第十四話 宰相のチェス

 リアムの剣に再び力が宿り、アリアの愛がその魂を癒したことで、戦いの潮目は確かに変わった。だが、それは戦局の優位を意味するものではなかった。

 狼狽から立ち直った院長は、その表情を憎悪と侮蔑で歪め、リアムたちを数の力で圧殺せんと、残っていた「偽史の英雄兵団アポクリファ」のすべてをけしかけてきたのだ。

「小賢しい真似を…!だが、無駄だ!人の想いなどという不確かなものが、歴史という絶対的な物量の前にひれ伏すことを教えてやろう!」

 院長の怒号を合図に、数十体の英雄の傀儡が、意思のない津波となって三人と『沈黙の爪サイレント・タロン』の隊員たちに襲いかかる。

 もはや一体一体を相手にする余裕はない。まさしく、人外の領域での乱戦であった。

「リィナ、アリア、俺から離れるな!」

 リアムは覚醒した力で奮戦するが、その剣は仲間を守るためのものへと変わっていた。

 彼は決して深追いはせず、常に二人の周囲を固めるように立ち回り、四方八方から繰り出される斬撃と魔法を、その身を盾にして弾き返す。

「光よ、私たちを守って!」

 リィナは樫の杖を光の床に突き立て、先ほど作り出した光の壁を自在に操る。

 それはもはや固定された壁ではない。

 彼女の意思に応じて形を変え、蛇のようにしなって敵の攻撃を受け流し、時には眩い閃光を放って敵の目を眩ませる、生きた盾となっていた。

 そしてアリアもまた、ただ守られているだけではなかった。

「リィナさん、右翼の魔導師!その詠唱は、広範囲の氷結魔法です!」

「リアムさん、背後から来る騎士、その鎧の記憶には、左膝に古い傷が…そこが弱点です!」

 彼女は自らの共感能力を、敵の分析へと応用していた。

 傀儡たちが持つ、元となった英雄の「記憶」に触れ、その記憶の断片から、彼らの使う技や弱点を瞬時に読み取って二人に伝達する。

 アリアの的確な指示が、二人の行動を最適化する。

 リィナはアリアの警告を受け、光の壁を半球状に変化させて三人を覆い、殺到する氷の槍を完璧に防ぎきった。

 リアムは背後から迫っていた騎士の剣を最小限の動きでいなすと、体勢を崩した相手の左膝の鎧の継ぎ目に、寸分の狂いもなく剣の切っ先を突き立て、その動きを完全に封じた。

 リアムの剣が矛となり、リィナの光が盾となり、アリアの瞳が戦場を見通す羅針盤となる。

 三人の力は完璧に噛み合い、絶望的な物量差にもかかわらず、驚異的な粘りを見せていた。

 だが、それでも状況はジリ貧だった。

 敵は無限に湧き出てくるように感じられ、三人の消耗は着実に限界へと近づいていた。

 このままでは、いずれ力の奔流に飲み込まれる。

 それは、誰の目にも明らかだった。


 ◇


 その頃、遥か東のエレジア王国、王都。

 宰相執務室は、大戦の前の司令部のような、異様な緊張感に包まれていた。

 カイル・ヴァーミリオンは、ここ数日、一睡もしていなかった。

 その切れ長の瞳には深い隈が刻まれ、普段は一分の隙もなく整えられている灰色の髪も、今は無造作に掻き乱されている。

 彼の前には、巨大な黒曜石の盤が置かれていた。

 盤上には、王都を中心とした大陸全土の地形が精密に彫り込まれ、無数の小さな光点が、まるで生きているかのように明滅を繰り返している。

 それは、カイルが数年がかりで王国中に張り巡らせた、情報伝達網の心臓部だった。

「宰相閣下!敵性情報網の逆探知、最終段階に入りました!」

 カイルの背後で、数名の王室直属の解読官たちが、汗だくで作業にあたっていた。

 彼らの目の前には、古代ルーン文字がびっしりと刻まれた水晶板が並べられ、その上を彼らの指が目まぐるしく滑っていく。

 リアムたちが西へ旅立ったあの日から、カイルはただ待っていたわけではない。

 彼は、リアムからの手紙にあった「吟遊詩人」の存在を起点に、「記録院」が大陸中に張り巡らせた偽りの歴史という名の情報網、その流れを逆から追跡する作業を極秘に進めていたのだ。

