第11話

工房の外に出ると、午後の柔らかな日差しが私を包み込んだ。

私は出来上がったばかりの紙の束を、大切に胸に抱える。

そして村の広場へと向かった。

どこからか、子供たちの笑い声が聞こえてきた。


広場の隅には大きな木があった。

その根元に、村の子供たちが五、六人集まって遊んでいる。

みんな泥だらけの顔だ。

木の棒を振り回したり、石を蹴飛ばしたりしていた。


この辺境の村では、子供たちに与えられるおもちゃなどほとんどない。

彼らの遊びは、いつだって素朴なものだった。


私が近づいていくのに気づくと、子供たちは一瞬動きを止める。

彼らは、警戒しているようだった。

彼らにとって私はまだ、よく分からない存在なのだろう。

村を豊かにしてくれた恩人ではある。

しかしその力は、どこか不思議なものだった。

おそれられてもいるのだ。


「こんにちは」

私は、できるだけ優しい声で話しかけた。


子供たちの中で、一番年長らしいそばかすの少年がいる。

彼が、代表するように一歩前に出た。

「……こんにちは、リディア様」

その声は、少しだけ緊張していた。


私は彼の目の高さまで、ゆっくりとしゃがみ込む。

「皆さんに、面白いものを見せてあげようと思って」

私はそう言うと、抱えていた紙の束から一枚を取り出した。

そして、彼らの前に広げてみせる。


子供たちはその真っ白で滑らかな物体を、興味津々な様子で覗き込んでいた。

「わあ……きれい……」

「布みたいだけど、布じゃないね」

一人の少女が、おそるおそるその紙に指で触れた。

その滑らかな感触に、驚いたように目を丸くしていた。


「これは、紙というものです」

「ここに、文字や絵を描くことができるんですよ」

私は懐から取り出した木炭のペンで、紙の上に簡単な絵を描いてみせた。

笑っている、太陽の絵だ。

ただの黒い線で描かれた単純な絵だった。

しかし子供たちは、「おおっ」と感心の声を上げた。


「すごい! 白い布に、黒い線が!」

「ねえ、これ、僕にもやらせて!」

そばかすの少年が、興奮した様子で手を伸ばした。

私はにっこりと微笑んで、彼に紙と木炭ペンを手渡す。

少年はそれを受け取ると、夢中になって何かを描き始めた。

他の子供たちも、その周りに集まってきた。

みんな、身を乗り出すようにして見守っていた。


彼が描いたのは、いびつな形をした馬のような生き物だ。

上手いとは言えなかった。

でも、そこには確かな生命力があふれている。

彼は自分の描いた絵を、誇らしげに仲間たちに見せた。


「どうだ、すごいだろう!」

「うん、すごい!」

「わたしも描きたい!」

子供たちは、目を輝かせていた。

そして、次々に私の方を振り向く。

その瞳には先ほどまでの警戒心が、もうどこにもない。

あるのは、新しい遊び道具を見つけた子供特有の純粋な好奇心と興奮だけだった。


「ええ、いいですよ」

「皆さんの分も、ちゃんとありますから」

私は、子供たち一人一人に紙とペンを手渡した。

彼らは大喜びでそれを受け取ると、思い思いの絵を描き始める。

花や、家を描く子がいた。

森の動物や、家族の顔を描く子もいる。

広場の地面は、あっという間に小さな画廊へと姿を変えた。

彼らの、創造力で満たされた画廊だ。


その様子を、少し離れた場所からアルブレヒトとギュンターさんが眺めていた。

ギュンターさんは、とても楽しそうに笑っている。

一方のアルブレヒトは、腕を組んでいた。

何かを、深く考え込むような真剣な表情を浮かべている。


しばらくして、絵を描くのに少し飽きてきたのだろうか。

子供たちの一人が、私に尋ねた。

「ねえ、リディア様。さっき、ここに『もじ』も描けるって言ってたよね?」

「『もじ』って、なあに?」


「文字というのは、言葉を形にして記録するための記号のことです」

私は新しい紙の上に、いくつかの簡単な文字を書いてみせた。

この世界の、共通言語だ。

「例えば、この形は『A』という音を表します」

「そして、この形は『B』です」

「この記号の組み合わせで、私たちは遠くにいる人と思いを伝え合えます」

「大切な出来事を、ずっと後世に残したりすることもできるのです」


私の説明に、子供たちはきょとんとした顔をしている。

彼らにとってそれはまだ、魔法の呪文か何かのように聞こえるのだろう。

「ふうん……よく分かんないや」

「でも、なんだか、すごいことなんだね!」

子供たちの素直な反応に、私は思わず笑みをこぼした。

今は、それでいい。

知ることは、楽しいこと。

学ぶことは、面白いこと。

まずはその感覚を、彼らの心に植え付けることができれば十分だった。


「もし皆さんがこの『文字』を読んだり書いたりできるようになりたければ、私が教えてあげますよ」

「毎日この時間に、ここで小さな学校を開きましょう」

「がっこう?」

聞き慣れない言葉に、子供たちが首を傾げた。


「ええ。皆で集まって、色々なことを学ぶ場所です」

「文字の書き方や、数の数え方を教えます」

「そして、この世界がどうやってできているのか、その仕組みについても話します」

私の提案に、子供たちの顔がぱあっと輝いた。

知りたいという気持ちの種は、もう確かに彼らの心の中にまかれたのだ。


「やりたい! がっこう、行きたい!」

「文字が書けるようになったら、父ちゃん、びっくりするかなあ?」

