第十話 魂の原風景
西方の古代遺跡、
だが、その静かな緊張を破ったのは、アリアの魂を直接揺さぶる、絶望的な感覚だった。
遠い北の地で燃え盛っていたはずの、リアムの生命の灯火。
それが、まるで巨大な何かに押し潰されるかのように、一瞬でかき消えそうになったのだ。
それは、彼が要塞の最深部で崩れ落ちた、まさにその瞬間だった。
「…っ、ぁ…!」
アリアはその場に膝から崩れ落ち、胸を押さえて激しく喘いだ。
彼女の共感能力が捉えたのは、もはや瀕死の苦しみではない。
一度、確かに「死」の淵へと沈んだ、魂の悲鳴だった。
「アリアさん!?」
リィナが駆け寄り、彼女の肩を支える。
アリアは涙を浮かべた瞳で、かろうじて北の空を指さした。
「リアムさんが…!…彼の魂が…!」
その言葉は、リィナの冷静さをも打ち砕いた。
アリアの能力が捉えたものが、ただの予感ではないことを、彼女は痛いほど理解していた。
「…
リィナは迷わなかった。
二人は視線を交わし、強く頷き合うと、目前に迫った伝説への道を捨て、一人の仲間の命を救うため、北方の峻嶺へと、必死の捜索行を開始した。
二人の捜索と、リアムの死の淵からの彷徨は、奇しくも同時に始まっていた。
崩落する要塞の中で一度は意識を手放したリアムだったが、全身を襲う激痛と、脳裏をよぎった仲間たちの顔、彼らを悲しませたくないという強い思いが、彼を再び覚醒させた。
「…まだ…死ねるかよ…!」
全身の骨が軋み、裂けた傷口から再び血が滲み出す。
だが、彼は剣を杖代わりに、執念だけでその体を起こし、崩れ落ちる瓦礫の隙間を縫って、本能だけで出口へと向かった。
そして、背後で最後の通路が完全に崩落するのとほぼ同時に、満身創痍の体を雪原へと投げ出したのだ。
そこからが、本当の地獄だった。
猛吹雪が容赦なく体温を奪い、流血が意識を朦朧とさせる。
一歩進むごとに、足は鉛のように重くなっていく。
それでも彼は、倒れるたびに剣を雪に突き立てて立ち上がり、一歩、また一歩と、死に抗い続けた。
その間、アリアとリィナもまた、必死の捜索を続けていた。
吹雪は視界を奪い、リィナの聞く大地の声さえも掻き乱す。
唯一の頼りは、アリアが感じる、か細く、しかし決して途切れないリアムの魂の残滓だけだった。
「こっちです…!この風の向こうに…まだ生きています…!」
そして、リィナとアリアが捜索を始めて数日が過ぎた夜明け前。
リアムの歩みは、ついに限界を迎えた。
最後の力を振り絞って一歩を踏み出した彼の体は、それ以上動くことを拒絶し、静かに雪原へとその身を横たえた。
ほぼ同時に、アリアの表情から血の気が引いた。
「…灯火が…消えそうです…!すぐそこにいます!」
二人は最後の力を振り絞って駆け出し、ついに吹雪の吹き荒れる雪原の只中で、黒い人影を発見する。
それは、雪と氷に半ば埋もれた、リアムの姿だった。
彼の体は、まるで死蝋のように冷え切り、呼吸も脈も、かろうじて感じ取れるかどうかというほどに弱々しい。
「リアムさん!しっかりしてください!」
二人は彼の体を揺さぶり、名前を呼び続けるが、反応はない。
リィナは近くの岩陰に風を避けられる小さな洞窟を見つけ、二人がかりでリアムの衰弱し切った体をそこへと運び込んだ。
洞窟の中は、外の地獄のような吹雪が嘘のように静かだった。
リィナが火を起こし、薬草を煎じている間、アリアはただ、朦朧とするリアムの手を握りしめ、自らの体温で彼を温め続けていた。
彼女の能力を通じて、彼の記憶や感情が、途切れることなく流れ込んでくる。
それは、もはや英雄の伝説などではなかった。一人の男が背負い込んできた愛と罪、そして、あまりにも深い後悔の物語だった。
友を守れなかった無念。
交わした約束を果たせなかったという自責の念。
その痛みが、彼の魂を蝕み、生きる力そのものを奪おうとしていた。
(このままでは、彼の心が死んでしまう…!)
