ぜんぶ、水の泡

現実逃避星人

     

 私には超能力がある。ちなみに1週間ほど前、大洪水が起きて町が全部沈んでしまったけれど、それは私の能力とは全くの無関係だ。

 私の能力は、時を1週間だけ戻す能力。なお、戻っている間は、前の1週間と違う動きはできない。まったく同じ動きしかできない。つまり過去改変なんて大それたことはできない。同じ1週間を繰り返すだけだ。メリットといえば、記憶は残っているので心の準備ができる、何度も繰り返せば精神年齢が上がることくらいだ。小さい頃は嫌なこと、たとえば修学旅行とか、を後回しにしたくて何度も修学旅行前の1週間を繰り返したりしていたけど、大きくなればそんなこともほぼなくなった。まあたまにするけど。

 そんな超能力を持っていながら特に良いこともなく十数年間過ごしてきて、どうせ私の人生なんて、とほのかに諦めていた頃、思いがけない転機が訪れた。


 透き通った朝日にまぶたが照らされて、私は目を覚ます。目覚まし時計の音が聞こえないのにも、ようやく慣れてきた。目を開けると、すぐ横の無防備な横顔にドキリとする。白い光の中、眠る彼女は消えそうな天使のようで、思わずじっと見入ってしまう。

 今にも目を覚ますんじゃないかとハラハラしながらもひとしきり眺めてから、ゆっくりと起き上がった。どこの町にもありそうな、変哲のない白いビルの最上階は、窓ガラスが全て割れてしまって、全身が朝日に照らされてしまう。しわしわの制服とかボサボサの髪とか、色々浮き彫りになってしまってつらいけれど、まあ誰も見る人はいないんだしと割りきることにする。

 窓の残骸とそれにへばりついたカーテンの前に立つ。昨日と寸分も変わらない景色が広がっていた。淡い水平線に面した空は雲ひとつなく、ラムネ色の心地よい風が吹き込んでくる。歯磨きもしていないのに妙にさわやかな気分だ。いっぱい寝てるからかな。

 かすかに衣擦れの音がして、振り向くと彼女が身を起こしていた。こちらを見て、おはようと笑うその頬には、さっきの一筋の涙の跡はもう見えなかった。

 ぼろぼろのボートは乗り込むとだいぶ揺れて、底が抜けやしないかと不安になる。

「あ、私、漕ぐよ」

「ううん、大丈夫」

「でも、昨日も任せちゃったし。貸して」

 私はお言葉に甘えて、彼女がぎこちなくオールを漕ぎ始めた。船は水面をゆっくりと切って、進み始める。

 水面下には、じっとした町が静かに沈んでいる。商店街も、カーブミラーも、かすかに滲む横断歩道の白線も。そこに立っていた時とは、何もかも全く違うもののように思えた。

 少し漕ぐと、私達の通っていた学校が見える。私の現実の全てだった校舎は、今は全く現実味を失って見えた。かといって今腰を下ろしているこのボートは現実味があるのかと言うと全くそうではなく、むしろ眠る校舎よりずっとあやふやで、つかみどころの無いものに思えた。

「それにしても、ほんと良い天気だよね。星だって見えそう」

 眩しそうに上を見上げて、なのにオールを漕ぐ手は止めずに彼女が言う。融通の利かない怪物のように私達を睨む校舎から、目を逸らしたいのかもしれない。ほんと、雲ひとつない、なんて当たり障りのないことを言いながら、私は彼女ばかり見ていた。午前中特有の日の光に照らされて、白いシャツの影までくっきり光るようだ。丁寧に編まれた髪の、光を反射して茶色がかって見える毛先に1本の枝毛が見えた。それはなんだか、もしかするとスカートの中なんかを見せられるよりもずっと釘付けにさせられる光景のような気がして、でもやっぱり気まずくて目を逸らした。腕時計のバンドをいじくる。もうずっと前に、壊れて動きを止めてしまったけれど、捨てるタイミングがつかめなくていまだに私の腕に落ち着いている。

「あ、見えてきたよ。駅前のモール」

 波紋ひとつない水面から、背の高い建物がぽつぽつと顔を出していた。彼女がそのうちのひとつを指差す。遠くからでも分かる、カラフルなロゴがついている。

「もしかしたらさ、私達みたいに生き残った人たちがいるかもよ。みんないなくなっちゃったとは限らないんだしさ。もしそうだったら、嬉しいよね」

 つとめて明るく、何気ないことのように言おうとしても、彼女の口調には、必死さ、切実さが見え隠れしていた。いたたまれなくて、眼下に視線を戻す。魚さえいない水中にじっと横たわった町は、そういえば巨大な粗大ごみみたいだとふと思う。ごみにしては、いささか幻想的すぎる気もするけど。

