第18話

隣村を襲った奇病の報せは、私たちの穏やかな日常に鋭い楔を打ち込んだ。

しかしヴァイスランドの村には、もはや絶望に打ちひしがれるだけの無力な人々はいない。

私という、科学という新しい希望の存在が彼らの心を強く支えていた。


私は工房で、すぐさま調査団の準備に取り掛かった。

まずは自分自身と、同行する護衛たちの身を守るための装備からだ。

「ギュンターさん。密封性の高い、革の手袋と顔を覆うためのマスクを人数分、急いで作ってください」

「マスクの内側には、木炭を細かく砕いたフィルターを仕込みます。これで、空気中の病原体の吸入をある程度防げるはずです」


「おう、任せとけ」

ギュンターさんは事態の深刻さを理解し、二つ返事で作業に取り掛かってくれた。

次に私が準備したのは、調査のための「七つ道具」だ。

まずは、簡易的な顕微鏡。

ガラス製造の技術を応用し、二枚の凸レンズを組み合わせた単純な構造のものだ。

倍率はそれほど高くないが、細菌レベルの微生物を観察するにはこれで十分だろう。

そして清潔な水を入れるための、煮沸消毒したガラス瓶。

患者の血液や汚染が疑われる水を採取するための、ガラス製のスポイトも用意する。

さらに消毒薬として、先日ブドウの絞りカスを発酵させて作った高濃度のエタノールも持っていく。


これらの道具を革製の鞄に詰め込んでいると、アルブレヒトが選抜したという五人の部下を連れて工房にやってきた。

彼らは皆、騎士団の中でも特に腕の立つ歴戦の強者たちだ。

その顔には、これから危険な任務に赴くという程よい緊張感が漂っている。


「先生、準備は整いました。いつでも出発できます」

アルブレヒトが、力強い声で報告する。

彼の手には、ギュンターさんが作り上げたばかりの革手袋とチャコールフィルター付きのマスクが握られていた。


「ありがとうございます。皆さんにも、これを装備してもらいます」

「そして村に着いたら、私の許可なく絶対にマスクと手袋を外さないでください。現地の人間との、不必要な接触も避けること。いいですね」


「はっ」

騎士たちは、一糸乱れぬ動きで敬礼した。

私たちは村人たちの心配そうな顔に見送られながら、西の谷間にあるという開拓村へと向かった。

馬の背に揺られながら、私はアルブレヒトにこれから行おうとしている調査の概要を説明する。


「まず、村の地理的な状況を把握します。特に、水源の位置が重要です」

「多くの伝染病は、水を介して広がりますからね」


「水、ですか」

アルブレヒトが、眉をひそめる。

「病の原因が、水の中に潜んでいると」


「その可能性は、非常に高いでしょう。あるいは、特定の食べ物や虫が媒介しているケースも考えられます」

「患者からできるだけ詳しく話を聞き、彼らの共通した行動を探っていくのです。それが、感染源を特定するための最も確実な方法です」

私のその説明は、彼にとってまるで未知の魔法の解読法を聞いているかのようだっただろう。

彼はこれまで、病とは神の与えた試練かあるいは悪魔の呪いだとしか考えてこなかったのだから。


「先生の戦い方は、我々とは全く違うのですね」

彼は、深い感嘆を込めて言った。

「我々は、目に見える敵を力でねじ伏せることしか知らない。だが、先生は目に見えない敵の正体を、知識と観察力で暴き出そうとしている」


「ええ。そして、敵の正体さえ分かってしまえばそれはもう恐れるに足らない相手になるのです」

そんな話をしているうちに、私たちは目的の村へと到着した。

谷間にひっそりと佇むその村は、まるで死の気配に覆われているかのように静まり返っていた。

家々の扉は固く閉ざされ、道には誰一人として歩いていない。

時折家の中から、苦しそうな咳の音やうめき声が漏れ聞こえてくるだけだ。

村の入り口で私たちを出迎えてくれたのは、やつれ果てた顔をした村長らしき老人だった。

彼は私たちがヴァイスランドの村から来たと知ると、わらにもすがるような思いで地面にひれ伏した。


「おお、聖女様。よくぞ、お越しくださいました」

「どうか、この呪われた村をお救いください」


「顔を上げてください。私は聖女ではありません、ただの科学者です」

私は彼を落ち着かせると、単刀直入に尋ねた。

「まず、患者のいる場所に案内してください。それから、この村の皆さんが普段どこの水を飲んでいるのかも教えていただきたい」

老人に案内されて、私たちは村で最も症状が重いという患者の家へと向かった。

家の中には、独特の甘ったるい病的な匂いが立ち込めている。

寝台に横たわっていたのは、まだ若い男性だった。

彼は高い熱に浮かされ、ぜえぜえと苦しそうな呼吸を繰り返している。

その顔や腕には報告にあった通り、不気味な紫色の斑点がいくつも浮かび上がっていた。


私はマスクと手袋をしっかりと装着し、慎重に患者の診察を始めた。

まず脈をとり、呼吸音を聞く。

