第十五話 歪んだ因果の迷宮

 カイルの援護によって開かれた道。

 それは、光の粒子がどこまでも続く回廊の終着点、「万象の書庫」の中枢へと至る最後の一本道だった。

 その回廊の最奥、世界の記憶を統べる巨大な光の球体を背にして、記録院の元・院長であった指導者が三人を待ち構えていた。

 彼の表情には、もはや以前のような歪んだ自信はなく、憎悪と焦燥がない交ぜになった、追い詰められた者の色が濃く浮かんでいた。

 三人は勝利を確信し、決意を新たにしてその道へと踏み込む。

 だが、その一歩が、世界の法則を根底から覆す引き金となった。

「――来たか、愚かなる者どもよ」

 指導者の声が響くと同時に、彼が光の球体に手を触れる。

 その瞬間、回廊の最奥にいた指導者の姿が、陽炎のように揺らめき、ぐにゃりと歪んだ。

 目の前にあったはずの通路も、壁も、天井も、全てが意味を失って融解を始める。

「…見事だ。実に、見事な連携だ。少女の言葉が絶望した英雄を奮い立たせ、遠い地からは旧友が不可能と思われた干渉を成功させる。なるほど、それが貴様らの力の源か」

 指導者は、まるで理解しがたい汚物を見るかのような目で彼らを一瞥すると、乾いた嘲笑を漏らした。

「フハハ…ハハハハ!だが、それが絆だと?友情だと? そのような不確定で、非論理的な感情の揺らぎごときで、私が築き上げた世界の完全なる調和を乱してたまるものか!」

 指導者の体そのものが、足元から光の粒子となって崩れ、背後の書庫の中枢へと吸い込まれていく。

 彼は自らの存在を対価に、この空間そのものを、暴走した記憶情報データと一体化させたのだ。

「お前たちには、この無限の因果が作り出す迷宮の中で、永遠に彷徨うがいい!」

 狂気に満ちた哄笑が、もはや特定の位置からではなく、空間のあらゆる場所から響き渡る。

 彼の肉体は消滅し、その意識だけがこの迷宮の法則そのものとなった。

 三人の周囲には、物理法則と因果律が完全に崩壊した「論理迷宮」が形成されていた。

 目の前にあった通路が次の瞬間には分厚い石壁となり、振り向けば、幼い頃の自分が無邪気な顔でこちらを見つめている。

 意味をなさない古代文明の文字の羅列が、光の雨となって降り注ぎ、空間を埋め尽くす。

 あれは、かつてリアムが戦場で見た風景。

 こちらは、リィナが故郷で過ごした祭りの夜。

 そして、アリアが両親を失った悲劇の日。

 ありとあらゆる歴史、記録されなかった「もしも」の物語が、脈絡なく現れては消えていく。

 悪夢そのものが具現化した混沌の世界だった。

「くそっ…!道がないなら、こじ開けるまでだ!」

 リアムは剣を抜き放ち、正面に見える、かつての王都の城壁の幻影に向かって突き進む。

 彼の剣技は音速を超え、あらゆる障害を粉砕するはずだった。

 しかし、切っ先が城壁に触れる寸前、空間そのものが捻じ曲がり、彼の斬撃は明後日の方向へと逸らされてしまう。

 手応えすらない。

 何度斬りつけても、剣は再生するデータの壁を虚しく切り裂くだけで、道は一向に開かれなかった。

 物理的な強さが、ここでは完全に無力化されていた。

「リアムさん、無駄です!私の声も届かない…!」

 リィナは地面に手を触れ、意識を集中させる。

 だが、「大地の声」が拾うのは、無数の偽りの情報ばかりだった。

 あちらに出口があると囁く声、こちらに指導者の気配があると誘う声。

 その全てが、迷宮が作り出した罠だった。

 彼女の類稀なる感知能力さえも、この情報の濁流の前では羅針盤を失った船と同じだった。

 力も、感覚も通じない。

 打つ手のない絶望的な状況に、焦りの色が二人の顔に浮かぶ。

 その時だった。膨大な情報の奔流に圧倒され、顔を青くしながらも、アリアが震える声で叫んだ。

「これは……これは、歴史書に記されることのなかった、無数の『もしも』の物語が…ごちゃ混ぜになって生まれた世界なんです!」

 記録官としての知識が、彼女にこの迷宮の正体を看破させた。

 歴史とは、常に勝者によって紡がれる一つの物語。

 だが、その裏には、敗者の物語、選ばれなかった選択肢、起こり得たかもしれない無数の未来が存在する。

 この空間は、そうした膨大な「もしも」のデータによって構成されているのだ。

 アリアは意を決したように、リアムとリィナを見上げた。

 その瞳には、恐怖を乗り越えた強い意志の光が宿っていた。

「私の能力で……この情報の濁流の中から、私たちが辿ってきた、たった一つの『本当の歴史』を見つけ出します!」

 それは、あまりにも無謀な試みだった。

 彼女の共感能力は、他人の記憶の欠片を読み取る繊細なもの。

 暴走した「万象の書庫アカシック・アーカイブ」の記録データに自らを接続するなど、精神が崩壊しかねない危険な賭けだ。

「やめろ、アリア!お前が壊れてしまう!」

 リアムが制止の声を上げる。

