十、親の情愛


「難しい言い方にはなりますが、私は"正しいことが必ずしも正解であるとは限らない"と思っています」

「正しいことが、えーっと正しくないって、うん?」

「例えばそうですね。楊甜さん、貴方の家から物が盗まれてしまいました。貴方はその犯人をどうしますか?」

「ど、どうって、うーん、取ったものを返して欲しいです。あとは、役所に訴え出る、とか?」

「この国では身分にもよりますが、殺人を犯していないなら城旦の刑(築城などの強制労働)が妥当でしょう。さて、ではその犯人が病の子供のために薬を奪ったとしたら、どうです?」

「えっ」


 盗みを働くくらいだから困窮している家なのだろう。そして自分の今の暮らしは、昔と比べれば随分と余裕があった。

 ここで自分がどう答えるかで、その犯人の人生は大きく変わる。これは酷な問いだと、楊甜は手のひらに汗を滲ませた。


「…見逃します」

「うん、それもまた一つの選択です。大丈夫、間違っていませんよ。しかし恪は恐らく、法に則って処断を降すと"躊躇なく"答えるでしょう。そしてその選択もまた正しい」

「でもそうなると、その病気の子供達は」

「命を落とすでしょう。しかし恪はこう答えるはずです。ここで見逃せば法の意味がなくなり、病の子供がいる親は何をしても良いと他の誰かが考えるようになる、と」


 確かに、諸葛恪の答えは最もである。正しい。でもどこか釈然としない気持ちがあるのも確かだ。

 諸葛瑾は相変わらずにこやかなままで、戸惑う楊甜を優しく見つめていた。


「そういう顔になりますよね。たしかに恪は正しい。しかし正しいだけでは人は納得しない。法もまた平等かつ公平ではないのです」

「では、御屋形様はどうお答えに…?」

「うーん、そうですねぇ。悩みます。それこそ必死に、一生懸命に」

「え、悩むだけ?」

「悩んで悩んで悩んで、苦渋の決断で犯人を処罰し、彼が服役を終えるまでその病の子供の面倒を彼の信頼できる人が預かれるように取り計らう、かと」


 勿論、これが正解と言うつもりもありませんが。そう言って困ったように諸葛瑾は首を振った。

 そもそも正解なんてものはこの問いにはない。だからこそ悩まなければならないし、この答えだって人によっては甘いとも厳しいとも言われるだろう。

 それでも悩み続けて、前に進んでいくしかない。これが諸葛瑾なりの「哲学」であった。


「本当は、恪は優しすぎるほどに優しい子なんです。悪いのは私だ」

「どういうことですか?」

「そうですね。あれはまだ恪が子供の頃、恪と殿下の顔合わせの宴席を陛下に設けてもらったときのことです」


 その宴席の場で酒に酔っていた孫権は、悪趣味なことに驢馬の首に「子瑜(諸葛瑾のあざな)」と書かれた木札を下げさせて、笑いものにしたことがあった。

 これは諸葛瑾の顔が細長く、驢馬に似ていることを揶揄した冗談であり、諸葛瑾も不快感を覚えつつも笑って済ませようとしていたのである。

 しかし公衆の面前で父を馬鹿にされたと怒った諸葛恪は、その驢馬の木札に「之驢」とすぐさま書き加えた。

 これにより驢馬の首には「子瑜之驢(諸葛瑾の所有する驢馬)」と書かれた木札が下がり、感心した孫権はその驢馬を本当に諸葛瑾に与えたのだとか。


「あの瞬間、私は涙が出るほど嬉しかった。ただ、同時に恐ろしくもあった。だから私は嬉しかった気持ちを抑えて、あの子をその場で𠮟りつけてしまいました」

「怒るって、そんな、どうして」

「陛下に盾突いたからです。もし陛下の虫の居所が悪ければ、我が家は滅んでいたかもしれません。でも、今でも思い出します。私はあの時どうすべきだったのだろうかと」


 諸葛家の当主として怒ること、父親として感謝すること、正解の選択肢はもっと他に無かっただろうか。

 もしここで正解を選べていれば、恪はもう少し謙虚な性格になったのかもしれない。

 そんな、今更どうしようもないことばかりが頭に浮かんでは、ずっと後悔の念として喉の奥に刺さっている。

 父親として自分は、息子にどんな背中を見せてあげればよかったのだろうか、と。


「恪は確かに天才だ。そしてあの子は優しいから、人々からのその期待に応えようと人一倍の重圧を背負おうとしている。でも、天才でも一人の人間です」

「僕もご主人様に拾って貰った立場なので、よく分かります。あの人は僕の夢を笑わずに聞いてくれました。本当に凄い人なんです」

「そうですか」


 諸葛瑾は楊甜の手を取り、優しく包む。

 大きな、そして年齢を感じさせる乾いた手のひらである。


「どうか貴方にも、あの子の背負おうとしている重圧を少しだけで良いので、背負ってあげて欲しいんです」

「…僕が、ですか?」

「はい。従者としてではなく、一人の友として」


 友、それがいったいどういう関係をいう言葉なのか、楊甜はまだよく分かっていなかった。

 しかし胸が温かくなる響きでもある。思わず無言のまま、楊甜は諸葛瑾の目を見てゆっくりと頷いた。

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