書庫-前編
久しぶりに穏やかな朝を迎えた。
食卓では、ラーレとニルファール——今は小鳥の姿——が愛おしくてたまらず、コーネリアとの談笑も自然と笑顔が溢れるほど楽しかった。
そして何より、エリオットの存在が気にならなかった。
彼はそこにいたのに、まるで透明な存在のようだった。
(……私はもう、過去に縛られない。)
ラーレとニルファールの温もりが、まだ心の奥に残っている。
彼らの愛によって満たされた今、私はもう揺るがない。
食後、一人書庫へ向かった。
久しぶりにゆっくりと本を読み耽りたかった。
書庫に入ると、微かな紙の香りが鼻をくすぐる。
静寂の中で、心が安らぐのを感じた。
ふと目をやると、アラゴス王の歴史書が並んでいる棚が視界に入る。
だが、それに怯えることはもうなかった。
(これはただの歴史書……過去の出来事に過ぎない。)
穏やかな気持ちで、そのまま通り過ぎる。
興味を引いたのは別の本だった。
小鳥についての本。
(……ニルファール。)
愛おしい小鳥の姿を思い浮かべる。
あの形のままで不便はないのだろうか?
もっと彼のことを知るために、よく学ばなければ……。
本を開き、集中して文字を追う。
幸福感に包まれていた。
——だが、その静寂を破る足音が響いた。
誰かが書庫へ入ってきた。
(……ラーレだろうか? それともコーネリア?)
パッと顔を上げる。
——そして、心が凍りついた。
目の前にいたのは……
エリオットだった。
金色の瞳が、静かにユグリットを見つめていた。
それは、逃れられぬ視線だった。
書庫の静寂の中で、エリオットの低く囁くような声が響く。
「朝食、楽しそうでしたね……」
その言葉に、ユグリットの指がほんの僅かに震えた。
エリオットはゆっくりと歩み寄り、ユグリットが手にしていた小鳥の本のページの上に指を滑らせる。
滑らかな金の指輪を嵌めた手が、ユグリットの甲に触れる。
——それは、かつて優雅にデッサンの筆を握り、そして、ユグリットの身体を支配した手。
その指が、ゆっくりと撫でるように動く。
「っ……!」
ユグリットは即座に手を引いた。
拒絶の意思を込め、エリオットと距離を取る。
だが、エリオットは微笑むだけだった。
彼の金の瞳は、まるで手のひらの上の獲物を見るように細められている。
「私との関係が、弟君に知られたら……なんて言うでしょうね?」
「……!」
ユグリットの胸が強く跳ねた。
喉の奥に押し込めていた罪悪感が、一気に蘇る。
エリオットは、ユグリットが言葉を失うのを楽しむように、さらに囁いた。
「それに——」
エリオットは視線を落とし、ユグリットが読んでいた小鳥の本を指先で弾くように軽く撫でる。
「あの可愛らしい小鳥……本当は一体誰なんです?」
ユグリットの呼吸が止まる。
「……何を言っている?」
何とか平静を装うが、エリオットの表情は揺るがない。
むしろ、彼の微笑みには確信めいたものが滲んでいた。
「私の国では魔法や呪術が盛んです。」
「変幻の魔法……その匂いがする。」
ユグリットの指先が凍りつく。
——気づかれた。
ニルファールの正体に、エリオットが気づき始めている。
(……どうして……)
ニルファールの存在を知られるわけにはいかない。
彼は、ユグリットにとって光そのもの。
なのに、エリオットは、その光に手を伸ばそうとしている。
ユグリットは、ぐっと本を閉じ、エリオットを真っ直ぐに見た。
「……何が言いたい?」
エリオットの微笑みが深くなる。
「さあ……?」
言葉を濁しながらも、彼の指先はまだ本の表紙を撫でている。
まるで、ユグリットが何を恐れ、何を隠そうとしているのかを確かめるように。
