第一話 沈黙の時代
バブルの崩壊から三十年。地の果てにも海の底にも、もはや光は届かない。沈黙だけが世界を覆い尽くしていた。
経済は底を這い、まるで百年前の大恐慌を彷彿させるような停滞に沈んでいる。都会の街には職を失った者たちが、影のように彷徨っていた。
かつて価値の象徴だった紙幣は、今や風に弄ばれる幻想となり、廃墟と化した銀行から舞い上がっては、月光に透けて揺らめいていた。まるで亡霊のように。
誰にも拾われることなく、静かに地面へと降り積もるその姿は、過ぎ去った繁栄が風に散った夢の残骸のようだった。
無数の流浪の男たちは、舞い散る札束に目もくれることなく、ただ沈黙のなかを彷徨い続けていた。希望の残響を踏みしめながら、ひとつ、またひとつと、彼らはビルの屋上を目指していた。
「財産は金塊が一番や!」
「そうや、銀行なんて信用ならん!」
「だが、すべては終わりや……!」
口々にそう叫びながら高いフェンスに辿り着くや、男たちは警備員の制止を振り払い、何かに取り憑かれたかのように次々とフェンスを乗り越え、身を投げた。
地面に叩きつけられた亡骸は、赤黒い染みとなって広がり、この世の地獄を見せつけるかのように夥しい血が流れ出す。あまりに凄惨な光景を、女と子どもたちが苦渋の涙を堪えきれずに見つめていた。
彼らの慟哭は空気を震わせ、やがて地を這い、海を渡り、静寂の皮を裂くように広がっていった。悲痛な叫びは、遠く離れた国々の人々の胸奥に眠る、別の怒りや不安と共鳴しはじめる。
「アメリカ・ファースト!」
「移民は反対だ! 即刻追い出せ!」
「悪魔に魂を売った者は吊るし首にしろ!」
千の松明のように自由の女神を取り囲んだ群衆は、狂気の怒声をあげてわめき散らす。彼らの声に呼応するように、憎悪の炎は瞬く間に世界各地へ飛び火し、すべてを焼き尽くし始めた。
「日本がまず一番大切だ!」
「ドイツの繁栄こそすべてだ!」
「かつての大英帝国を取り戻せ!」
「今こそ一つの中国を成し遂げよ!」
「ヒンドゥーの誇りを呼び覚ませ!」
「シャリーアこそが真の秩序だ!」
「いざ、聖なる地を回復せよ!」
「好機到来! 侵攻も戦争も辞さず!」
天空には火薬の匂いが立ち込め、怒りの紅に燃え上がり、国境を越えて噴き上がる人々の憎悪の咆哮が空を切り裂く。それは教会や寺社仏閣、そしてモスクの隅々まで深く浸透していった。
遠い昔、世界が息を潜め、言葉が凍りついた季節があった。過去の凍てついた記憶は、今また影となって街を這い、灯りの残滓をひとつずつ呑み込んでいく。
沈黙は風のように忍び寄り、人々の胸に冷たい指先を這わせながら、再び世界を凍らせようとしていた。
社会は腐泥の底に沈み、希望の泡すら立ち上がらない。人々は呆然となりうめき声を上げている。だが、涙を浮かべる声は沈黙の亡霊に吸い込まれ、空に届くことはなかった。
思想の裂け目は言葉の刃となり、国境を越えた左右の陣営が互いに傷を刻み合う。妖しく光り輝く刃は、敵味方を問わず、人々の胸の奥深くに突き立てられた。社会の亀裂は、とうに修復を拒んでいる。
百年続いたと伝わる平和な砂上の楼閣は、新たなる神の審判を受け、化けの皮を剥がされるようにして、いつの間にか終焉を迎えていた。
市井の人々は、きな臭い風の兆しすら感じることなく、その崩壊に気づかぬまま、静かに夢の残骸の上を歩き続けていた。
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