手の上で同じ光を見つめていたが、不思議そうに首を傾げただけだった。

 彼女には声は聞こえなかったらしい。


 やがて四人は、巨木の方へ歩き出した。

 足元の草は踏んでも倒れず、むしろ足跡が淡い光の帯になって残った。

 振り返ると、自分たちの歩いた道がまるで天の川のように輝いていた。


 巨木に近づくにつれ、周囲の空気は冷たく澄み、息を吸うたびに胸が満たされていく。

 だが、その心地よさと同時に、強い眠気が襲ってきた。

 まぶたが重くなり、意識がふと遠のきそうになる。


 ——ここで眠ってはいけない。


 頭の片隅でそう警鐘が鳴るが、同時に耳の奥であの薪の音が心地よく響き、警戒心を奪っていく。

 パチ……パチ……パチ……


 ふと、巨木の幹に近づいたとき、静馬は息を呑んだ。

 幹の表面には、人間の顔が浮かび上がっていた。

 それは彫刻ではなく、幹の奥に閉じ込められたかのような、半透明の顔だった。

 目を閉じ、安らかな表情を浮かべている。

 しかし、目尻や口元には薄い灰色の煤がこびりついていた。


 その中に——妹、澪の顔があった。


 「……澪……!」

 声を上げると、澪の瞼がゆっくりと開いた。

 瞳は光を映していたが、その奥には深い闇が潜んでいた。


  「……お兄ちゃん……」


 その呼びかけと同時に、草原を渡る風の向きが急に変わった。

 羽毛草が一斉に逆巻き、空の銀糸が波打つ。

 遠くで薪の音が弾け、世界の色がほんの僅かに滲み始めた。


 静かで美しいはずの景色が、わずかに歪んでいく。

 空の蒼が深すぎて、底知れぬ淵のように見えた。

 巨木の葉の音が鈴の音から、不協和音を孕んだ擦過音へと変わっていく。

 静馬は背筋に冷たいものを感じた。

 ここは美しい——だが、決して安全ではない。

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