ユグリットは、微かに震えながらも、必死に思考を巡らせた。
ここで感情を乱せば、エリオットの思う壺だ。
彼の狙いは——ユグリットの安らぎを奪い、再び支配すること。
(……負けるわけにはいかない。)
ユグリットは深く息を吸い込み、静かに言った。
「あなたには関係のないことだ。」
エリオットは、その答えを予測していたかのように、静かに微笑んだ。
だが、ユグリットにはわかっていた。
——これは宣戦布告だ。
エリオットは、ニルファールの正体を暴こうとしている。
そして、それがユグリットにとってどれほどの恐怖になるかを、彼は理解している。
「……そうですね。」
エリオットは、ユグリットの頬に僅かにかかる紅い髪を指先で払った。
それは、かつての甘い愛撫に似ていた。
けれど、その指先には、確かな支配の意図が込められていた。
「貴方がどんなに拒もうと……私は、貴方を逃がしませんよ?」
ユグリットは、息を詰めながらも、じっと彼を睨んだ。
——エリオットが再び、手を伸ばしてくる。
その確信に、ユグリットの胸の奥がざわめいた。
書庫の扉が静かに開き、室内の張り詰めた空気を僅かに和らげるように、涼やかな声が響いた。
「あら、ご機嫌よう。二人もここにいたのね。」
軽やかに歩みを進めるのは、コーネリアだった。
緩やかに波打つ赤髪が揺れ、榛色の瞳が優雅に細められる。
彼女は書架を見上げながら、微笑を浮かべた。
「ニルファールをモチーフにした刺繍をしたいと思って、本を探しに来たのよ。」
そう言いながら、ふとユグリットの前に置かれた本に視線を落とす。
開かれていたのは、小鳥に関する書物。
「まぁ、ユグリットもニルファールのことを想って?」
その問いに、ユグリットは一瞬肩を強張らせた。
だが、すぐに口を開くよりも早く、別の声が優雅に割り込んだ。
「偶然ですね、コーネリア王女。私はユグリット王子に小鳥の本を見せてもらっていたのです。」
穏やかで礼儀正しい口調。
エリオットは柔和な微笑を浮かべ、悠然とコーネリアに向き直る。
「ニルファールは、今は侍女のアイーシャに見てもらっているわ。」
「ニルファールはとっても良い子よね。不思議なくらい。まるで……」
言葉を選ぶように、コーネリアの唇が一瞬止まる。
(やめろ——)
ユグリットの胸の奥で、警鐘のようなものが鳴り響く。
しかし、コーネリアの迷いを見逃さなかったのは、エリオットだった。
彼は穏やかなまま、緩やかに瞬きをしながら、静かに言葉を継ぐ。
「まるで人間みたい…ですか?」
その瞬間、ユグリットの全身が凍りついた。
エリオットの声は、あくまで上品で柔らかい。
だが、彼の金の瞳は、妖しい光を帯びながらユグリットを見つめていた。
まるで、秘密を暴き出そうとする狩人の目。
「……!」
ユグリットの喉がひくりと震える。
エリオットは、どこまで知っているのか。
いや、知っているのではない。ただ確かめようとしている。
この場で、ユグリットがどんな反応をするのか。
どれほど動揺し、どれほど怯えるのか——それを、じっくりと観察しながら。
(まずい……)
コーネリアは、純粋な興味で言葉を紡いでいた。
だがエリオットは、その無邪気な好奇心を利用し、ユグリットの心を揺さぶろうとしている。
「ええ……まあ……賢い小鳥ではあるけれど……」
コーネリアは首を傾げながら、違和感を抱えつつも言葉を続ける。
彼女はまだ、この場の張り詰めた空気には気づいていない。
だが、ユグリットは感じていた。
エリオットの視線が、自分を縛りつけるように絡みついているのを。
じわりと、掌に冷たい汗が滲む。
(……どうする……?)