 それは、大海の中の僅かな流れの、その源流を探し当てるような、途方もない作業だった。

「敵の情報網は、まるで蛇だ。大陸中に張り巡らされた地脈の微かな流れを利用し、我々に気づかれぬよう、その毒を流し込んでいる」

 カイルは、黒曜石の盤上を睨みつけながら呟く。

 盤上の光点は、正常な情報の流れを示す青と、偽史の汚染を示す赤に色分けされていた。

 赤い光点は、当初は王都周辺に散発的に現れるだけだったが、今や大陸全土を覆い尽くさんばかりの勢いで脈動していた。

「だが、どんなに巧妙な蛇でも、必ず頭がある。そして、その頭は心臓と繋がっているはずだ」

「発見しました!座標、特定!敵情報網の中枢…『万象の書庫アカシック・アーカイブ』と思われる空間への、外部からの干渉経路です!」

 一人の解読官が、歓喜とも悲鳴ともつかぬ声を上げた。

 ついに、蛇の首筋に刃を当てる準備が整ったのだ。

 カイルの瞳が、狩人のように鋭く光った。

「よろしい。これより、我々の盤上にて、攻撃を始める」


 カイルは、執務室の奥、普段は分厚いタペストリーで隠されている壁へと向かった。

 彼が壁の石材に手を触れ、古の呪文を唱えると、石壁が音もなく左右にスライドし、秘密の小部屋への入り口が現れる。

 その中央には、黒曜石の盤と対になる、巨大な白水晶の柱が安置されていた。柱の表面には、解読官たちが格闘していたものよりもさらに複雑で、精密な術式がびっしりと刻み込まれている。

「これは、初代国王が遺された、王国の守りの要。王都の地下深くに眠る聖域と繋がり、大陸全土の地脈を観測、そして安定させるための『調律器』だ」

 カイルは、解読官たちに説明する。

「敵が地脈を悪用して毒を流しているのなら、我々はその毒を浄化する薬を、同じ経路で流し込むまでだ」

 彼は、解読官たちが特定した敵の干渉経路の座標を、白水晶の柱に接続された制御盤へと入力していく。

「だが、ただ薬を流すだけでは足りん。敵のシステムは、我々の干渉を即座に検知し、防壁を築くだろう。そこで、一手を打つ」

 カイルは懐から、古びた羊皮紙の巻物を取り出した。

 それは、この国が建国されるよりもさらに昔、神話の時代に書かれたとされる、正真正銘の「原初の記録」の写しだった。

「敵が流しているのは、巧妙に作られた『嘘』の歴史だ。そのシステムに、決して嘘偽りのない、絶対的な『真実』の情報を流し込んだらどうなるか」

 カイルの口元に、チェスの名手が見せるような、冷徹な笑みが浮かんだ。

「システムは、二つの矛盾した情報を処理しきれず、必ず混乱を起こす。その僅かな時間の隙を突き、我々は本命の干渉術式を叩き込む」

 まさに、盤上の駒を一つ犠牲にして、王を獲りに行く、宰相ならではの捨て身の戦術だった。

「全解読官、術式介入を開始せよ!我が友の、そしてこの国の未来は、我々の双肩にかかっている!」

 カイルの号令一下、解読官たちが一斉に詠唱を開始する。

 白水晶の柱が、心臓のように力強く脈動し始め、眩いほどの純白の光を放った。

 王都の地下深くに眠る聖域から汲み上げられた膨大な魔力が、カイルが入力した「原初の記録」の情報と共に、敵のシステムへと逆流していく。

 その瞬間、執務室の黒曜石の盤上で、大陸全土を覆っていた赤い光点が、激しく明滅し、乱れ始めた。

 敵のシステムが、予期せぬ情報の奔流に、悲鳴を上げている証拠だった。


 ◇


 その変化は、「万象の書庫アカシック・アーカイブ」で戦うリアムたちにも、即座に伝わった。

 あれほど統率の取れていた「偽史の英雄兵団アпокрифа」の動きが、突如として乱れ始めたのだ。

 ある者はその場で動きを止め、ある者は仲間であるはずの傀儡に斬りかかり、またある者は、その体が陽炎のように揺らめき、存在が不安定になっている。

「どうした…!なぜだ、なぜ私の命令に従わん!」

 院長が、狼狽した声を上げる。彼の「万象の書庫アカシック・アーカイブ」への支配が、何者かによって外側から揺さぶられていた。

「システムに、外部から正体不明の干渉が…!?馬鹿な、この空間への経路は、完全に秘匿したはず…!」

 リアムは、その好機を見逃さなかった。

「カイルか…!やりやがったな、あいつ…!」

 旧友の援護であることを、彼は瞬時に理解した。

「今だ!道を切り開く!」

 リアムの号令に、リィナとアリア、そして反撃の機を窺っていた『沈黙の爪サイレント・タロン』の隊員たちが一斉に応じる。

 敵の陣形が崩れた今、もはや彼らを阻むものはなかった。

 リアムの白銀の剣が、混乱する傀儡たちを次々と薙ぎ払い、リィナの光の壁が、残った敵を押し留める。

 彼らは、崩れゆく「偽史の英雄兵団アポクリファ」の軍勢の中を一直線に駆け抜けた。

 その先、光の回廊の最も奥。

 狼狽し、システムの防御と回復に追われる院長の、無防備な背中が見えていた。

 宰相が盤上で動かした駒は、今、敵の中枢キングに、チェックメイトをかけようとしていた。

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