そして許可を得て、ガラスのスポイトで彼の指先からほんのわずかな血液を採取した。


「ひどい脱水症状を起こしていますね。とにかく、水分を補給させなければ」

「ですが、ただの水ではいけません。煮沸消毒した清潔な水に、少しだけ塩と砂糖を溶かしたものを飲ませてあげてください」

経口補水液、それは前世ではごく当たり前の知識だ。

私は持参した顕微鏡を取り出し、採取した血液をガラス板の上に乗せて観察を始めた。

レンズを覗き込むと、そこには赤血球に混じって奇妙な形をした小さな生物がうごめいているのが見えた。

それは私が知る、いかなる細菌とも違う。

螺旋状の、鞭毛を持った不気味な微生物だった。


これは、スピロヘータの一種だろうか。

いや、それにしては動きが速すぎる。

まるで、何かの寄生虫のようだわ。

私はその微生物のスケッチを、手早く手帳に描き留めた。

これがこの病の正体であることは、ほぼ間違いないだろう。

次に私は村長に、村の水源へと案内させた。

村人たちが使っているのは、谷川から水を引いた一つの共同井戸だけだという。

井戸の周りは、ひどく不衛生な状態だった。

生活排水が流れ込み、家畜の糞尿もすぐ近くに垂れ流されている。

これでは、病原菌の温床になってくれと言っているようなものだ。

私はその井戸から、慎重に水を汲み上げガラス瓶に採取した。

そして、再び顕微鏡を覗き込む。


すると、そこには。


「いたわ。これよ」

水の中にも、先ほど患者の血液中に見られたのと全く同じ微生物が無数にうごめいていた。

感染源は、間違いなくこの井戸水だ。


「村長、この井戸はもう使ってはいけません」

私は、厳しい口調で言った。

「この水の中に、病の元が潜んでいます。今すぐ、井戸を封鎖してください」

私のその言葉に、村長は愕然とした表情を浮かべた。

「な、なんと。この水が、呪いの源だったと」


「呪いではありません。目に見えないほど小さな、悪い虫です」

「そして、その虫は熱に弱い。これからは、必ず川の水を直接汲み、それを一度完全に沸騰させてから飲むようにしてください。食器や手も、そのお湯で洗うのです」

徹底した煮沸消毒の指示、それが私が彼らに与えられる最も効果的な処方箋だった。

だが私の調査は、まだ終わらない。

なぜこの井戸の水だけが、これほど危険な微生物に汚染されてしまったのか。

自然発生とは、考えにくい。

何か、特別な原因があるはずだ。

私はアルブレヒトと彼の部下たちに、この井戸に流れ込んでいる谷川の上流を調査するように命じた。

「何か、不審なものがないか徹底的に調べてください。特に、人工的なものが捨てられていないかを」


「はっ、承知しました」

騎士たちは私の命令を受け、すぐさま谷川沿いを遡上し始めた。

その動きは、獲物を追う狩人のように素早くそして静かだった。

私と村長は、村で彼らの帰りを待つことにした。

私はその時間を使って他の患者たちの家を回り、経口補水液の作り方と煮沸消毒の重要性を村人たちに説いて回った。

最初は私の言うことを半信半疑で聞いていた彼らも、顕微鏡で水の中の「悪い虫」を実際に見せられると顔から血の気を失い、必死になって私の指示に従い始めた。

百の言葉よりも、一つの「事実」の方がよほど雄弁なのだ。


数時間後、上流の調査に向かったアルブレヒトたちが険しい表情で村に戻ってきた。

その手には、何か錆びついた金属製の容器の破片がいくつか握られている。


「先生、これをご覧ください」

アルブレヒトが、その破片を私に差し出した。

「川の上流、崖の下にこのような容器がいくつも捨てられていました」

「そして、その容器の中からどろりとした紫色の液体が川に流れ出していたのです」

紫色の液体、それは患者の体に浮かび上がった斑点と同じ色だ。

私はその金属片を受け取り、付着している泥を拭き取った。

するとその表面に、ある紋章が刻まれているのがはっきりと見て取れた。

それは気高く雄々しい獅子と、聖剣をかたどった紋章。

そしてその周りを、錬金術のシンボルであるウロボロスの蛇が囲んでいる。

見間違いようも、なかった。


「これは」

私の隣で、その紋章を見たアルブレヒトが息を呑む。

彼の顔が、驚愕とそして怒りに染まっていくのが分かった。


「アークライト王国の、王家直属、魔導兵器研究所の紋章」

彼の口から、信じられない言葉が飛び出した。

「まさか、あの禁忌とされた研究の廃棄物を、こんな辺境の地に不法に投棄したというのか」

アルブレヒトの言葉が、雷鳴のように私の頭に響き渡る。

王国の魔導兵器研究、それがこの悲劇の全ての始まりだったのだ。

これはただの事故ではない、王国が辺境の民の命を虫けらのように扱った結果引き起こされた人災なのだ。

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