第02話「閉ざされた心と、不器用な優しさ」

 領主の屋敷としては質素ながらも、隅々まで手入れが行き届いており、清潔で落ち着いた雰囲気があった。

 カイに与えられたのは、客間として使われている一番日当たりの良い部屋だった。大きな窓からは手入れされた庭が見え、柔らかな陽の光が部屋の隅々まで満たしている。


「ここが君の部屋だ。好きに使ってくれ」


 アキラの言葉に、カイは何も答えなかった。

 部屋の中央にぽつんと立ったまま、ただ床の一点を見つめている。その姿はまるで、見知らぬ場所に置き去りにされた迷子のようだった。

 すぐに使用人が、温かい食事と着替えを運んできた。テーブルに並べられたのは、湯気の立つシチューと焼きたてのパン、そして新鮮なサラダ。どれもカイが今まで口にしたことのない、心のこもった料理だった。


「お腹が空いているだろう。まずは何か食べるといい。それと、その服も汚れているから、こっちに着替えてくれ」


 アキラはそう言って、肌触りの良さそうな真っ白なシャツとズボンをベッドの上に置いた。

 しかし、カイは豪華な食事にも、ふかふかのベッドにも見向きもしない。

 アキラが部屋を出て行ってもなお、彼は部屋の隅で膝を抱え、小さな塊になって動かなかった。


 その日の夜、アキラがカイの部屋をそっと訪ねると、食事は手つかずのまま冷たくなり、カイは相変わらず部屋の隅にうずくまっていた。眠る気配もない。


「カイ……」


 アキラが声をかけると、カイの肩がびくりと震えた。その小さな反応に、アキラは胸が痛むのを感じた。

 これ以上、彼を怖がらせたくない。


「……おやすみ」


 アキラはそれだけ言うと、冷たくなった食事を下げ、静かに扉を閉めた。

 次の日も、その次の日も、状況は変わらなかった。

 カイは部屋から一歩も出ず、食事にも手をつけようとしない。ただ、アキラが部屋の前に置いた水だけは、夜の間に少しだけ減っているようだった。それが、彼が生きている唯一の証だった。

 使用人の中には、「あのような得体の知れない獣人を屋敷に置いておくなんて」「食事を無駄にするばかりで、なんのお役にも立ちません」と陰で囁く者もいた。

 だが、アキラは聞く耳を持たなかった。

 焦ることはない。カイが今まで受けてきた仕打ちは、きっと俺の想像を絶するものだ。失われた信頼を取り戻すには、時間がかかる。

 アキラは無理強いすることをやめた。

 ただ毎日、決まった時間に温かい食事を部屋の前に置き、「カイ、食事を置いておくよ」「今日はいい天気だ」「寒くなってきたから、暖炉に火を入れておいた」と、扉越しにそっと声をかけるだけ。

