過労死した元社畜、チート魔力持ちの領主に転生し、市場で見かけた心を閉ざした猫獣人青年を全財産で落札し、全力で甘やかす
藤宮かすみ
第01話「寂れた市場の、運命の出会い」
「――死んだ、のか」
ぼんやりと霞む意識の中で、最後に見たのは、自分のデスクに突っ伏したまま動かなくなった己の姿と、鳴り響くパソコンのエラー音だった。
連日の徹夜、山積みの書類、そして、もはや味のしないエナジードリンク。
過労死、というあまりにも現代的で、情けない最期だった。
次に目を開けた時、俺は「アキラ・フォン・ヴァイス」という、見も知らぬ若き領主になっていた。
窓の外には、絵画のように美しい、緑豊かな自然が広がっている。
与えられたこの身体には、まるで血液のように強大な魔力が満ちあふれていた。
広大な領地、若く健康な肉体、そして規格外の魔力。
普通なら、人生イージーモードの開幕に歓喜するところだろう。
だが、現実はそう甘くはなかった。
領地は活気を失い、民の瞳からは光が消えている。道は荒れ、畑は痩せ、かつての繁栄は見る影もない。
前領主であった父が急逝し、その後を継いだばかりのこのアキラという青年は、あまりに若く、そして頼りなく見えたのだろう。
民の信頼を得るには、まず、この貧しい状況を立て直さなければならなかった。
「さて、どうしたものか……」
俺は前世――サラリーマン時代の知識を総動員した。
農業改革のための土壌作り、特産品開発のための市場調査、衛生環境改善のための水路整備。
やるべきことは山積みだったが、不思議と苦ではなかった。
誰かのために働くこと、それが目に見える形で実を結んでいく感覚は、前世では決して味わえなかった充実感を俺に与えてくれた。
そんなある日、俺は護衛もつけず、お忍びで領内の市場を視察していた。
活気を取り戻すためのヒントが見つかれば、と思ったのだ。
しかし、そこは俺の想像以上に寂れていた。並べられた商品は少なく、人々の声も小さい。
その光景に胸を痛めながら歩いていると、ふと、市場の最も薄暗い一角に、人だかりができているのが目に入った。
好奇心に引かれて近づくと、そこにいたのは奴隷商だった。
鉄格子のはめられた粗末な檻がいくつも並び、中には様々な種族の者たちが、うつろな瞳で座り込んでいる。胸が締め付けられるような光景だった。
こんなことが、俺の領地で行われている。その事実に、領主としての不甲斐なさと、どうしようもない怒りが湧き上がってきた。
すぐにでもやめさせようと足を踏み出した、その時だった。
数ある檻の一つに、俺は釘付けになった。
そこにいたのは、一人の青年だった。陽の光を弾く美しい銀色の髪。ところどころ汚れてはいるが、その輝きは損なわれていない。
そして、伏せられた長いまつ毛の下からのぞく、澄んだ空色の瞳。ピンと張られた、柔らかな毛並みの猫の耳。
彼は、猫の獣人だった。
他の者たちが皆、生気を失っている中で、彼だけが違った。
その瞳には、諦めでも絶望でもない、何者にも屈しないという強い意志の光が宿っていた。
まるで、穢れのない宝石のようだ、と柄にもなく思った。
彼は、騒がしい周囲など意にも介さず、ただ静かに、まっすぐに、俺のことを見つめていた。
その視線から、なぜだか目が離せなかった。
「旦那様、何かお気に召しましたかい?」
下卑た笑いを浮かべ、奴隷商が話しかけてくる。
「こいつは上玉でさあ。見てくださいよ、この毛並み、この瞳。気位が高くてまだ誰にも心を許しやせんが、そこがいいって言う物好きな方もいましてね。少し値は張りますが」
商人の言葉など、耳に入らなかった。
俺はただ、檻の中の彼と見つめ合っていた。空色の瞳に映る俺は、どんな顔をしているのだろうか。
周囲の護衛や側近がいれば、きっと止められただろう。
「領主様、奴隷などお買いになってはいけません」と。あるいは「もっと実用的な奴隷もおります」と。
