泉-後編
静かな朝の光が回廊を照らしていた。
ユグリットは、一人で歩く回廊の空気を心地よく感じていた。
——ここ数日間の出来事が、まるで夢だったかのように思える。
ニルファールの優しい抱擁、
そして朝食の席にエリオットがいなかったことで、ユグリットの心は軽くなっていた。
(あの時間が、幻であればいいのに……)
しかし、それでも書庫には行く気になれなかった。
英雄王アラゴスの名を目にするだけで、何かに引きずり込まれる気がしたからだ。
だから今日は、気分を変えようと思った。
穏やかな風の中、久々に庭を散歩するのも悪くない。
——そう、思っていたはずだった。
けれど、足が無意識のうちに向かっていたのは、「恋人の泉」と呼ばれる場所だった。
庭園の奥深くに佇む、静かな泉。
澄んだ水は、揺れることなく鏡のように世界を映し出す。
この泉には、古くから伝わる言い伝えがあった。
「真実の愛を誓った者だけが、この泉に映る未来を見ることができる——」
(……なぜ、ここへ来たのだろう。)
水面を覗き込む。
そこには、静かに揺れるユグリット自身の姿があった。
「——本当に真実の愛を知っているのか?」
水面に映る自分の目が、そう問いかけているような気がして——
ユグリットは、そっと目を伏せた。
その時だった。
「ここでお会いするとは——奇遇ですね、ユグリット王子。」
——その声に、ユグリットの全身が凍りつく。
静かに振り返ると、そこには——
——エリオット・トリカロア
黒の礼服を纏い、金の瞳を柔らかく細めた青年が立っていた。
泉の水面に反射する光が、彼の黒髪を艶やかに照らしている。その姿は、どこまでも優雅で、どこまでも洗練されていた。
「エリオット……?」
その名を口にした瞬間、ユグリットの心臓が どくん と跳ねた。
——また、この男に囚われてしまうのか?
——せっかく、朝の光の中で心が軽くなったのに?
「おひとりですか?」
エリオットは、ゆっくりと近づいてくる。
「お供もつけずに歩かれるとは、王子らしからぬ振る舞いですね。」
冗談めかした微笑を浮かべるが、その金の瞳は決して揺るがない。
ユグリットの「逃げ場」が、既に失われていることを悟らせるように。
「……あなたこそ、どうしてここに?」
何とか平静を装いながら問いかける。
エリオットは、ふっと息を吐き、泉の水面を覗き込んだ。
「——真実の愛を誓った者だけが、未来を見られる泉、でしたね。」
「……。」
「興味があったのです。」
彼は ユグリットのすぐ隣 に立つと、再び微笑む。
「ユグリット王子——貴方は、ここに何を映しましたか?」
——その問いが、まるでユグリットの 「心の奥に隠したもの」 を暴こうとしているかのようだった。
彼の言葉の意味がわからずとも、ユグリットは直感する。
このままでは、また引き込まれる——
また、あの 抗えぬ甘い闇 に囚われてしまう——
「……何も見ていません。」
ユグリットは、静かにそう答えた。
そして、彼の視線を避けるように、そっと身を引いた。
「……失礼します。」
これ以上、この場所にいてはいけない。
ユグリットは、足早に立ち去ろうとした。
しかし——
「お待ちください、ユグリット王子。」
低く、囁くような声。
指先が、ほんの僅かにユグリットの袖を掴む。
たったそれだけのことなのに、ユグリットの全身に電流のような震えが走る。
「貴方は——」
エリオットが、金の瞳を細める。
「私を、避けていませんか?」
——心臓が、跳ねる。
(……何故、分かる。)
何でもない表情で、何でもないように接していたつもりだった。
それなのに、この男は、まるで すべてを見透かすように問いかけてくる。
「……避ける理由などありません。」
そう答えながらも、ユグリットの声は、わずかに震えていた。
エリオットは、それを楽しむかのように微笑む。
「では、もう一度お聞きしましょう。」
