第九話 記録された剣
第九話 記録された剣
リアム・ブレイドの陽動作戦は、最終局面を迎えていた。
南方の毒沼に潜む粘質の番人を屠り、中央山脈の廃坑に仕掛けられた無数の罠を突破し、東部の砂塵舞う渓谷で地の利を得たゴーレムを打ち破る――大陸各地に点在する「記憶の祠」を、彼はその異名が示す通り、疾風の如く駆け巡り、次々と破壊してきた。
その旅路は、常に死と隣り合わせの孤独な戦いであった。
肩を斬られれば自ら針を取り、焚き火の明かりを頼りに傷口を縫合した。
凍える夜は、燃えさしとなった薪の僅かな熱で独り体を温め、干し肉を齧りながら、思考を次の戦いへと切り替える。
疲労と消耗が彼の肉体を蝕み、魂を少しずつ削っていく。
だが、心が折れそうになるたび、彼の脳裏をよぎるのは仲間たちの顔だった。
王都でこの大陸の未来を盤上に見据え、最善の一手を打ち続けようとしている旧友カイル。
そして、今頃どこかで伝説の書庫への道を探しているであろう、リィナとアリア。
特に、あの金色の髪の少女が東の空へ向けた祈りは、不思議な温もりとなって絶望の淵から彼を救い出してくれた。
あの一件以来、リアムは自らが一人ではないことを確かに感じていた。
その感覚が、彼の剣を、そして心を支える最後の砦となっていた。
そして今、彼は最後の標的の前に立っていた。
大陸北方、天を突く峻嶺が連なる山脈地帯。
その万年雪を抱く頂の一つを、丸ごとくり抜いて築かれた巨大な建築物。
それはもはや「祠」というより、一つの黒い城塞と呼ぶのが相応しかった。
ここが、この地方における「記録院」の最大拠点であり、リアムの陽動を阻止するために、敵が最大の戦力を投入した最後の砦であった。
リアムは数日をかけて潜入経路を探り、月もない闇夜、猛吹雪が視界を奪うタイミングを見計らって行動を開始した。
城壁に走る僅かな亀裂から内部へと侵入し、無数に張り巡らされた魔力罠と、強化された警備網を、これまでの戦いで極限まで研ぎ澄まされた経験と獣じみた直感で潜り抜けていく。
そして彼はついに、要塞の心臓部である最深部にたどり着いた。
そこは、がらんとした巨大な円形の広間だった。
天井はなく、吹き抜けになった空からは絶えず雪が吹き込み、床の中央には、これまで破壊してきたものよりもさらに巨大で、禍々しい紫色の光を放つ水晶が鎮座していた。
そして、その水晶を守るように、一体のゴーレムが静かに佇んでいた。
それは、かつてリューベックの祠で戦った、友ガレスの姿を模したゴーレムではなかった。
特定の誰かを思わせる特徴はなく、ただ戦闘のためだけに全ての装飾を削ぎ落とした、機能美の極致ともいえる黒鉄の塊。
その滑らかな装甲には継ぎ目一つなく、降り積もる雪を音もなく弾いている。
両手には、リアムが長年使い込んできたものと同様の、一振りの白銀の長剣が握られていた。
「最後の番人、というわけか」
リアムは剣を抜き放ち、静かに間合いを詰める。
これまでの戦いで負った無数の傷が、酷使した肉体が悲鳴を上げるが、気力でそれを捻じ伏せた。
ゴーレムは応えない。
ただ、その頭部にある単眼の水晶レンズが、リアムの姿を捉えて深紅の光を灯した。
先手を取ったのはリアムだった。
凍てついた床を蹴り、疾風の名に恥じぬ神速の一撃を叩き込む。
常人であれば反応すらできぬ初撃。
だが、信じられないことが起きた。
ゴーレムは、リアムの剣閃を完全に予測していたかのように半歩下がり、最小限の動きで完璧にその一撃を受け流し、リアム自身の勢いを殺して見せたのだ。
「何…!?」
驚愕に目を見開くリアムに、ゴーレムは流れるような動きで反撃に転じる。
剣を交えるたびに、リアムの焦りは恐怖に近い確信へと変わっていった。
このゴーレムは、リアムの動きを読んでいるのではない。
全てを「知っている」のだ。
「記録院」は、リアムを倒すためだけの切り札を用意していた。
