第5話
村人たちのざわめきが、まるで遠い世界の音のように聞こえた。
私の意識は、目の前の鍋に集中していた。
鍋の中では、すごい化学反応が起きている。
動物の油にある主な成分は、分子という小さな粒だ。
そこに草木を燃やした灰から作った強いアルカリ液を、私は加えた。
すると、分子の繋がりが分解される現象が起きる。
これが、石鹸作りの基本となる『鹸化』という化学反応だ。
この反応が進むと、脂肪酸カリウムという石鹸の成分と、グリセリンという保湿成分が生まれる。
私の特別な『目』には、鍋の中で分子が動き回る様子が見えた。
粒同士の繋がりが、どんどん組み替えられていく。
油の分子の長い鎖が、アルカリの攻撃で次々と切られていくのだ。
そして、石鹸の成分とグリセリンに姿を変えていく。
化学とは、なんて美しくて秩序のある学問だろうか。
前の世界では、実験道具の中でしか見られなかった光景だ。
私は今、この光景を自分の目で見ている。
これは、この世界の誰も知らない私だけの特権だった。
「嬢ちゃん、また何か妙なもんを作ってるな。」
いつの間にか隣に来ていたギュンターさんが、不思議そうな顔で鍋を覗き込む。
鹸化の途中で出る独特の匂いに、彼は少しだけ顔をしかめた。
「ええ、これからの生活に必要なものですから。」
私は、自信を持って答えた。
「生活に必要だと、鉄なら分かるがな。」
ギュンターさんは、納得できないようだ。
「なんだってこんな、油と灰を煮詰めたものが。」
彼の疑問は、もっともなことだ。
この世界には、まだ石鹸という便利なものが無いのだから。
やがて鍋の中の液体が、とろりとした状態に変わってきた。
鹸化の反応が、ほとんど終わった証拠である。
私は鍋を火から下ろす。
そして中身を、用意しておいた木枠へゆっくり流し込んだ。
本当は、塩析という作業をすればもっと純粋な石鹸が作れる。
でも、今回は家で使うためのものだ。
保湿成分のグリセリンは、肌に優しいから残した方がいいだろう。
「これで、完成です。」
私は、そう宣言した。
数時間後、木枠の中の白い液体は羊羹のような半固体の塊に変わっていた。
まだ水分が多くて柔らかいが、ナイフで切ることはできる。
私はそれを、適当な大きさに切り分けた。
そして、一つをギュンターさんに手渡した。
「ほれ、これが何だってんだ。」
彼は、怪訝そうな顔でそれを受け取る。
「『石鹸』です、汚れを落とすための道具ですよ。」
私はそう言うと、近くを流れる小川へ向かった。
ギュンターさんと、遠くから見ていた村人たちも興味を引かれたように後をついてくる。
私は、泥で汚れた自分の手をまず小川の水で濡らした。
そして、切り分けたばかりの石鹸を手に取る。
両手で、ゆっくりと泡立てていった。
最初は、ぬるりとした感触がするだけだ。
でも、根気よく両手をこすり合わせていくうちに、きめ細かな白い泡が豊かに立ち上ってきた。
石鹸の分子は、面白い仕組みを持っている。
水と仲の良い部分と、油と仲の良い部分を一つの分子が持っているのだ。
この特別な仕組みのおかげで、油汚れを捕まえて水に流してくれる。
これが、石鹸が汚れを落とす界面活性効果というものだ。
豊かな泡で手を優しく包み、指の間や爪の先まで丁寧に洗っていく。
そして、再び小川の水でその泡を洗い流すと。
「なっ、なんだあれは。」
誰かが、息を呑む声がした。
私の手は、さっきまでの泥や油の汚れが嘘のように消えている。
元の、白い肌に戻っていた。
それどころか、古い角質も落ちたのか以前より肌が少し明るく見える。
「汚れが、本当に落ちてる。」
「あんなに真っ黒だった手が、一瞬で。」
「魔法か、いや清めの魔法でもあんな風には。」
村人たちが、信じられないものを見たというようにざわめき立つ。
私は、黙ってギュンターさんの方を振り向いた。
彼は、手に持った石鹸と私の手を何度も見比べて完全に呆然としている。
「ギュンターさんも、使ってみてください。」
私は、優しく促した。
「その手、いつも真っ黒ですから。」
彼の鍛冶屋の手は、長年染み付いた煤や油で黒光りしていた。
それは、彼の職人としての誇りの証でもあるだろう。
彼は、私の言葉に促されおそるおそる自分の手を水に浸した。
そして、石鹸をこすりつける。
最初は戸惑っていた彼も、自分の手から白い泡が立ち始めると夢中になって手を洗い始めた。
ゴシゴシと力強くこするたびに、黒い汚れが泡に混じって流れ落ちていく。
その結果は、誰の目にも明らかだった。
「落ちた、何十年も落ちなかったこの汚れが。」
ギュンターさんは、自分の手を見つめて声を震わせた。
爪の間にこびりついていた黒い汚れまできれいに落ちている。
そこには、本来の肌の色があった。
長年の職人の手から、まるで呪いが解けたかのように汚れだけが消え去っていたのだ。
そのすごい光景を見ていた村人たちの中から、一人の女性が前に進み出た。
腕に、幼い子供を抱いた若い母親だ。
「あの、その『せっけん』というものを、少しだけ分けていただけないでしょうか。」
彼女は、怯えながらも必死の表情で私に訴えかける。
その腕に抱かれた子供は、ひどい肌荒れを起こしていた。
顔や手足が、赤くかぶれてじゅくじゅくになっている所もある。
絶えず体を掻きむしっており、とても痒そうだ。
きっと、不潔な環境が原因で雑菌が増えてしまっているのだろう。
