第十話 魂の原風景

 西方の古代遺跡、環状列石ストーンサークルの中心で、アリアとリィナは三日後の満月を待っていた。

 だが、その静かな緊張を破ったのは、アリアの魂を直接揺さぶる、絶望的な感覚だった。

 遠い北の地で燃え盛っていたはずの、リアムの生命の灯火。

 それが、まるで巨大な何かに押し潰されるかのように、一瞬でかき消えそうになったのだ。

 それは、彼が要塞の最深部で崩れ落ちた、まさにその瞬間だった。

「…っ、ぁ…!」

 アリアはその場に膝から崩れ落ち、胸を押さえて激しく喘いだ。

 彼女の共感能力が捉えたのは、もはや瀕死の苦しみではない。

 一度、確かに「死」の淵へと沈んだ、魂の悲鳴だった。

「アリアさん!?」

 リィナが駆け寄り、彼女の肩を支える。

 アリアは涙を浮かべた瞳で、かろうじて北の空を指さした。

「リアムさんが…!…彼の魂が…!」

 その言葉は、リィナの冷静さをも打ち砕いた。

 アリアの能力が捉えたものが、ただの予感ではないことを、彼女は痛いほど理解していた。

「…万象の書庫アカシック・アーカイブは、また探せます。でも、リアムさんを失ったら、二度と取り戻すことはできません」

 リィナは迷わなかった。

 二人は視線を交わし、強く頷き合うと、目前に迫った伝説への道を捨て、一人の仲間の命を救うため、北方の峻嶺へと、必死の捜索行を開始した。

 二人の捜索と、リアムの死の淵からの彷徨は、奇しくも同時に始まっていた。

 崩落する要塞の中で一度は意識を手放したリアムだったが、全身を襲う激痛と、脳裏をよぎった仲間たちの顔、彼らを悲しませたくないという強い思いが、彼を再び覚醒させた。

「…まだ…死ねるかよ…!」

 全身の骨が軋み、裂けた傷口から再び血が滲み出す。

 だが、彼は剣を杖代わりに、執念だけでその体を起こし、崩れ落ちる瓦礫の隙間を縫って、本能だけで出口へと向かった。

 そして、背後で最後の通路が完全に崩落するのとほぼ同時に、満身創痍の体を雪原へと投げ出したのだ。

 そこからが、本当の地獄だった。

 猛吹雪が容赦なく体温を奪い、流血が意識を朦朧とさせる。

 一歩進むごとに、足は鉛のように重くなっていく。

 それでも彼は、倒れるたびに剣を雪に突き立てて立ち上がり、一歩、また一歩と、死に抗い続けた。

 その間、アリアとリィナもまた、必死の捜索を続けていた。

 吹雪は視界を奪い、リィナの聞く大地の声さえも掻き乱す。

 唯一の頼りは、アリアが感じる、か細く、しかし決して途切れないリアムの魂の残滓だけだった。

「こっちです…!この風の向こうに…まだ生きています…!」


 そして、リィナとアリアが捜索を始めて数日が過ぎた夜明け前。

 リアムの歩みは、ついに限界を迎えた。

 最後の力を振り絞って一歩を踏み出した彼の体は、それ以上動くことを拒絶し、静かに雪原へとその身を横たえた。

 ほぼ同時に、アリアの表情から血の気が引いた。

「…灯火が…消えそうです…!すぐそこにいます!」

 二人は最後の力を振り絞って駆け出し、ついに吹雪の吹き荒れる雪原の只中で、黒い人影を発見する。

 それは、雪と氷に半ば埋もれた、リアムの姿だった。

 彼の体は、まるで死蝋のように冷え切り、呼吸も脈も、かろうじて感じ取れるかどうかというほどに弱々しい。

「リアムさん!しっかりしてください!」

 二人は彼の体を揺さぶり、名前を呼び続けるが、反応はない。

 リィナは近くの岩陰に風を避けられる小さな洞窟を見つけ、二人がかりでリアムの衰弱し切った体をそこへと運び込んだ。

 

 洞窟の中は、外の地獄のような吹雪が嘘のように静かだった。

 リィナが火を起こし、薬草を煎じている間、アリアはただ、朦朧とするリアムの手を握りしめ、自らの体温で彼を温め続けていた。

 彼女の能力を通じて、彼の記憶や感情が、途切れることなく流れ込んでくる。

 それは、もはや英雄の伝説などではなかった。一人の男が背負い込んできた愛と罪、そして、あまりにも深い後悔の物語だった。

 友を守れなかった無念。

 交わした約束を果たせなかったという自責の念。

 その痛みが、彼の魂を蝕み、生きる力そのものを奪おうとしていた。

(このままでは、彼の心が死んでしまう…!)