この場で下手な反応を見せれば、エリオットは確信を深める。
しかし、何も言わなければ、それはそれで不自然すぎる。
(……ニルファールを守らなければならない。)
ユグリットは、震える指先を静かに握りしめた。
その時——
「ユグリット王子?」
エリオットが、ほんの僅かに首を傾げる。
視線はそのままに、まるで試すように、彼の名を呼ぶ。
(……私の反応を見ている。)
ユグリットの背筋を冷たいものが這い上がる。
何も知らないふりをするべきなのか——
それとも、適当な話題を作り出して、この場を切り抜けるべきなのか。
けれど、その間にも、エリオットの瞳はユグリットを捉えたまま、微かに笑んでいた。
その微笑みが告げている。
——私は、貴方の一番隠したいものを、知るつもりでいますよ。
ユグリットの顔から、僅かに血の気が引いていくのを感じた。
「……ニルファールは、確かに人間みたいだ……」
静かな声でそう答えながら、ユグリットはエリオットの金の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その視線は、探るようでいて、まるで絡め取るような深さを持っている。
(冷静になれ……本の知識を使うんだ。)
自分に言い聞かせるように、ユグリットは僅かに息を整え、手元の本のページを指先でなぞりながら、淡々とした口調を作り上げた。
「……でも、それは脳がよく発達しているからだ。」
エリオットの視線が僅かに細められる。
その反応に気づかぬふりをしながら、ユグリットは続けた。
「身体の大きさに対して頭が大きい。この本に載っている通り、小鳥は人間の幼児くらいの知能を持っている。 それに、人間の倍の色彩を識別することができる……。一見小さくても、人間並……いや、それ以上の知性があるんだ。」
言い終えると、コーネリアが目を輝かせた。
「まぁ、そうだったの! それなら賢いはずだわ!」
ユグリットの心臓が、強く脈打つ。
(……うまく誤魔化せたか?)
ちらりとエリオットを見る。
彼は微笑を浮かべたまま、静かに言葉を紡いだ。
「博識なのですね、ユグリット王子。」
その言葉に、ユグリットは僅かに肩を強張らせながら、努めて平静を装い、低く答えた。
「……本が好きなだけだ。」
エリオットの微笑は崩れない。
(……本当に納得したのか? それとも、まだ探っているのか……?)
ユグリットの内心は、不安と警戒で張り詰めていた。
しかし、それを悟らせるわけにはいかない。
指先に僅かに汗が滲むのを感じながら、ユグリットは慎重に息を吐き、何事もなかったかのように本の頁を捲った。
コーネリアが選んだ本を抱え、書庫を去っていった。
彼女の足音が遠ざかり、扉が静かに閉じる音が響く。
——再び、静寂が戻った。
そして、そこには二人だけ。
ユグリットとエリオット。
空気が変わる。
まるで、夜闇が忍び寄るように。
「……よく答えられましたね。」
エリオットの声が、囁くように落ちた。
それは、どこか妖しく、耳をくすぐる響きを持っていた。
ユグリットの手元には、小鳥の本。
しかし、その指先は、微かに震えていた。
「ですが、貴方は私のものです。」
エリオットは一歩、距離を詰める。
金色の瞳が揺らめく。
それは、ユグリットを逃さないという確固たる意志を孕んでいた。
——「私のものだ」
——その言葉が、ユグリットの脳を打つ。
瞬間、意識の奥底で何かが揺らぐ。
揺らぎ、溶け、沈んでいく。
(この言葉……聞いたことがある……)
まるで 呪いのように染みついた記憶。
それは、悪夢の中で幾度も囁かれたアラゴスの言葉だった。
「お前は、私のものだ」
——快楽を伴う支配。
——逃れられない執着。
エリオットの声が、悪夢の囁きと重なる。
そして、その瞬間。
ユグリットの脳が、快楽を呼び覚ました。
「っ……」
視界が揺れる。
喉の奥がひくりと震え、肌がじんわりと熱を帯びる。
指先が、紙を強く掴んでしまう。
違う、これは違う……
そう言い聞かせようとしても、
身体の反応は、あまりにも正直だった。
背筋に這い上がる、甘い痺れ。
心臓が跳ねる音が、ひどく煩わしい。
(感じてしまっている……)
エリオットの言葉一つで、
アラゴスに支配されていた記憶が呼び起こされ、
ユグリットは 快楽の扉を再び開いてしまった。
「……っ、違う……」
唇が震え、掠れた声が漏れる。
それなのに、エリオットはゆっくりと手を伸ばし——