 だが、アリアは静かに首を横に振った。

「いいえ、やります。リアムさんの剣も、リィナさんの力も通じないなら、これが最後の希望です。それに……私はもう、守られているだけの少女じゃありません」

 彼女はそっと目を閉じ、祈るように両手を胸の前で組んだ。

 そして、自らの意識を、この混沌とした空間に満ちる膨大な「歴史の記憶データ」そのものへと接続した。

 瞬間、凄まじい情報の濁流がアリアの精神を襲う。

 何百万、何千万という人々の人生、喜び、悲しみ、憎悪、そして無念の死。

 その全てが、何の区別もなく彼女の意識へと流れ込んでくる。

「ぐっ……あ……!」

 あまりの奔流に、アリアの意識が遠のき、その体がぐらりと傾く。

 だが、その体が地面に倒れることはなかった。

 右からリアムが、左からリィナが、力強く彼女の体を支え、精神的な盾となっていた。

「行け、アリア!お前を信じる!」

「私たちはここにいるわ!一人で背負わないで!」

 仲間の温もりと、揺るぎない信頼の言葉が、アリアの消えかけていた意識を繋ぎとめる。

 彼女は、二人の支えを力に変え、情報の濁流のさらに奥深くへと意識を潜らせていった。

 無数の偽史、歪められた因果、あり得たかもしれない未来の幻影。

 その全てを振り払い、ただ一点、自分たちがこの場所まで辿ってきた、改竄されていない真実の時間の流れ――「正史」を探し求めて。

 どれほどの時間が経っただろうか。アリアの閉ざされた瞼が、微かに震えた。

「……見つけ、ました……!」

 か細いが、確信に満ちた声だった。

 アリアは薄く目を開け、虚空の一点を指さした。

 そこは、リアムの目には、先ほどから何度も攻撃しては再生を繰り返す、ただの虚構の壁にしか見えなかった。

「リアムさん、その壁は偽物です! それは、あなたが子供の頃にどうしても登れなかった故郷の崖の記憶データが作り出した幻影! 本当の道は、その右側に三歩ずれた場所にあります!」

「リィナさん、その奥から聞こえる声に惑わされないで! それは、あなたが特使になる前に追っていた盗賊団の頭領の記録です! 私たちが進むべき地脈は、あなたの足元、真下に流れています!」

 アリアのナビゲートが始まった。

 彼女の共感能力は、もはや単なる記憶の閲覧ではない。

 この論理迷宮を構成する一つ一つの情報データが、何の歴史に基づいたものであるかを正確に看破していた。

 リィナはアリアの言葉を頼りに、自らの感覚を研ぎ澄ます。

 無数の偽情報の中から、アリアが示した一点に意識を集中させると、確かに、濁流の底を流れる清らかな力の奔流――迷宮の中心へと続く唯一の「地脈の正しい流れ」を感じ取ることができた。

「こっちです、リアムさん!」

 リィナの案内に従い、リアムはアリアが指し示した、壁にしか見えない場所へと踏み込む。

 そして、迷わず疾風の剣を振り抜いた。

 彼の剣は、もはや単なる物理的な破壊の力ではない。

 偽りの歴史、歪んだ因果を断ち切り、真実の道を開くという、揺るぎない意志の力そのものとなっていた。

 剣が空間を切り裂いた瞬間、耳を聾するほどの甲高い音と共に、目の前の虚構データの壁に亀裂が走った。

 一度切り開かれた突破口は、連鎖反応を引き起こす。

 アリアが次々と迷宮の構造を暴き、リィナが正規の道筋ルートを特定し、リアムがその道を切り開いていく。

 三人の能力と、揺るぎない信頼が、完璧な三位一体の連携を生み出していた。

 彼らが進むたびに、迷宮がその混沌を失っていく。

 過去の幻影は悲鳴を上げて消え、降り注いでいた文字の雨は光の粒子となって霧散する。

 そして、ついに。

 リアムが最後の一太刀を振るった時、世界を覆っていた悪夢の光景が、巨大なガラスのように粉々に砕け散った。

 後に残されたのは、静寂に包まれた回廊と、その最奥で呆然とする指導者の意識が作り出した、空虚な空間。

 彼に至る、ただ一本の道が、三人の目の前に開かれていた。

「馬鹿な……あり得ん……この私の、完璧な論理迷宮が……人の子ごときに破られるなど……!」

 最後の防御策さえも打ち破られ、完全に狼狽した指導者の声が、空間に響き渡る。

 そして、彼はついに、最後の、そして最悪の手段に訴え出た。

「ならば、お前自身の最強の絶望によって打ち砕いてくれる!」

 指導者は残された全ての権能を解放する。

 「万象の書庫アカシック・アーカイブ」に記録された、一人の剣士の膨大な記録データを引き出し、それをリアムの目の前に具現化させた。

 光の中から現れたのは、リアムと瓜二つの姿。

 だが、その瞳に宿る光は、今の彼が持ち得ない、氷のように冷徹で、誰よりも強く、そして誰よりも孤独だった頃の輝きを放っていた。

 もう一人の自分――「リアムの影」が、静かに剣を構えた。

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