「ええ、もちろんどうぞ使ってください。」
私は、切り分けた石鹸の中から一番大きなものを彼女に手渡した。
母親は、何度も頭を下げる。
さっそく子供の体を、その石鹸で優しく洗い始めた。
最初は水がしみるのかぐずっていた子供も、柔らかな泡の感触が気持ち良いのか次第におとなしくなっていく。
洗い終わった子供の肌は、赤みが少し引いているように見えた。
もちろん、一度使っただけで完全に治るわけではない。
でも、体を清潔に保つことが何よりの治療になるはずだ。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます。」
母親は、涙を流して私に感謝した。
その様子を見ていた他の村人たちも、堰を切ったように私のもとへ集まってきた。
「俺にも、少し分けてくれ。」
「うちの亭主の服の汚れも、これで落ちるだろうか。」
「これは、いくらで売ってくれるんだ。」
私は、彼らの勢いに少し戸惑った。
それでも、持っていた石鹸を全て無料で配ってしまった。
私の目的は、金儲けではないのだ。
まずは、この村の衛生環境を良くして私の『穏やかで安定した生活』の土台を固めることだ。
その夜、村長が数人の村人を連れて私の廃屋を訪ねてきた。
昼間の、敵意に満ちた視線とは全く違う。
彼らの態度は、非常に丁寧なものだった。
「リディア様、本日はまことにありがとうございました。」
村長は、深々と頭を下げた。
その呼び方の変化に、私は少し戸惑う。
「様などと、やめてください。」
私は、慌てて言った。
「私は、ただのリディアです。」
「いえ、あなた様は我々のような者とは違う。」
村長は、確信に満ちた声で言った。
「神に、遣わされたお方に違いありません。」
「鉄を作り、汚れを落とす奇跡の泡を生み出す。」
村長は、続けた。
「あなた様は、王都の聖女様よりずっと偉大な力をお持ちだ。」
聖女、その言葉に私の胸がちくりと鋭く痛んだ。
私から、全てを奪ったあの女の顔が脳裏をよぎる。
でも、目の前の老人たちの純粋な尊敬の眼差しを見ていると、そんな黒い感情はすぐに消え去っていった。
「私は、特別な人間ではありません。」
私は、落ち着いて話す。
「ただ、皆さんが知らないことを少し知っているだけです。」
「その『知識』こそが、我々にはない素晴らしいものなのです。」
村長は、真剣な目で言った。
「リディア様、どうか我々にお力をお貸しください。この貧しい村を、お救いください。」
村長は、そう言って再び深く頭を下げた。
他の村人たちも、それに倣う。
彼らは、本気で私に助けを求めているのだ。
追放された私が、誰かを救うなどおかしな話かもしれない。
でも、私の知識がこの人たちの生活を少しでも豊かにできるのなら。
それは、私の目標である『穏やかで安定した生活』にも繋がるはずだ。
村が豊かになれば、私の生活もより安全で快適なものになるだろう。
これは、取引なのだと私は自分に言い聞かせた。
「分かりました、私に出来ることがあれば協力します。」
私のその言葉に、村人たちの顔がぱあっと明るくなった。
彼らは、口々にお礼を言いながら何度も頭を下げて帰っていく。
その背中を見送りながら、私はこれからやるべきことの多さに改めて気が引き締まる思いだった。
「大変なことになったな、嬢ちゃん。」
いつの間にか、ギュンターさんが隣に立っていた。
彼は、腕を組みながら苦笑いを浮かべている。
「まるでお姫様扱いじゃねえか、いや神様扱いか。」
彼は、冗談めかして言う。
「からかわないでください、ギュンターさん。」
私は、少し頬を膨らませた。
「からかってなんかいねえよ、事実だろ。」
ギュンターさんは、真面目な顔になる。
「あんたが来てから、この村は変わり始めた。鉄ができて、石鹸ができて、次は一体何を始めるんだ。」
彼の問いに、私は夜空を見上げた。
雲一つない空に、満天の星がダイヤモンドのように無数に輝いている。
「次は、農業ですね。」
私は、きっぱりと答えた。
「農業、だと。」
ギュンターさんは、意外そうな顔をする。
「ええ、この痩せた土地でも豊かな収穫をもたらす方法があります。」
私は、計画を話した。
「そのためには、まず畑を耕すためのもっと良い道具が必要です。私たちが作った、あの新しい鉄で。」
私の言葉に、ギュンターさんの目が見開かれた。
彼の、鍛冶屋としての血が騒ぐという顔だ。
「なるほどな、あの鋼を使えば今までの鍬や鋤とは比べもんにならねえものが作れるぜ。」
彼は、興奮した様子で言った。
「はい、そして道具だけではありません。」
私は、さらに続けた。
「土そのものを、変えるんです。」
「土を変える、だって。」
ギュンターさんは、ますます混乱している。
「『肥料』を作るんですよ、作物がよく育つための栄養を。」
私の口から次々と飛び出す、聞いたこともない単語にギュンターさんは目を白黒させている。
でも、その表情は好奇心と期待に満ち溢れていた。
彼は、私がこれから起こすであろうさらなる『奇跡』を心から楽しみにしているようだった。
私もまた、彼のそんな反応を見ることが純粋に嬉しかった。
この世界に来て、初めて得た本当の意味での理解者。
彼の存在は、私にとって何よりも心強い支えとなっていた。
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