ユグリットの顎を、そっと指で持ち上げた。
「本当に違いますか?」
囁きながら、彼の唇が近づいてくる。
逃げなければ。
このままでは、再び支配に堕ちる——
だが、ユグリットの身体は……
もう、後戻りできなくなりつつあった。
ユグリットは、全身を駆け巡る悪寒と熱の狭間で、必死に理性を手繰り寄せた。
——これは、エリオットだ。
——アラゴスではない。
そう自分に言い聞かせる。
だが、それでも、目の前の男の金の瞳が、悪夢の中で見た 紅の視線と重なる瞬間があった。
「……っ!」
彼は反射的に身を引いた。
これ以上、近づいてはいけない——本能がそう警鐘を鳴らしていた。
しかし、ユグリットの拒絶は、エリオットにとっては逆効果だった。
「……貴方をますます手に入れたくなる。」
熱を帯びた声が、低く囁かれる。
ぞくりと背筋を走る感覚。
それが、恐怖か、それとも別の感情か——ユグリットにはもう分からなかった。
エリオットは、瞳を細め、じっとユグリットを見つめていた。
その表情は、ただの恋情を超えた獲物を捕らえようとする捕食者のものに変わっていた。
「……やめろ。」
掠れた声で、ユグリットは静かに言った。
それは、拒絶の言葉でありながら、どこか頼りなげだった。
エリオットは、その脆さを見逃さない。
彼は微笑み、さらに一歩、距離を詰める。
「貴方のそういうところが、たまらなく愛おしい。」
その声音に、ぞっとするほどの執着と甘やかな支配欲が滲んでいた。
ユグリットの鼓動が跳ねる。
(……これは、まるで……)
脳裏に蘇る、悪夢の中のアラゴス。
逃げようとするルキウスを捕らえ、強く抱きしめた支配者の腕。
抗えば抗うほど、狂おしいほど求めてくる、その執着——。
ユグリットの喉が、ひくりと震えた。
(……違う……これは、夢じゃない……!)
だが、目の前のエリオットが向ける強い所有の眼差しは、まさにアラゴスがルキウスに向けていたものと同じ熱を宿していた。
そのことに気づいた瞬間——
ユグリットの目の奥に、滲むような痛みが広がった。
(……やめてくれ。)
(もう、私は……)
(あの悪夢の支配に、堕ちたくない……!)
ふと、瞳が揺れる。
一瞬、泣きそうになる自分を感じて、ユグリットは唇を噛み締めた。
それを見たエリオットは、ますます満足げに微笑む。
「……やはり、貴方は愛らしい。」
熱のこもった囁きが、ユグリットの皮膚をなぞるように響いた。
彼は逃げなければならないと、理性の奥で叫びながら、動けずにいた。
「次からは、私を無視しないでくださいね…」
エリオットの声が低く、滑らかに耳元に落ちる。
それは、静かでありながら確実にユグリットの神経を刺す言葉だった。
ユグリットは背筋を冷たいものが駆け抜けるのを感じた。
身体は強張り、心臓が跳ねる。
—— 朝食の席で、エリオットを無視したこと。
その時は 意識していたわけではなかった。
けれど、ラーレとニルファールに囲まれ、穏やかに過ごしていたユグリットは確かにエリオットの存在を軽く扱っていた。
まるで 彼がそこにいないかのように——
エリオットは、それを決して見逃さなかった。
「……!」
ユグリットは すぐに言葉が出なかった。
エリオットの囁きに、ぞわりとした感覚が背筋を這う。
その感覚が何なのか、ユグリットは正しく名付けることができなかった。
それは 単なる脅しなのか。
それとも 彼の執着が、次の段階へと移行したことを意味しているのか——。
エリオットはユグリットの反応を愉しむように、ゆっくりと背を向け、書庫の出口へと向かった。
悠然とした足取り。
まるで、この場を完全に支配しているかのような歩み。
ユグリットは、彼を呼び止めることもできなかった。
「……エリオット……」
かすかに名前を呟くが、それは声にならず、喉の奥でかき消えた。
エリオットが扉を開ける音が響き、 彼の姿は書庫の静寂の中に消えていく。
去り際の気配すら、余韻としてユグリットの心を縛る。
「……私は……」
ユグリットは、自分の手を握りしめた。
震えが、僅かに指先に残っている。
—— エリオットは怒っている。
それだけは確かだった。
しかし、それがただの怒りなのか、それとももっと深い何かに変わりつつあるのか——。
ユグリットは、彼の囁きを思い返しながら、じわりと込み上げる恐怖を抑えきれなかった。
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