 ショッピングモールの最上階、見慣れた映画館には、当然ながら人っ子1人いなかった。カラフルなタイルの床は、元の色が分からないほど汚れてさびついている。

「あ、これ私、見たかったんだよね」

 映画のポスターの前で、彼女が足を止める。それは洋画で、メタリックに輝くSFチックな街を背景に、イケメン金髪男と宇宙人らしきエイリアンのようなものが肩を組んで笑っている、いかにも彼女好みの変なポスターだった。宇宙一笑える問題作、のキャッチコピーにも無数の泥がこびりついていた。

「今でもまだ見れないかな」

「えっ、見る気なんだ?どうやって見るの」

「なんか機械とかあれば、適当にいじったら見れるかも」

「あったとしても壊れてるよ」

「そうかなあ」

 機械とやらを探して、彼女は『STUFF ONLY』と書かれた扉を覗いている。こんな状況でも、やたら呑気な性格は変わっていないのかも。昨日も、泥だらけの漫画を見つけて喜んでいたし。いや、単に気を紛らわせたいだけか。

「ねえねえ、ポップコーンだと何が好き?」

「うーん、特に好みとかないかも」

「えー!私はぜったいキャラメル」

 全くもって場違いで能天気な会話をくり出されるけれど、こんなふうに友達みたいに喋るなんて、街が沈む前ではぜったいにあり得なかった。そう思うと、不謹慎だけど、素直に嬉しい。映画館が無限に広ければいいのにな、と何度も思う。

「うわー、シアターに誰もいないのなんて初めて見た!あ、そうだ!」

 座席にぴょんと飛び乗って、彼女はくるりと回って見せる。

「私、一回、映画館の椅子の上に立ってみたかったの!すっごい見晴らしいいよ!」

 飛び跳ねる彼女の笑顔が、空元気だろうとなかろうと、暗い映画館の中で、そこだけがほのかに光って見えた。

「いやー、大漁、大漁!大収穫だったね!」

「そんなにパンフレットだけ手に入れても意味ないでしょ」

「あるよー、読むだけで十分楽しめますから!」

 大量のパンフレットの泥をひとつひとつ落としながら、彼女はずっと笑っている。ころころと花が咲いていくような笑顔の裏、ほんとうは真っ暗に泣き腫らした残骸だってあることに気づいていながら、ただ綺麗だと見とれてしまう。いつもそうだった。

「あ、見て、夕日!綺麗だねえ」

 いつの間にか日は沈みかけて、淡いオレンジ色の光を放っていた。水面が蜂蜜のような光を映して、キラキラと染まっていく。

 ボートの下の町も例外なく、夕焼け色に染まって優しい影を落としている。一瞬だけあの頃の、ただの夕暮れの風景と錯覚してしまうけれど、すぐに町並みは夕日で哀愁がプラスされた粗大ごみに変わった。それでいい。四六時中気分が沈んで、親しい人なんて1人もいなくて、ただずっと彼女に焦がれて、その周りを取り囲む大勢の友達に醜く嫉妬していた日々なんて、粗大ごみで良い。

 それでも彼女にとっては、と、これでもう何度目だろう、ふと思う。私にとっては粗大ごみでも、彼女にとってはきっと、宝物だったのだろう。この町も学校も家族も。今は全部、沈んでしまったけれど。

 また朝が来た。今日は珍しく彼女が先に起きている。これもいつもと同じ。

「私達が会ってから、もうだいぶたったよね。何日目だっけ?」

「今日で、7日目だよ」

 聞きなれた会話を繰り返して、またボートで出掛ける。勿忘草色の空に、今日はひとつふたつ、小さな雲が浮かんでいた。そろそろだな、と思う。

「あ!みて!」

 彼女が急に立ち上がったせいで、ボートが大きく揺れる。歓喜に溢れた顔で指差すその先には、もう一艘、ボートが見える。私達のより少し大きくて、綺麗なボート。そして人が乗っている。

「やっぱり、生き残ってる人がいたんだ!おーい!こっちです!」

 彼女が大きく手を振る。潮時だな、と思う。意味なんてないのに、つい壊れた時計を確認してしまう。


「...あれ?浅木さん?」

 ありふれたビルの屋上、ボロボロになったフェンスのすぐ側に立つ私。ボートを一生懸命漕いで、ゆっくりと近づいてくる彼女。何度も見た光景だ。

浅木あさぎさんも生き残ってたんだ!やった!私もだよ!」 私も嬉しかった。やっと彼女と2人っきりになれた。夢みたいだった。でもその夢は、たった1週間しか続かなかった。

 だから私は、時間を戻した。2人っきりでなくなるくらいなら、この天国のような1週間を、永遠に続ける方がいい。そう思ったから。

 この後彼女は、やっとビルに届いて、ボートから飛び降りて、駆け寄って、抱き締めてくれる。ただのクラスメイトでしかなかった私が、彼女の特別な人になれたんだ。途方もなく利己的で自己中心的な自分に嫌気が差すけど、止められない。洪水で私も壊れてしまった。あとに残ったのは、お砂糖よりもずっと甘ったるい幸福、ただそれだけ。

 水底の粗大ごみの上で、私は今日も、彼女と2人っきり。

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