彼らが「
それを、この最後の番人に注ぎ込んでいたのだ。
彼の得意技、長年の戦いで染みついた僅かな癖、呼吸のリズム、そして思考のパターンさえも。
ゴーレムは、リアムが次にどう動くかを完璧に予測し、常に一手先を行く動きで彼を翻弄した。
「くそっ!」
リアムは一度大きく距離を取り、戦術を切り替える。
速さで撹乱しようと、広間を縦横無尽に駆け、変幻自在の軌道で斬りかかる。
だが、ゴーレムは彼の目まぐるしい動きに一切惑わされない。
リアムが次に踏み込むであろう未来の位置に、既にカウンターの刃を置いて待っているのだ。
まるで、熟練の棋士が初心者を弄ぶかのように。
ならばと力でねじ伏せようと大技を繰り出せば、その後の僅かな体勢の崩れを的確に突かれ、逆に鎧の隙間に寸分の狂いもない一撃を叩き込まれる。
「ぐっ…!」
ゴーレムの剣が、リアムの防御の僅かな隙間を縫って肩を掠めた。
浅いが、確実な一撃。
血が滲み、吹雪の冷気が傷口を焼く。
リアムは肉体的にも精神的にも、極限まで追い詰められていった。
戦いは泥沼の様相を呈し、彼の体にはおびただしい数の切り傷が、まるで過去の戦いの軌跡をなぞるように増えていった。
(これが、俺の限界か…)
ついに膝をつき、荒い息を繰り返すリアムの脳裏に、諦めの言葉が浮かんだ。
彼の知る全ての技が、通用しない。
仲間を失い、ただ一人で戦い続けてきた過去の自分の剣が、もはやこの敵には届かないことを悟ったのだ。
その時だった。
彼の心に、アリアとリィナと共にした旅の記憶が、吹雪の中の灯火のように、鮮やかに蘇った。
リィナの「大地の声」に何度も助けられたこと。
アリアの真っ直ぐな瞳に、心を揺さぶられたこと。
そして何より、「あなたは一人じゃない」と、遠くから届いたあの温かい祈り。
そうだ、俺はもう、独りではない。
背中を預けられる仲間がいる。
守りたいと、心から願う者たちがいる。
その想いが、リアムの心に、そして彼の剣筋に、戦闘記録には存在しない僅かな「揺らぎ」を生んだ。
ゴーレムが、リアムの疲労と負傷というデータを基に、完璧なとどめの一撃を放つ。
それは、かつてのリアムならば間違いなく、より速い剣で迎撃していたであろう、最短にして最速の突き。
だが、今のリアムは、その一瞬、ほんの僅かに剣を引いた。
それは守るべき仲間を脳裏に描いたが故の、コンマ数秒の「ためらい」であり、「慈しみ」だった。
その予測不能な動きに、ゴーレムの完璧な論理回路が初めて混乱を起こす。
未来予測に、ほんの僅かな誤差が生じた。
その致命的な隙を、リアムが見逃すはずがなかった。
「お前が知っているのは、独りだった頃の、過去の俺の剣だ!」
リアムの最後の一撃は、疾風の速さだけではなかった。
仲間を想う心の「重み」が乗っていた。
記録にはないその一閃が、ついにゴーレムの胸部装甲を貫き、内部の魔力核を砕いた。
単眼のレンズから深紅の光が明滅し、やがて消える。
ゴーレムは動きを止め、ただの黒鉄の塊となって音もなく崩れ落ちた。
激闘の末、リアムは勝利した。だが、その代償はあまりにも大きかった。
彼の体は無数の傷で覆われ、もはや立っているのもやっとだった。
だが、まだ終われない。
彼は最後の力を振り絞り、よろめきながら広間の中央へと歩を進め、祠の核である紫水晶に白銀の剣を突き立てた。
水晶が甲高い悲鳴を上げて砕け散ると同時に、要塞全体が地響きを立てて崩壊を始めた。
降り注ぐ瓦礫と雪の中、リアムはもう動くことができなかった。
薄れゆく意識の中で、彼はただ、仲間たちの無事を祈った。
(アリア…リィナ…あとは、頼んだぞ…)
厳しい山脈の風が、彼の頬に血の匂いを纏った雪片を運びつけていた。
彼の体は、静かに闇と静寂の中へと沈んでいった。
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