第1章 大きな小人リオ
1-1 巨木の影
夜明け前の森は、しずかな湯気を立てているみたいだった。
リオはしゃがみ込んで、折れた小枝をそっと拾い上げた。太い指でつまむだけで、またぱきりと音がする。あわてて指を離し、息をつめる。
「……ごめん」
小人の村は、森の根と根のあいだに挟まるように建っている。蜂の巣みたいな丸屋根の家々、葉脈を縫うような小径。どれも、リオには細すぎて、軽すぎた。
三メートル近い体は、朝露のきらめく世界に似合わない。彼が立ち上がると、木の影がひとつ増えたみたいに見える。
村が目を覚ます前に、やることがある。
夜のあいだに倒れた枝を片付けて、通り道を確かめ、露で緩んだ地面を足で固める。誰にも見つからないうちに。見つかれば、ざわめきが起きるからだ。
「踏み跡が深い、怪物が通った」「家が揺れる」「子どもが起きる」
そう言われた日の夜、リオは村はずれの岩陰に寝転んで、しばらく空を見ていた。星は小さく、遠く、彼の大きさとは関係なく輝いていた。
あの日から、彼はもっと静かに歩く練習を始めた。踵をつけず、つま先から置く。息を止めず、胸ではなく腹で呼吸。
それでも足元は沈む。苔の感触が、罪悪感みたいに柔らかい。
朝の鐘が一度、遠くで鳴る。村のパン焼き小屋から、焼き麦の甘い匂いが風にのった。
石炉の前に、小さな影がちょこちょこ動く。粉まみれの少年、パン屋の孫のテトだ。リオは大きな手を振りかけ、やめた。手を振るだけで、テトは後ろに転びそうになるから。
「リオ! 今日、運ぶの手伝ってくれる?」
先に声をかけてくれたのは、パン屋の祖母だった。皺だらけの両手で籠を指す。
「いつも悪いねえ。大きい籠は、おまえさんじゃないと運べないよ」
「……はい。道、広いところを通ります」
リオは身を丸め、籠を抱える。片手でも軽いけれど、両手で。腕と腕の間に、村の家々がすっぽり入ってしまいそうで怖いから。
通りを歩くあいだ、何人かが家の窓から覗いた。視線は冷たくも、好奇でも、どちらでもあった。
テトがこそこそと後ろをついてくる。転びそうになったのを片手で支えると、少年は目を丸くし、すぐ笑った。
「ありがとう! ねえ、リオって、なんでそんなに大きいの?」
素直すぎる問いに、リオは困って微笑む。
「……生まれたら、もう大きかった」
「ふーん。ぼく、リオの背中、山みたいで好きだよ」
その言葉が、胸に静かに沈んだ。山、と呼ばれるのは初めてだった。怪物でも、厄介でもなく。
配達を終える頃、村の中央の広場で、小人たちが集まっていた。長老のシリウスが、細い杖を立てている。
彼はリオを見ると、誰より先に軽く会釈をした。周囲の視線が揺れる。
「昨夜、境の森で地鳴りがあった。根の道が少しずれた。しばらくは子どもだけで森へ入らぬように」
ざわつき。誰かが小声で「まただ」とつぶやく。別の誰かが、リオの足元を見て眉を寄せた。
「長老、地鳴りの跡、あっちの方角でしたよ」
「大きな足跡もあった」
「誰のとは言わぬが、気をつけねば」
矢の先のような言葉が、リオの胴にかする。彼は黙ってうなずいた。
シリウスは、皆と同じように注意を促し、それから静かに付け加えた。
「……大きい者は、足元を見よ。小さい者も、目の前ばかりを見るな」
集会が終わり、人が散っていく。
背を低くして通り抜けようとしたとき、肩に何かが当たった。洗濯物を干していた女が、ぎょっとして洗濯籠を落とす。布が泥に染みた。
「ご、ごめんなさい」
「まったく……気をつけてよ、リオ。あんた、そこにいるだけで風が起きるんだから」
彼女はため息をつき、布を拾い集めた。リオは泥を払おうとして手を止める。触れれば、もっと濡れてしまう。
昼を過ぎると、村は静かになる。働き手は森へ、子どもは学校へ。リオは村はずれの岩場に座り、足をぶらつかせた。
遠く、境の森の辺りが薄く揺れて見える。昨夜の地鳴り。根の道がずれた、という長老の言葉。
気になって仕方がなかった。もし自分の足が原因なら、直したい。ただ、村の誰も、彼に「直せ」とは言わない。言っても無駄だと思っているから。あるいは、近寄ってほしくないから。
雲がひとつ、山の端に引っかかる。リオは立ち上がる。影が伸び、岩場を飲み込む。
「……見てくる」
誰に向けるでもない声。
彼は足音を殺して、森へ向かった。小鳥が一度だけさえずり、すぐ黙る。
境の森の入り口は、子どもの腰ほどの高さの枝でできた門だ。リオは腹ばいになってくぐる。草の匂い、土の冷たさ、苔の湿り。世界が近い。
昨夜の痕跡は、すぐに見つかった。根が持ち上がり、細い道が段差になっている。小人の足には危ない。
リオは両手で根を押し、少しずらして、土を寄せて段差を埋める。指の節が土に沈み、爪に泥が詰まる。息を吐く。
できるだけ、静かに、丁寧に。壊したぶんは直す。だれにも知られなくていい。ただ、それで少し楽になる。
ふいに、風の向きが変わった。
草いきれの向こうから、かすかな足音。軽い、でも急いでいる。
リオは身を縮め、音のする方を見た。木々の間に、ひとつの影。外套の裾が揺れ、月の抜け殻みたいに白い顔が見えた。
「……道に、迷ってしまって」
その声を、たぶん彼は忘れない。
自分より小さくて、でも、なぜか遠くまで届く声だった。
リオはゆっくりと立ち上がる。木々がざわめき、影が二つ、重なった。
彼の心臓が、ひとつ打つ。森が、その鼓動に合わせて、小さく震えた。
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