第19話
ラウル騎士団長と名乗ったその人は、辺境伯様からの手紙を私に差し出した。
その手は、美しく鍛えられた剣士のものだった。
ごつごつしているけれど、指の動きはとてもしなやかだ。
私は夢を見ているような気分のまま、その手紙を受け取った。
羊皮紙に押されたジルベール家の紋章が、ずしりと重く感じられる。
それはこの土地を治める人の、確かな意志の重みだった。
手紙を読み終えた私を見て、ラウル騎士団長は顔を上げた。
その青い瞳は、どこまでも真っ直ぐに私を見つめている。
「エリアーナ殿、ジルベール様はあなたにお会いするのを心よりお待ちです」
その言葉は、まるで天からのお告げのようだった。
アルノー商会が仕掛けた卑怯な罠の闇を切り裂く、とても強い光が差し込もうとしていた。
私は、震える手で招待状を握りしめた。
目の前にいる銀色の騎士を、見つめることしかできない。
「お受け、いたします」
やっと絞り出した私の声は、自分でも驚くほどにか細かった。
そして、少し震えていた。
しかしその声を聞いたラウル騎士団長の表情が、ふっと柔らかくなる。
まるで鋼のようだったその顔に、人間らしい温かさが宿った。
「ご理解いただき、感謝いたします。では早速ですが、明後日の朝には出発していただきたく思います」
「みょ、明後日ですか」
あまりに急な話に、私は思わず変な声を上げてしまった。
隣にいたバルトさんも、驚いたように目を見開いている。
「は、早すぎるだろう。いくらなんでも、準備の時間というものがある」
「事態は、一刻を争うのです」
ラウル騎士団長の声が、再び厳しいものに戻る。
「我々がこの町へ来る途中、アルノー商会の傭兵団の怪しい動きを何度も見ました。彼らはこのフロンティアの町を、完全に孤立させるつもりです」
彼の言葉は、私達の状況がいかに危険であるか改めて教えてくれた。
「ジルベール様は、それを深く心配されています。これ以上の乱暴な行いを許す前に、エリアーナ殿を正式に保護する必要があるのです。そのための、話し合いの場でございます」
「分かりました。明後日の朝ですね、準備を間に合わせます」
私は、覚悟を決めて頷いた。
ラウル騎士団長は、満足そうに頷き返す。
「ご安心を。道中の警護は、我々近衛騎士団が全力で行います。あなた様の身に、指一本触れさせはしません」
その言葉は、絶対の自信に満ちていた。
辺境伯が誇る最強の騎士団が味方でいてくれる事実は、何よりも心強かった。
ラウル騎士団長とその部下たちは、ギルドが用意した宿へと向かった。
後に残された部屋には、興奮と緊張が混じった不思議な空気が満ちている。
「すげえことになっちまったな」
バルトさんが、まるで他人事のように言った。
その顔は、まだ信じられないという表情だ。
「エリアーナ、お前さんは本当に辺境伯様に会うんだな」
「はい。この機会を、逃すわけにはいきません」
「そうじゃな。これは、我らにとってまたとない良い機会じゃ」
ザック先生も長い髭をさすりながら、深く頷いた。
彼の目にも、新たな希望の光が宿っている。
「よし、こうしてはいられない。エリアーナはすぐに店に戻って準備だ、ミーナも手伝え」
バルトさんの号令で、私たちは一気に現実へと引き戻された。
残された時間は、一日と半日しかない。
やるべきことは、山のようにあった。
私たちは、嵐のように店へと帰った。
話を聞いたアンナさんは、目を丸くして驚いていた。
だが、すぐにきびきびと動き始めてくれる。
「大変です。お会いする時に渡す、贈り物を選ばないと」
「服装も、どうしましょうか。辺境伯様にお会いするのに、こんな普段着では失礼です」
アンナさんとミーナさんは、女性らしい考えで忙しく準備を進めていく。
私は二階の工房で、贈り物の最後の確認と箱詰め作業を始めた。
この前送ったものと同じでは、意味がない。
今回は私自身が、直接その価値を説明するのだ。
より効果が分かりやすく、辺境伯様の心に響くような品を選ぶ必要があった。
ポーション三種類と、聖銀の雫は当然として。
化粧品の中から、特に品質の高いレインボー・ドロップ。
そしてザック先生と開発した、騎士の体を癒すための薬湯の素。
それらをゴードンさん特製の、更に豪華な木箱へと詰めていく。
「エリアーナさん、服装のことですが」
アンナさんが、息を切らせて工房に駆け込んできた。
「町の仕立て屋さんに駆け込んでみましたが、今から正装を作るのはとても間に合わないそうです」
「どうしましょう、こんなことなら前もって準備しておくべきでした」
彼女は、本気で悔しそうな顔をしている。
その時、店の階下から穏やかでよく通る声が響いた。
「そのことでしたら、ご心配はいりませんわ」
声がした方を見ると、そこには町の宿屋の女将さんが立っていた。
彼女の後ろには雑貨屋の奥さんや、パン屋の娘さん達がずらりと並んでいる。
その手には色とりどりの布や、裁縫道具が握られていた。
「女将さん、皆さん、どうして」
「エリアーナさんが大変な時だと聞いたから、私達にできる事なら何でも手伝いますよ」
「そうです、辺境伯様に会うのにみすぼらしい格好はさせられません」
