第19話
「アークライト王国の、王家直属、魔導兵器研究所の紋章」
アルブレヒトの言葉が、凍てつく谷間の風に乗った。 その一言は、私の耳に鋭く突き刺さる。 彼の顔には、驚きと怒りの色が浮かんでいた。 かつて王国に忠誠を誓った騎士として、信じられないものを見たのだろう。 裏切られたことに対する、深い怒りも見て取れた。
これは、単なる事故などではない。 私を追放した王家は、民を全く顧みない。 これはあの王家が引き起こした、必然の人災だった。 禁忌とされた研究が生んだ、危険な汚染物質。 王家はその汚染物質を、この辺境の地に捨てたのだ。 まるでゴミでも捨てるかのように、中央の目から遠い場所へ。 その結果として、何の罪もない村人たちが死の淵をさまよっている。
「……許せない」
私の口から、自分でも驚くほど冷たい声が漏れた。 それは、怒りという熱い感情ではない。 もっと深く冷徹な、科学者としての憤りであった。 人命や世界の理を、自らの欲望のために弄ぶ者たち。 その責任さえ取ろうとしない者たちへの、絶対的な軽蔑がそこにあった。
「先生、これは……」 アルブレヒトが、何かを言おうとして言葉を詰まらせる。 彼の心の中では、王国への忠誠と目の前の悲劇が激しくぶつかり合っていた。
「アルブレヒト、感傷に浸っている場合ではないわ」
私が彼の葛藤を断ち切るように、きっぱりと言い放つ。 「私たちのやるべきことは、ただ一つだけ。この悲劇を、この手で終わらせることよ。そして、一人でも多くの命を救うの」
私の言葉に、アルブレヒトははっとしたように顔を上げた。 そうだ、今は嘆いている時ではないのだ。 すぐに行動すべき時なのである。 彼の瞳に、再び強い意志の光が宿った。
「はい、先生。ご指示を」
「まず汚染源の容器を、これ以上川に流れ出ないよう安全な場所へ」 「ですが、中身の液体には素手で触れないで。未知の病原体か、あるいは強力な毒素に汚染されている可能性が高いわ」
私は騎士たちに、ギュンターさんが作った革手袋を二重にさせた。 さらに布で何重にも、口と鼻を覆うよう指示する。 彼らは私の命令に、少しも迷わず従った。 そして慎重に、容器の回収作業を開始する。 その間に私は村へ戻り、本格的な治療の準備に取り掛かった。
村の集会所が、臨時の病院兼研究室になった。 運び込まれた患者たちは、藁の上に横たわり苦しそうにうめいている。 その光景は、まるで地獄のようだった。 私はまず、まだ発症していない健康な村人を選び出した。 彼らで、看護チームを組織するためだ。
「いいこと、患者の世話をする時は必ずこのマスクと手袋を着けて」 「そしてこまめに手を洗い、使った食器は全て煮沸消毒するの。病は、目に見えない小さなものが人から人へとうつるのよ」
私の説明に、村人たちは真剣な表情で頷いた。 彼らはもう、私の言葉を疑ったりしない。 科学という新しい知識が、自分たちの命を守る唯一の盾だと理解し始めていた。
次に私は、研究室の片隅に顕微鏡を置いた。 患者の血液と汚染された水から、あの螺旋状の微生物を採取する。 そして、その観察を再開した。 それは、驚くべき生命力を持っていた。 ガラス板の上で、まるで意思を持つかのように活発に動き回る。 私が試しに、少量のアルコールを垂らしてみた。 微生物の動きは一瞬鈍るが、すぐに元の活発さを取り戻す。 普通の消毒薬では、効果がないらしかった。
それどころかこの微生物は、驚くべき速度で分裂し増殖を続けている。 普通の生物では考えられない、異常な増殖スピードだ。 「……なるほど、これは純粋な生物ではないのね」
私は、独り言のようにつぶやいた。 「魔力と生命を、無理やり融合させた人工生命体。魔導兵器研究所が生み出した、生物兵器の一種と考えるべきだわ」
だとすれば、通常の薬による治療は通用しないだろう。 この微生物の活動を止めるには、その特殊な生命活動の根幹を断つ必要がある。 魔力の流れを、邪魔するような化学物質はないだろうか。 私の頭の中で、前世で学んだ膨大な化学の知識が高速で検索される。 有機化学や無機化学、そして生化学。 様々な化合物の構造式が、頭の中に浮かび上がっては消えていった。 そうだ、特定の金属イオンには酵素の働きを邪魔する作用があったはずだ。 この微生物が魔力をエネルギーに変える際、何らかの特殊な酵素が働いていると仮定する。
その酵素の働きを、正確に邪魔する金属イオン。 そして人体にはできるだけ害が少なく、微生物だけに効くもの。 「……銀、かしら」
銀イオンには、強い殺菌作用があることが知られる。 ごくわずかな量であれば、人体への毒性も低い。 その作用は、微生物の細胞膜に働きかけて呼吸を邪魔するものだった。 この魔導生物にも、同じ理屈が通用するかもしれない。 問題は、どうやって銀を手に入れるかだ。 このような辺境の村に、銀製品などそうそうない。 私がそう考え込んでいると、不意にアルブレヒトが研究室に入ってきた。 彼は汚染容器の回収を終え、部下に村の警備を指示してきたところだった。