 アリアは、彼の命を繋ぎとめるため、意を決した。

 恐怖を押し殺し、彼の記憶の、最も深く、最も触れてはならない聖域へと、自らの意識を同調させていく。

 彼女は、彼の魂の深淵へと、潜り込んだダイブしたのだ。

 瞬間、アリアの意識は、リアムの記憶の奔流に飲み込まれた。

 最初に流れ込んできたのは、陽光が降り注ぐ、どこまでも青い草原の記憶だった。

 まだ十歳にも満たないであろう少年リアムが、同じ年頃の快活な少年と、木切れの剣を打ち鳴らしている。

『俺が伝説の聖剣士だ!お前は邪竜役な、ガレス!』

『なんだよそれ!昨日やったばかりじゃないか!今日は俺が英雄で、お前が悪の魔法使いだ!』

 太陽の匂い、汗のしょっぱさ、草いきれの香り、そして腹の底から笑い合う二人の無邪気な声。

 後に「竜殺しの英雄」と並び称されることになるガレス・ストーンハートとの、汚れなき友情の原風景。

 アリアの胸に、温かい光が灯る。

 次の瞬間、風景は一変する。

 王都の広場を埋め尽くす、熱狂した大観衆の渦。

 紙吹雪のように舞う無数の花びらの中を、鎧姿の青年リアムとガレスが、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに馬を進めていた。

「『竜殺しの英雄』万歳!」

「疾風のリアム!」

「ストーンハート卿!」

 地鳴りのような歓声が、アリアの鼓膜を揺さぶる。

 人々から注がれる純粋な賞賛と尊敬の眼差し。

 大陸を救った英雄として、栄光の絶頂にあった頃の記憶。

 だが、その輝かしい光景の奥で、リアムの心にかすかな戸惑いの色が浮かんでいるのを、アリアは見逃さなかった。

 この熱狂の裏で、名もなき多くの犠牲があったことを、彼は既に知っていたのだ。

 その戸惑いが引き金になったかのように、歓声は断末魔の叫びへと変わり、祝福の花吹雪は、冷たい雨と血飛沫になった。

 アリアの五感は、リアムの最も深い記憶へと引きずり込まれる。

 大陸を脅かした竜との激戦の最中。

 降りしきる雨が、泥と血の匂いを洗い流す戦場。

 若かったリアムは、致命傷を負い、今にも息絶えようとしている若い兵士を腕に抱いていた。

 兵士は、リアムよりもさらに若く、まだ少年と呼んでもいいほどの歳だった。

『…頼む…故郷に…妻と、生まれたばかりの娘がいるんだ…。俺はもう、帰れない…。だから、この地獄を…終わらせてくれ…』

 兵士は、最後の力を振り絞り、リアムの腕を弱々しく掴んだ。

 リアムは、何も言えなかった。

 無力な自分を責めながら、ただ腕の中の命が失われていくのを感じていることしかできない。

 やがて兵士の腕から力が抜け、その瞳から光が失われた。

 リアムは、その兵士の亡骸を強く、強く抱きしめた。

 そして、天を仰ぎ、雨に打たれながら誓ったのだ。

『…お前の愛した者たちは、俺がこの命に代えても守ってやる。そして、このくだらない戦争も、必ず終わらせてみせる…!』

 それは、誰に聞かせるでもない、忘れられた兵士との、たった一つの約束だった。

 アリアは、全てを理解した。

 無邪気な少年時代の夢も、英雄としての栄光も、その全てを懸けてでも守りたかった約束も。

 彼が背負ってきた、ガレスを守れなかったという罪の意識も、かつての戦友を殺さなければならなかったという哀しみも、その根源には、この名もなき兵士と交わした、あまりにも純粋で、そして重い約束があったのだ。

 彼の全ての戦いは、この「愛」と「友情」を守るためのものだった。

 アリアの心の中で、彼への尊敬と共感は、明確な愛情へと昇華した。

 この人の背負うもの全てを、自分も一緒に背負いたい。

 この人の孤独を、自分の愛で包み込みたい。


 数刻後、リアムはうっすらと目を開けた。

 最初に映ったのは、燃え盛る焚き火の炎と、心配そうに自分の顔を覗き込む、金色の髪の少女の姿だった。

 彼女は、自分の手を固く握りしめたまま、こくりこくりと舟を漕いでいる。

 リアムは、自分の魂の最も深い部分に触れられながらも、ただ静かにそばに居続けてくれた彼女の姿に、これまで感じたことのない、穏やかな安らぎと絶対的な信頼を覚えた。

 彼はもう一度、ゆっくりと目を閉じる。

 傷はまだ深く、体は鉛のように重い。

 だが、彼の心を覆っていた、長年の孤独という名の厚い氷は、彼女の温もりによって、静かに溶け始めていた。

 彼の中で、アリアは守るべきか弱い「少女」から、心を許し、背中を預けられる対等な一人の「女性」へと、その存在を確かに変えていた。

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