「私達で、エリアーナさんに一番似合うドレスを仕立ててみせますわ」
女性たちは、にっこりと笑ってそう言ってくれた。
私の知らないところで、話はすでに町中に広まっていたらしい。
そして誰もが自分のことのように、私のために動いてくれようとしていた。
胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。
涙が、溢れそうになるのを必死で堪えた。
「ありがとうございます、皆さん」
深く頭を下げる私に、女将さんは優しく微笑みかけた。
「いいんですよ、エリアーナさんはこの町の宝なんですからね」
その夜、私の店の明かりは一晩中消えることがなかった。
町の女性たちが交代で集まり、私のためのドレスを縫ってくれる。
チクチクという、針の進む音。
楽しそうな、女性達のおしゃべりの声。
その全てが温かい応援歌のように、私の耳に響いていた。
次の日の朝に完成したドレスを見て、私は言葉を失った。
それは深い森の色をした、気品ある美しいドレスだった。
派手な飾りはないけれど、良い生地と丁寧な作りが私の体を綺麗に見せてくれる。
胸元には銀色の糸で、店の印であるハーブの刺繍が小さく施されていた。
「エリアーナさん、すごくきれいです」
アンナさんが、うっとりとため息を漏らす。
ミーナさんも珍しく真面目な顔で、何度も何度も頷いていた。
出発の朝は、驚くほど穏やかに晴れ渡っていた。
店の前にはラウル騎士団長が率いる、十人の近衛騎士たちが綺麗に馬を並べている。
銀色の甲冑が朝の光に反射して、眩しいほどに輝いていた。
「準備は、よろしいかな、エリアーナ殿」
ラウル騎士団長が、馬の上から私に問いかける。
私は作ってもらったばかりのドレスの上に、旅のための上着を羽織っていた。
その隣には同じく旅支度を整えた、バルトさんとミーナさんの姿がある。
バルトさんは、ギルドの代表として。
ミーナさんは私の護衛と道案内役として、旅に同行してくれることになったのだ。
店の前には町の殆どの人が集まったかと思うほど、大勢が見送りに来てくれていた。
「エリアーナさん、気をつけてな」
「聖女様、いってらっしゃい」
「ジルベール様に、よろしく伝えてくれよな」
皆が、笑顔で手を振ってくれる。
その温かい声援に送られて、私たちは馬に乗った。
私が乗るのはラウル騎士団長が用意してくれた、大人しくて賢い白馬だ。
馬に乗るのは初めてだったが、不思議と怖さは感じなかった。
「出発する」
ラウル騎士団長の合図と共に、騎士団はゆっくりと動き出した。
町の門を抜ける時、私は一度だけフロンティアの町を振り返る。
私の、大切な居場所。
必ず良い知らせを持って、この場所に帰ってくると私は決意した。
辺境伯様の城は、この町から馬で三日ほど東へ進んだ場所にある。
城塞都市ヴァイスブルグだ。
道はアルノー商会の傭兵団によって、危険な状態だと聞いていた。
しかし辺境伯家の紋章を掲げた一行に、彼らも手を出せるほど馬鹿ではないらしい。
道中では遠くからこちらを窺うような、怪しい視線を感じることが何度かあった。
だが、彼らが近づいてくることは一度もなかった。
ラウル騎士団長は、口数は少ないがとても考え深い人だった。
彼は道すがら、辺境伯領の地理やジルベール様の人柄について私に丁寧に説明してくれた。
「ジルベール様は厳しい方ですが、同時に民を深く愛する情け深いお方です。あなたの真摯な思いは、必ず我が主君の心に届くはずです」
彼の言葉は、私の緊張を少しずつ解してくれた。
騎士団の他の騎士たちも、最初は私を遠巻きに見ていた。
だが旅を続けるうちに、少しずつ親しくなっていった。
彼らは私が差し出したポーションの効果に、心から驚いていた。
そして作り手である私に、尊敬の念を抱くようになってくれたようだ。
旅は、順調に進んだ。
フロンティアの町を出て、二日が過ぎた日の夕暮れ。
私たちは道沿いの森の中で、キャンプの準備をしていた。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立て、周りの闇を照らしている。
騎士たちが交代で見張りに立つ中、私はバルトさんと共に焚き火にあたっていた。
「いよいよ、明日にはヴァイスブルグに着くな」
バルトさんが、しみじみと言う。
「はい、なんだかまだ実感がわきません」
「はっ、無理もねえ。ついこの間まで森で倒れていた娘が、今や辺境伯様と会うんだもんな。人生ってのは、分からねえもんだぜ」
バルトさんは、大きな声で笑った。
その時だった。
見張りに立っていた騎士の一人が、鋭い声で叫んだ。
「何者だ」
森の暗がりから、数人の人影がゆっくりと姿を現した。
彼らは、騎士のようだった。
しかしその甲冑はどこの物とも分からない、気味の悪い黒色に塗られている。
そしてその先頭に立つ男の顔を見て、私は息を呑んだ。
開店する前の夜に現れた、アルノー商会のレナード。
その人だった。
彼は獲物を見つけた蛇のような、冷たい笑みを浮かべていた。
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