「ユグリット王子——貴方は、この泉に何を映しましたか?」
——彼は、確信している。
私が「何かを」見たことを。
(……逃げられない。)
ユグリットは、胸の奥でそう悟った。
そして、静かな泉の水面には、並んで立つ二人の姿が映っていた——。
エリオットは、泉のほとりに歩み寄り、鏡のような水面を覗き込んだ。
「私は幼い頃から、同じ夢を見ていました。」
その言葉に、ユグリットは眉を寄せる。
「夢……?」
「ええ。」
エリオットは、懐かしむような口調で続けた。
「毎晩、夢の中で出会うのです。
長い紅い髪を持つ、美しい青年に——」
ユグリットの指先が、かすかに震えた。
しかし、エリオットは気づかないふりをして話を続ける。
「彼の名はルキウスと言いました。」
ルキウス。
ユグリットの鼓動が跳ねる。
「私はその夢の中で、彼を見続けるうちに——すっかり恋に落ちてしまいました。 」
淡々と告げられる言葉。
けれど、その響きはどこか甘美で、抗いがたいものを孕んでいた。
「しかし、ある日気づいたのです。
彼は、ただの幻想ではないのではないかと。」
エリオットは、再び泉を見つめる。
水面に映る自分の姿を眺めながら、静かに語る。
「調べました。
この国の歴史を、書物を——
すると、一つの記述を見つけたのです。」
ユグリットは息を詰める。
「アラゴス王に、王弟ルキウスがいたと。」
「彼は、美しく、そして王に溺愛されていた。」
「もしかしたら——
私が夢で見ていたルキウスは、実在したのではないか?」
エリオットの声は、確信に満ちていた。
ユグリットは、呼吸が乱れるのを感じた。
(やめろ……これ以上話すな……)
心の奥でそう叫んでいるのに、エリオットの言葉は止まらない。
「——そして。」
「この国に訪れる前に、夢が変わったのです。 」
エリオットは、ユグリットを真っ直ぐに見つめる。
「ある日から、夢の中の彼の名が……ルキウスではなくなった。 」
ユグリットの喉が、ひくりと震える。
エリオットは、微笑みながら続けた。
「ユグリット—— 貴方の名になったのです。」
ユグリットは、息を呑んだ。
頭の中で、何かが軋む音がする。
逃げなければ。
今すぐ、この場を離れなければ。
けれど——
足が、動かなかった。
金の瞳に捕らえられたまま、ユグリットは静かに息を詰めた。
エリオットはゆっくり近づいてくる。
「これは……運命だと思いませんか?」
エリオットの指が、そっとユグリットの顎を掬い上げる。
「……!」
反射的に逃げようとしたが、動けなかった。
「貴方は、ルキウスの生まれ変わりなのでは?」
エリオットの唇が、そっとユグリットの唇に触れた。
——触れるだけの、優しいキスだった。
(違う……)
だが、次の瞬間——
その口づけが、まるで豹変するかのように深く、激しいものへと変わる。
「っ……!」
ユグリットの背が泉の欄干へと押し付けられ、逃げ場を失う。
エリオットの唇は、貪るように、熱を帯び、力強くユグリットの唇を奪っていく。
(この感触……!)
それは、悪夢の中で何度も味わったものだった。
——アラゴスの口づけ。
かつて、ユグリットが夢の中で抗いながらも、次第に快楽に沈められていった、支配と執着の唇。
(……違う……これは……エリオットなのに……!)
混乱する意識の中で、ユグリットは微かに震える。
エリオットの指が、ユグリットの頬を撫で、乱暴に髪を掬う。
呼吸が奪われるほどの口づけ。
胸の奥から、甘い痺れが広がっていく。
(やめないと……逃げなければ……)
だが、身体が拒絶の動きを取れない。
アラゴスの悪夢が蘇るたび、ユグリットは快楽の深みに沈んでしまうことを知っていた。
そして今、まさにその瞬間——
ユグリットの意識は、甘美な錯覚の中で溺れかけていた。
エリオットの舌が唇を割り、深く絡めとる。
——これは、誰のキスなのか?
