第17話
それは、レオさんがこの日のために作った歌だった。
辺境領の、新しい希望の歌だ。
まだ誰も知らない、生まれたばかりの優しい旋律だった。
私の声は、ひどくか細く震えていた。
広場を埋め尽くす人々のざわめきと、空から降り注ぐ邪悪な波動に消されそうだ。
それでも私は、歌うことをやめなかった。
これはただの歌ではなく、私達の希望そのものなのだ。
歌詞は、厳しくも美しいこの北の大地を褒めたたえる内容だった。
凍える冬をじっと耐え抜き、やがて訪れる春を待ち望む人々の祈りが込められている。
そして隣にいる仲間を信じ、手を取り合って未来へ進む決意が歌われていた。
その一つ一つの言葉に、私はこの土地で出会った人々の顔を思い浮かべた。
エマやトム、ハンスさんやボルツさんの顔が浮かぶ。
私の全ての祈りと願いを、声に乗せて天に届けた。
不思議なことに歌い続けるうちに、私の心の恐怖は少しずつ和らいでいった。
そしてか細かった声は、次第に力を取り戻していく。
私の歌声は、燃え盛る焚き火の光と響き合うように広場全体へと広がった。
それは黒い太陽が放つ、不協和音を打ち消す神聖な響きのように聞こえた。
最初に反応したのは、広場の隅で泣いていた子供たちだった。
恐怖に泣きじゃくっていた彼らが、私の歌声に気づいて顔を上げる。
その純粋な瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
涙に濡れた瞳が、私の姿を映している。
次に、不安そうに寄り添っていた女たちがそれに続いた。
彼女たちは、戦場にいる夫や息子の無事を祈りながら私の歌に耳を傾け始める。
やがて一人、また一人と、私の旋律に合わせて小さな声で口ずさみ始めた。
その変化はゆっくりと、しかし確実に広場全体へと広がっていく。
恐怖に心を支配されていた人々の心が、歌の力によって少しずつ解き放たれていくのだ。
うずくまっていた兵士たちが、ゆっくりと顔を上げた。
恐怖で青ざめていたその顔に、再び血の気が戻ってくる。
彼らは、それぞれの武器を強く握りしめた。
「この歌は」
レオさんが、はっとしたように呟いた。
自分が作った歌が、この絶望的な状況で希望の光になっている。
その事実に、彼の胸は熱いもので満たされた。
彼は静かに剣を鞘に納めると、私の歌声に自分の声を重ねていく。
騎士団で一番と歌われた彼の美しいテノールの声が、私のソプラノと重なり合った。
それは、とても力強いハーモニーとなって空へと昇っていく。
その歌声に導かれるように、他の騎士たちも歌い始めた。
ダリウスさんの、野太いバスの声も聞こえる。
若い兵士たちの、未熟だが懸命な声も重なった。
全ての声が一つに溶け合い、巨大な希望のうねりとなっていく。
それは、黒い太陽が放つ絶望の波動に対する、はっきりとした反撃の狼煙だった。
アシュトン様は、剣を構えたままその光景を呆然と見つめていた。
彼の灰色の瞳には、驚きと深い感動の色が浮かんでいる。
彼は私の姿を、そして歌によって一つになっていく民の姿をじっと見ていた。
この光景こそが、彼がずっと夢見てきたものだったのだ。
民と騎士が手を取り合い、共に未来を築いていくという彼の理想。
それが今、目の前で現実のものとなっている。
彼は、ゆっくりと私の方へ向き直った。
その灰色の瞳には、私への絶対的な信頼と、そして深い愛情が宿っているように見えた。
彼は何も言わずに力強く頷くと、再び民衆の方へと向き直った。
そして、天を突き刺すような大きな声で叫ぶ。
「歌え、グレイウォールの民よ。我々の魂の歌を」
「この歌声こそが、我々の未来を切り開く刃となるのだ」
「リリアーナ様を、我々の希望を何としても守るのだ」
彼の言葉に、広場にいた全ての民が奮い立った。
恐怖は、まだ完全には消えていない。
だが、それ以上に強い希望の炎が、皆の心に灯ったのだ。