「先生、何かお困りですか」
私の深刻な表情を見て、彼が心配そうに尋ねる。 「ええ、少し。治療薬の開発に、ある特殊な金属が必要なの」 「特殊な金属、ですか」
「銀よ。銀貨でも、飾りでも構わないのだけど。どこかに、ないかしら」
私の言葉に、アルブレヒトは一瞬きょとんとした顔をした。 だがすぐに何かを思い出し、自らの胸元に手を伸ばす。 そして、服の下から一つのペンダントを取り出した。 それは騎士団の紋章が刻まれた、美しい銀細工のペンダントだった。
「これは私が騎士団に入った時、陛下から直接いただいたものです」
彼は少し名残惜しそうな顔をしたが、すぐに迷いを振り払った。 そしてその鎖を、首から引きちぎる。 「ですが、今の私にはもはや何の価値もありません。今の私が忠誠を誓うべきは、腐敗した王国ではない。民を救おうとする、先生あなたお一人だけです」 「どうか、これをお使いください。この命に代えても、あなたのお力になりたいのです」
彼はそう言うと、その銀のペンダントを私の前に差し出した。 その瞳に、一点の曇りもなかった。 彼の覚悟と、私への絶対的な信頼が痛いほど伝わってくる。 「……ありがとう、アルブレヒト。あなたのその志、決して無駄にはしないわ」
私はそのペンダントを、震える手で受け取った。 ずしりと、重みを感じる。 それは、銀の重さだけではない。 彼の、魂の重さそのものだった。
私はすぐさま、そのペンダントを強力な酸の中に溶かした。 これもまた、私が硝石と岩塩から作り出したものだ。 銀はゆっくりと酸に溶けていき、やがて透明な硝酸銀の水溶液へと姿を変える。 次に、この水溶液から不純物を取り除くため精密なろ過を何度も繰り返した。 そして最後に、溶液を慎重に煮詰めて水分を蒸発させていく。 すると試験管の底に、純粋な硝酸銀の白い結晶が輝きながら現れた。
「できたわ、これよ」
これが、私の作り出した最初の特効薬の原液だ。 私はこの結晶を、清潔な蒸留水に極めて薄い濃度で溶かす。 人体に影響が出ない、ぎりぎりの濃度を見極める必要があった。 そしてその水溶液をスポイトで一滴、あの魔導生物がいるプレパラートの上に垂らす。 顕微鏡のレンズを、固唾を飲んで覗き込んだ。 すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
銀イオンの溶液に触れた瞬間、あれほど活発だった微生物の動きがぴたりと止まる。 まるで、時間が止められたかのようだった。 そして次の瞬間、その体は細胞膜から崩れるように溶け始めた。 あっという間に、その姿を消してしまった。 「……やったわ」
私は、思わず拳を握りしめた。 効果は、すぐにはっきりと現れた。 私の立てた仮説は、正しかったのだ。 だが、喜んでいる暇はない。 すぐに、この特効薬を量産し患者たちに飲ませなければ。 幸い、アルブレヒトの部下たちも彼に倣った。 自らの銀製品を、次々と提供してくれたのだ。 騎士の誇りである、剣の柄の装飾。 家紋が刻まれた、指輪。 私たちはそれらを集め、休むことなく特効薬の精製を続けた。 集会所は、さながら薬局のようになった。
日が暮れる頃には、村の患者全員に行き渡るだけの薬が完成していた。 私は看護チームの村人たちに、その薬を患者一人一人に慎重に飲ませるよう指示を出す。 効果が現れるまでには、少し時間がかかるだろう。 それまでは、ただ祈るような気持ちで待つしかなかった。
夜が更け、集会所には疲労と緊張の空気が重く垂れ込める。 患者たちの苦しそうな息遣いだけが、静寂を破っていた。 私もアルブレヒトも、一睡もせずに患者たちの容態を見守り続ける。 本当に、これで助かるのだろうか。 私の科学は、本当に人の命を救う力があるのか。 一瞬、不安が胸をよぎった。 だが私は、その弱い心をすぐに打ち消す。 信じるのだ、私が積み重ねてきた知識の力を。 そして、私を信じて全てを託してくれた仲間たちの心を。
夜が明け始め、東の空が白み始めたその時だった。 一人の患者が、うっすらと目を開けたのだ。 そして、か細い声でこう言った。 「……水が、飲みたい」
その声を聞いた瞬間、集会所にいた全員が息を呑んだ。 昨日まで意識も朦朧としていた重症患者が、自らの意思で水を求めたのだ。 私は急いで彼の元へ駆け寄り、その額に手を当てる。 あれほど高かった熱が、嘘のように引いていた。 そして彼の顔や腕に浮かんでいた不気味な紫色の斑点が、明らかに薄くなっている。
「効いたんだわ」
私のその一言をきっかけに、集会所は大きな歓声に包まれた。 人々は互いに抱き合い、涙を流して喜びを分かち合う。 それは死の淵から生還した者たちと、それを支え続けた者たちの魂の叫びだった。 私の科学が、この村に最初の夜明けをもたらした瞬間だった。
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