だが、幸か不幸か、今の俺は一人だった。
俺は、ほとんど無意識のうちに口を開いていた。
「……彼を、買う」
その言葉に、奴隷商は一瞬きょとんとし、それから狂喜に顔を歪めた。
提示された金額は、現在の領主の財産からすれば、ほとんど全財産に近い法外なものだった。領地の改革資金に充てるべき大切な金だ。
だが、俺に迷いはなかった。
ここで彼を見捨てて、他の誰かの手に渡らせてしまったら、俺は一生後悔する。そんな確信があった。
これは衝動買いなどではない。運命、と呼ぶには大げさかもしれないが、それに近い何かを感じていた。
金貨の詰まった袋を渡すと、奴隷商は汚い手で檻の鍵を開けた。
「さあ、お前の新しいご主人様だ。とっとと出てこい!」
乱暴に腕を引かれ、彼は檻から引きずり出される。その瞬間、彼の体が小さくこわばったのが分かった。
俺は思わず奴隷商の手を振り払い、彼の前に膝をついた。
彼の首には、所有者を示す冷たい鉄の首輪がはめられている。俺は、その首輪にそっと手を伸ばした。
「……っ」
彼はびくりと肩を震わせ、身構える。怯えと警戒が最大限に高まった空色の瞳が、俺を射抜く。
大丈夫だ。何もしない。
そう伝えたくて、俺はできるだけ穏やかな声で言った。
「君の名前は?」
彼は答えない。ただ、警戒を解かないまま俺を見つめている。
「そうか。じゃあ、俺が名前をつけよう。君は今日から『カイ』だ。俺はアキラ。よろしくな、カイ」
そして、俺は彼の瞳をまっすぐに見て、はっきりと告げた。
「契約は結んだ。だから、君の所有者は俺だ。だが、勘違いしないでほしい」
俺は懐から小さな鍵を取り出し、カイの首輪に差し込んだ。
カチャリ、という軽い音と共に、彼を縛り付けていた鉄の輪が外れる。
カイが、わずかに目を見開いた。
「君を奴隷にするつもりはない」
自由になった彼の手に、外したばかりの首輪を握らせる。
「それは君が持っていてくれ。捨てるなり、壊すなり、好きにするといい。さあ、行こう。俺の家に」
俺は立ち上がり、カイに向かって手を差し伸べた。
カイは、俺の手と顔を交互に見つめ、動かない。その瞳に浮かぶのは、困惑と、ほんの少しの……期待、だろうか。
いや、まだ警戒心の方がずっと強い。
俺は苦笑し、差し出した手をゆっくりと下ろした。
「……そうだな。まだ、信じられないよな」
無理もない。今まで酷い目に遭ってきたのだろう。突然現れた男にこんなことを言われても、すぐに信じられるはずがない。
「無理にとは言わない。だが、行く場所がないなら、とりあえず俺の家に来ないか。温かい食事と、眠るためのベッドくらいは用意できる」
俺は背を向け、ゆっくりと歩き出した。
ついてくるか、来ないか。それは、彼自身の選択だ。
一歩、また一歩と市場の喧騒から遠ざかる。背後からは何の音もしない。
(……ダメだったか)
諦めかけた、その時。
くい、と服の裾が、ほんのわずかな力で引かれた。
振り返ると、そこにカイが立っていた。俯いていて表情は分からない。
だが、その小さな手は、確かに俺の服の裾を掴んでいた。
その小さな、小さな一歩が、どれほどの勇気を必要としたことか。
俺の胸に、じわりと温かいものが広がった。
「行こうか、カイ」
今度は、返事の代わりに、掴む力がほんの少しだけ強くなった気がした。
俺はカイの歩調に合わせて、ゆっくりと屋敷への道を歩き始めた。
これから俺と彼の間に、どんな物語が待っているのか。それはまだ、誰にも分からない。
ただ、この出会いが間違いではなかったと、そう信じたかった。
寂れた市場で見つけた、穢れのない宝石。
いつか君が、心から笑える日が来るように。
俺は心の中で、強く、強く誓った。
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