その日の夕方、私が子供たちに『学校』の話をしたことはあっという間に村中に広まっていた。


仕事から帰ってきた親たちが、私の元へ代わる代わるやってくる。

彼らの表情は、期待と少しの戸惑いが入り混じった複雑なものだった。

「リディア様。うちの息子が、聞かないもので……」

「本当に、子供たちに文字を教えてくださるのですか?」

一人のたくましい農夫が、申し訳なさそうに頭をかきながら尋ねた。


「はい。もちろんです」

「しかし……文字や計算なんてものは、偉い方々が学ぶものだと聞いております」

「我々のような者に、そんなものが必要なのでしょうか……」

彼の不安は、もっともだった。

この世界には、厳しい身分の違いがある。

知識は、支配する側の人々が独り占めするものだった。

農民が文字を学ぶなど、常識外れのことだと考えられている。

下手をすれば、領主から目をつけられるかもしれない。

余計な税を、課せられる原因にさえなりかねないのだ。


「いいえ。知識は、全ての人の生活を豊かにするためにあります」

私は彼の目を真っ直ぐに見つめて、はっきりと答えた。

「例えば、文字が読めれば薬の正しい使い方が分かります」

「どの種が、いつまくのに向いているか記録を読むこともできます」

「計算ができれば、商人にだまされて安く作物を買い取られることもなくなるでしょう」

「知識は、自分たちの生活を自分たちの力で守るための何よりの武器になるのです」


私のその言葉に、農夫はハッとしたように目を見開いた。

彼は、これまで考えたこともなかった視点に強い衝撃を受けたようだ。

「武器……知識が、武器……」

「そうです。私が皆さんに提供しているのは、鉄のくわや肥料だけではありません」

「本当の意味で、皆さんに自立してもらうための『力』そのものなのです」


私の説得に、村人たちの間の空気も少しずつ変わっていった。

最初は遠くから見ていた者たちも、次第に私の話に熱心に耳を傾け始める。

彼らの心の中にあった、身分制度という名の分厚い壁が少しずつ溶け出していくのが分かった。


「……分かりました。リディア様のおっしゃる通りだ」

「俺たちの子供が、俺たちみたいに奪われるだけの人生を送るのはもうたくさんだ」

最初に質問した農夫が、固い決意を込めた声で言った。

彼のその言葉に、他の親たちも次々に力強くうなずく。

「そうだ、そうだ!」

「俺たちの代で、貧乏は終わりにする!」

「リディア様、どうか、うちの子供たちをよろしくお願いします!」


彼らの熱意は、私が想像していた以上だった。

苦しめられてきた者ほど、変化を強く望んでいる。

私は、彼らの期待に全力で応えなければならないと思った。


その夜、私は工房で明日の授業のための準備を進めていた。

子供たちに分かりやすいように、文字の形を大きく紙に書き出す。

そして、簡単な単語のリストを作った。

教える内容は、ごく初歩的なものだ。

だが私にとっては、大きな緊張感と高揚感があった。


作業に夢中になっていると、工房の入り口に人の気配がする。

振り返ると、そこに立っていたのはアルブレヒトだった。

彼は、昼間の農作業で付いた泥をきれいに洗い落としている。

清潔なシャツを、身に着けていた。

その姿は、もはや農夫ではない。

元の、洗練された騎士のものに戻っていた。


「……リディア先生。夜分に、失礼する」

彼は少し照れたように、しかしはっきりと私を『先生』と呼んだ。

「どうしましたか、アルブレヒト。何か用ですか?」

「……昼間の、あなたの話を聞いていた」

「知識が、武器になる、という話だ」


彼は、まっすぐに私の目を見て続けた。

「そして、考えた。我々騎士も、剣を振ることしか知らぬままではいずれ時代に取り残されるのではないか、と」

「いや、もう既に取り残されているのかもしれん」

「あなたのあの爆薬の前では、我々の剣など赤子の玩具に等しいのだからな」

その声には、自分をあざ笑うような響きがあった。

彼は、あの日の敗北を決して忘れてはいないのだ。


「……もし、許されるのであれば」

「その『学校』とやらで、我々も学ばせてはいただけないだろうか」

彼のその申し出は、私にとって全く予想外のものだった。

王国最強の騎士団長が、追放された令嬢に教えを乞うている。

それは、この世界の常識ではありえないことだった。


私は、彼の顔をじっと見つめた。

その瞳は、真剣そのものだ。

彼は、ただ生き延びるためだけではない。

新しい時代の流れを、必死につかもうとしているのだ。

変化を恐れず、自ら変わろうとしている。

その姿勢は、私にとって非常に好ましいものに思えた。


「……いいでしょう」

私は、静かにうなずいた。

「ただし、あなた方の授業は子供たちとは別にします」

「それに、内容はもっと高度で厳しいものになりますがよろしいですか?」

「望むところだ」

アルブレヒトの顔に、ぱっと明るい光が差した。

それは、新しい道を見出した男の希望の光だ。


「ありがとうございます、先生。この御恩は、決して忘れません」

彼は騎士の礼儀作法に従って、深々と頭を下げた。

その姿を見ながら、私は自分の計画がまた一つ大きく前進したことを確信する。

この村は、単なる開拓村ではなくなるだろう。

辺境の地に生まれた、新しい知識と技術の中心地になる。

革命の、始まりの場所となるのだ。

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