老人も、女も、子供も、全ての人が声を張り上げて歌い始める。
地鳴りのような大合唱が、天に浮かぶ黒い太陽へと叩きつけられた。
その時、確かに変化が起きた。
黒い太陽の不気味な輝きが、わずかに揺らいだのだ。
希望の歌声が、邪悪な儀式の力を弱めている。
私の考えは、間違っていなかったのだ。
その様子を、森の奥深くにある祭壇で見ていた者たちがいた。
黒いローブを纏った、謎の魔術師たちだ。
彼らは祭壇を取り囲み、儀式の完成のために祈りを捧げ続けている。
「何だ、これは。儀式の力が、少しずつ弱まっているぞ」
「辺境の虫けらどもが、我々の偉大な術に抵抗しているというのか」
リーダー格の男が、信じられないというようにうめいた。
眼下の広場から聞こえてくる力強い歌声は、彼らの神経をいらいらさせる。
「このままでは、儀式が失敗するやもしれん」
「ならば、もっと強い恐怖を与えてやるまでだ」
「森の獣どもを、今すぐ解き放て。あの忌々しい歌声を、悲鳴に変えてやれ」
リーダーの命令に、数人の魔術師が頷いた。
彼らが杖を掲げ、不気味な呪文を唱え始める。
すると森の奥から、無数の赤い光が姿を現した。
それは、魔術によって凶暴になった、魔物たちの目だった。
祭りの広場では、希望の歌声が響き渡り続けていた。
人々は肩を組み、足を踏み鳴らし、一つになって歌っている。
黒い太陽の力は、目に見えて弱まっていた。
このまま歌い続ければ、きっと勝てる。
誰もが、そう信じかけた瞬間だった。
広場の入り口となっていた森の方角から、おぞましい咆哮がとどろいた。
木々をなぎ倒し、地面を揺るがしながら、おびただしい数の魔物の群れが姿を現す。
オークやゴブリン、そして巨大な狼の姿もあった。
その目は、血のように赤く輝いている。
ただ純粋な、破壊の衝動に満ちていた。
「ま、魔物だ」
「どうして、こんな時に魔物が現れるんだ」
再び、人々の間にパニックが広がった。
力強かった歌声が、恐怖によってかき消されそうになる。
魔物の群れは、一直線に広場へと突進してきた。
「歌を止めるな」
アシュトン様の、雷のような声が響き渡る。
「怯えるな、顔を上げろ。お前たちの背後には、俺たちがいる」
「騎士団、前へ。リリアーナ様と民を、何があっても守り抜け」
その声は、恐怖に揺らぐ人々の心を、再び一つに繋ぎ止めた。
ダリウスさんやレオさんを先頭に、騎士団の兵士たちが素早く陣形を組む。
彼らは、民衆を守るための、分厚い鋼の壁となった。
「うおおお、来やがれ化け物ども」
「俺たちの歌を、邪魔させるかよ」
騎士たちの叫びが、魔物の咆哮に応える。
希望の歌声が響く中で、鋼と牙が激しくぶつかり合った。
辺境領の未来を賭けた、最後の戦いが今、始まったのだ。
私は、壇上でその光景を見つめながら、必死に歌い続けた。
私の声が、この希望が、決して途切れてしまわないように。
血と鉄の匂いが、風に乗って流れてくる。
悲鳴と怒鳴り声が、歌声と混じり合った。
戦いは、激しいものとなった。
騎士たちは、皆傷だらけだった。
だが、その目は誰一人として死んではいない。
背後で響く歌声が、彼らの尽きることのない力となっていた。
彼らは、ただ民を守るためだけに、剣を振り続ける。
その時、私は、小さな影が人々の間をすり抜けていくのに気づいた。
トムだった。
彼は、恐怖に震えながらも、何かを探すように広場の隅へと走っていく。
その手には、彼が描いたあの不気味な絵が、固く握りしめられていた。
彼の瞳は、もはや怯えているだけの子供のものではない。
その奥には、確かな意志の光が宿っている。
彼は、この戦いを終わらせるための何かを、見つけ出したのかもしれない。
私は戦い続ける騎士たちと、小さな勇者の背中を信じて歌声を響かせ続けた。
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