エリオットのものか、それとも……
(アラゴスのものか……)
ユグリットは、抗えずに瞳を閉じた。
沈みゆく泉の底で、静かに、囚われるように——。
エリオットの唇がユグリットの唇を貪るように重なる。
泉のほとり、静寂の中で交わされた口づけは、次第に暴力的なものへと変わっていった。
「ん……っ、は……」
最初はただ触れるだけだった唇が、力を増していく。
逃れようとすればするほど、深く絡め取られるように、舌が差し込まれ、呼吸を奪われた。
(……アラゴス……!)
悪夢の記憶が呼び覚まされる。
エリオットの瞳が、夢の中で何度も見たアラゴスのものと重なっていく。
体の奥底で蠢く感覚に抗えず、ユグリットの膝が震えた。
それを逃さず、エリオットの腕が強く彼の腰を抱き寄せる。
「……ユグリット王子」
囁きとともに、エリオットの唇がユグリットの耳元をなぞる。
「ここでは人目があります……私の寝所で、ゆっくりと過ごしませんか?」
金の瞳が、決して拒絶を許さない圧力を帯びる。
断れば逃れられるはずなのに、その支配的な言葉に、ユグリットの心はざわめいた。
(……私は……)
悪夢の中で何度も支配された感覚が、脳裏に焼きついている。
そこに広がるのは恐怖——ではなく、甘美な快楽。
(ダメだ……行けば、もう……)
しかし、エリオットの腕がユグリットの肩を包み、抵抗する間もなく、静かに王宮へと歩みを進める。
——逃げなければ。
だが、体は言うことを聞かず、ふらりとエリオットに身を預けかけた——
「ユグリット!」
その瞬間、ユグリットの体がピクリと強張る。
聞き慣れた、しかし今はどこか遠ざけていた声。
振り返ると、そこに立っていたのはラーレだった。
剣の鍛錬を終え、まだ汗が残る額を軽く拭いながら、ユグリットを見つめている。
「……ラーレ……?」
ユグリットが呆然と彼の名を呼ぶと、ラーレの瞳がエリオットへと向けられた。
「エリオット王子?ユグリットをどこへ連れて行くつもりだ?」
ラーレの声は柔らかいが、その中には確かな警戒心が滲んでいる。
エリオットは穏やかな微笑を崩さず、礼儀正しく一礼した。
「ユグリット王子と庭園を散歩していたのですが、お加減が悪くなられたので、お部屋まで送ろうとしていたのですよ。」
その言葉は完璧に計算されたものだった。
表向きは優雅な気遣い、しかしその微笑みの裏には、 ユグリットを手放すつもりのない意志が潜んでいた。
「……そうか。」
ラーレは一歩前に進むと、ユグリットの腕をそっと引き寄せた。
「なら、僕が送る。」
一瞬、エリオットの瞳が鋭く揺らぐ。
それでも、彼はすぐに穏やかな笑みを浮かべたまま後ろへと下がった。
「それは安心ですね。」
そう言って、エリオットは静かにユグリットの手を離す。
だが、その指先が最後の一瞬までユグリットの手を撫でていた。
——まるで、「また迎えに行く」 とでも言いたげに。
ユグリットの背筋が、ぞくりと震えた。
ラーレは、ユグリットの肩を優しく抱くと、静かに王宮の廊下を歩き出した。
足元がふらつくユグリットの歩調に合わせるように、慎重に支えてくれる。
その温もりが、ひどく心地よかった。
「ユグリット、大丈夫か?」
ラーレの声には、心からの心配が滲んでいた。
けれど——
ユグリットは、本当のことを言えなかった。
「……少し、疲れただけ。」
罪悪感が胸を締め付ける。
もし本当のことを話せば、ラーレはどう思うだろう?
エリオットに囚われたこと。
自分が拒めなかったこと。
そして—— 快楽に溺れかけたこと。
それを知られたら、ラーレは…… ユグリットを軽蔑するだろうか?
「……少し休めば、大丈夫。」
ラーレはユグリットをしっかりと抱き寄せると、静かに頷いた。
「無理はするなよ。」
その声が、ひどく優しくて、胸が痛かった。
(ラーレは、何も知らない……)
だからこそ、この腕の中が、 ひどく心地よく、そして耐え難いほど罪深かった。
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