 返事がなくても、彼はそれを続けた。


 そんな日々が、一週間ほど続いただろうか。

 カイの中に、少しずつ戸惑いが生まれ始めていた。

 今まで出会った人間は、皆、自分に何かを要求した。労働、暴力、あるいは屈辱的な慰み。

 見返りもなく、ただ優しさを与えてくる人間など、一人もいなかった。

 このアキラという男は、一体何なのだろう。

 自分に何も求めない。何も強制しない。ただ静かに、そこにいることを許してくれる。

 毎日運ばれる温かい食事の匂いは、空腹の腹を刺激し、扉越しに聞こえる穏やかな声は、凍りついた心を揺さぶった。

 カイは、アキラという存在が分からなかった。分からないから、怖かった。

 この優しさの裏には、何かとてつもない要求が隠されているのではないか。

 いつか、この穏やかな日々は終わりを告げ、今までの何倍も酷い絶望が待っているのではないか。

 疑念と、そしてほんのわずかな期待。その二つの感情が、カイの中で渦巻いていた。


 変化が訪れたのは、嵐の夜だった。

 激しい雨風が窓を打ち、雷鳴が空を引き裂く。

 カイは、暗い部屋の隅で小さく体を丸めていた。雷の轟音と閃光は、過去の忌まわしい記憶を呼び覚ます。

 奴隷商人に捕らえられた日も、こんな嵐の夜だった。母親と引き離され、暗く狭い檻に閉じ込められた。恐怖で泣き叫ぶ自分を、人間たちは嘲笑い、鉄の棒で何度も殴った。

『――うるさい獣が!』

『泣いても誰も助けになど来ないぞ』

 耳の奥で、あの時の罵声が木霊する。やめて、やめてくれ。

 カイは両耳を強く塞ぎ、頭をかきむしった。息が苦しい。体が震えて止まらない。

 暗闇が、檻が、自分を飲み込んでいく。


「う……あ……っ」


 喉から、無意識のうちにくぐもった悲鳴が漏れた。

 その時だった。

 バタン、と勢いよく部屋の扉が開かれた。そこに立っていたのは、ろうそくの灯りを手に、心配そうな顔をしたアキラだった。


「カイ!? どうしたんだ、大丈夫か!」


 アキラが駆け寄ってくる。その足音に、カイはびくりと体を強張らせた。

 来るな。俺に近づくな。

 パニックに陥ったカイは、咄嗟に近くにあった花瓶を掴み、アキラに向かって投げつけた。

 ガシャン! と、けたたましい音を立てて花瓶が砕け散る。


「……っ、来るな!」


 やっとのことで絞り出した声は、ひどくかすれていた。

 アキラは、砕けた花瓶の破片にも構わず、ゆっくりとカイに近づいた。

 その目に宿るのは、怒りでも失望でもなく、ただ深い憂いと、慈しみのような色だった。


「すまない、怖がらせたかったわけじゃないんだ。君のうめき声が聞こえたから……」


 アキラはカイから少し距離を置いた場所で膝をつき、ろうそくを床に置いた。

 揺れる炎が、カイの怯えた顔を照らし出す。涙で濡れた頬、恐怖に見開かれた瞳。

 アキラは何も言わずに、そっと手を伸ばした。カイはまた身を固くする。

 しかし、アキラの手はカイの体に触れることなく、彼の冷たい指先を優しく包み込んだ。


「怖い夢でも見たのか?」


 アキラの声は、嵐の音にかき消されそうなほど静かで、だが不思議と心に染み渡るようだった。

 カイは何も答えられない。ただ、アキラの手に包まれた自分の手が、少しずつ温かくなっていくのを感じていた。

 アキラは、カイが落ち着くまで、それ以上何も聞かず、何も言わなかった。

 ただ黙って、震えるカイの背中を、ゆっくりと、一定のリズムでさすり続けた。まるで、壊れ物に触れるかのように、優しい手つきで。

 その温もりは、カイがずっと昔に忘れてしまった、母親の温もりに少しだけ似ていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。嵐はいつの間にか遠ざかり、カイの震えも少しずつ収まっていた。

 アキラは、カイが落ち着いたのを確認すると、静かに立ち上がった。


「もう大丈夫か?」


 カイは、こくりと小さくうなずいた。それが、彼がアキラに見せた、最初の肯定の意思表示だった。

 アキラは安心したように微笑むと、新しい水と、温め直したスープを盆に乗せて持ってきた。


「少し、お腹に入れた方がいい。体が冷えているだろう」


 そう言って、アキラはスープの入ったカップをカイの前に置いた。

 そして、今度は部屋を出て行かず、少し離れた椅子に腰掛け、静かにカイのことを見守っている。

 カイはしばらく躊躇したが、やがておそるおそるカップに手を伸ばした。

 温かいスープが、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。

 スープを飲み干すと、アキラは「よかった」と、心から嬉しそうに笑った。

 その笑顔は、カイが今まで見てきたどんな人間の笑顔とも違っていた。

 裏も、下心も感じられない、ただ純粋な、優しい笑顔だった。

 この人は、本当に、俺に何も求めないのかもしれない。

 カイの心の、固く閉ざされていた扉が、ほんの少しだけ、ギ、と音を立てて軋んだ気がした。

 アキラ・フォン・ヴァイス。

 この、不器用で、お人よしで、少し変わったご主人様。

 彼のそばなら、もしかしたら。

 そんな淡い期待が、カイの心に芽生えた、嵐の夜の出来事だった。

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