アリアは、彼の命を繋ぎとめるため、意を決した。
恐怖を押し殺し、彼の記憶の、最も深く、最も触れてはならない聖域へと、自らの意識を同調させていく。
彼女は、彼の魂の深淵へと、
瞬間、アリアの意識は、リアムの記憶の奔流に飲み込まれた。
最初に流れ込んできたのは、陽光が降り注ぐ、どこまでも青い草原の記憶だった。
まだ十歳にも満たないであろう少年リアムが、同じ年頃の快活な少年と、木切れの剣を打ち鳴らしている。
『俺が伝説の聖剣士だ!お前は邪竜役な、ガレス!』
『なんだよそれ!昨日やったばかりじゃないか!今日は俺が英雄で、お前が悪の魔法使いだ!』
太陽の匂い、汗のしょっぱさ、草いきれの香り、そして腹の底から笑い合う二人の無邪気な声。
後に「竜殺しの英雄」と並び称されることになるガレス・ストーンハートとの、汚れなき友情の原風景。
アリアの胸に、温かい光が灯る。
次の瞬間、風景は一変する。
王都の広場を埋め尽くす、熱狂した大観衆の渦。
紙吹雪のように舞う無数の花びらの中を、鎧姿の青年リアムとガレスが、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに馬を進めていた。
「『竜殺しの英雄』万歳!」
「疾風のリアム!」
「ストーンハート卿!」
地鳴りのような歓声が、アリアの鼓膜を揺さぶる。
人々から注がれる純粋な賞賛と尊敬の眼差し。
大陸を救った英雄として、栄光の絶頂にあった頃の記憶。
だが、その輝かしい光景の奥で、リアムの心にかすかな戸惑いの色が浮かんでいるのを、アリアは見逃さなかった。
この熱狂の裏で、名もなき多くの犠牲があったことを、彼は既に知っていたのだ。
その戸惑いが引き金になったかのように、歓声は断末魔の叫びへと変わり、祝福の花吹雪は、冷たい雨と血飛沫になった。
アリアの五感は、リアムの最も深い記憶へと引きずり込まれる。
大陸を脅かした竜との激戦の最中。
降りしきる雨が、泥と血の匂いを洗い流す戦場。
若かったリアムは、致命傷を負い、今にも息絶えようとしている若い兵士を腕に抱いていた。
兵士は、リアムよりもさらに若く、まだ少年と呼んでもいいほどの歳だった。
『…頼む…故郷に…妻と、生まれたばかりの娘がいるんだ…。俺はもう、帰れない…。だから、この地獄を…終わらせてくれ…』
兵士は、最後の力を振り絞り、リアムの腕を弱々しく掴んだ。
リアムは、何も言えなかった。
無力な自分を責めながら、ただ腕の中の命が失われていくのを感じていることしかできない。
やがて兵士の腕から力が抜け、その瞳から光が失われた。
リアムは、その兵士の亡骸を強く、強く抱きしめた。
そして、天を仰ぎ、雨に打たれながら誓ったのだ。
『…お前の愛した者たちは、俺がこの命に代えても守ってやる。そして、このくだらない戦争も、必ず終わらせてみせる…!』
それは、誰に聞かせるでもない、忘れられた兵士との、たった一つの約束だった。
アリアは、全てを理解した。
無邪気な少年時代の夢も、英雄としての栄光も、その全てを懸けてでも守りたかった約束も。
彼が背負ってきた、ガレスを守れなかったという罪の意識も、かつての戦友を殺さなければならなかったという哀しみも、その根源には、この名もなき兵士と交わした、あまりにも純粋で、そして重い約束があったのだ。
彼の全ての戦いは、この「愛」と「友情」を守るためのものだった。
アリアの心の中で、彼への尊敬と共感は、明確な愛情へと昇華した。
この人の背負うもの全てを、自分も一緒に背負いたい。
この人の孤独を、自分の愛で包み込みたい。
数刻後、リアムはうっすらと目を開けた。
最初に映ったのは、燃え盛る焚き火の炎と、心配そうに自分の顔を覗き込む、金色の髪の少女の姿だった。
彼女は、自分の手を固く握りしめたまま、こくりこくりと舟を漕いでいる。
リアムは、自分の魂の最も深い部分に触れられながらも、ただ静かにそばに居続けてくれた彼女の姿に、これまで感じたことのない、穏やかな安らぎと絶対的な信頼を覚えた。
彼はもう一度、ゆっくりと目を閉じる。
傷はまだ深く、体は鉛のように重い。
だが、彼の心を覆っていた、長年の孤独という名の厚い氷は、彼女の温もりによって、静かに溶け始めていた。
彼の中で、アリアは守るべきか弱い「少女」から、心を許し、背中を預けられる対等な一人の「女性」へと、その存在を確かに変えていた。
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