四 フールズ・ゴールド〈SCRIPT〉その1

 有名な映画で、ストーリーが逆順に展開する話がある。結末が最初に描かれて、そのあと現在のシーンと並行して過去に遡るシーンが描写されていく。名作だしそんなに長くないから、見た人もたくさんいると思う。

 物語を逆順で描くことに意味はあるのか。そう思う人もいるかもしれないけれど、わたしは個人的に、あまりそういうのを気にする必要はないと思っている。途中で突然回想シーンが入り込むなんてよくあることだし、時系列をバラバラにすることだってある。どこが嘘でどこが本当か紛らわしい描き方をする作品や、あえて一部の情報を伏せて、物語の見え方を根本から変えるような作品だってある。そういうので際立った構成のやつには名前がつく。ミステリでいえば倒叙モノとか叙述モノとか、フーダニットとかワイダニットとかハウダニットとか、あとは何? でもそんなのどうでもいい。時間の流れも場所も都合も結局、全てに繋がっていてどこにも繋がっていない。

 そこに何があるのかなんて、最後にわかればいい。わかることが、できることなら。

 さて。

 ゴミ置き場での映画の撮影から二日後のことだ。

 わたしは映研えいけんの部員を部室に呼び出した。といっても、ケガしてる菜々子ななこ先輩はナシ。引退した祥子しょうこ先輩もナシ。ご家族と旅行中の二条にじょう先輩もナシ。合宿が流れて「聖地巡礼できないならこの部にいる意味ないかも」とか言ってたらしい井口いぐちさんもナシ。そしてわたしの独断で、宮本みやもともナシ。

 前の夜に緊張しすぎてよく眠れなくて、珍しく寝坊してしまった。なかなかな立ち漕ぎで自転車を駆って夏休みの学校に到着すると、これまた小走りに部室に向かい、息を整えてからドアを開けた。

「すみません。お待たせして」

「ん? ああ」

 中にいたのは一人だけだった。わたしの遅刻はさほど問題ではないようで「菓子食う? 湿気しけってるけど」なんて、誰かの持ってきたクッキーの箱を差し出す。

「おかまいなく」

 湿気ってるから。

 窓が開け放たれ、カーテンが揺れている。古い扇風機がコマ送りみたいな動きで首を振り、空気を攪拌する。湿度が高いのに、どこか乾いた光景。入部したての頃とは違ってスチール棚はきれいに整頓されて、『小道具・変態系』なんてどうしようもないラベルも剥がされている。棚の真ん中らへんに掛けられたちょっとよさげな時計盤は、今日も音もなく秒針を走らせている。わたし好みの光景。二〇型くらいの小さなテレビと、いつからあるのかわからないビデオデッキにDVDプレーヤー。これでよく映画を見たっけ。ほんの数か月の経験なのに、もう懐かしい光景。

「どうした? 座れば?」

 あごを伝う汗を拭うわたしに、つくだ先輩はこともなげに言った。普段通りで、いつもと同じ壁際の隅っこの席に座っている。いつものようにたわいない話が始まると思っているのかもしれない。

「天坂、脚本読んだぞ。面白かった。だから合宿は残念だったな——」

「あの」先輩の言葉を遮る。「今日はお話が」本当はいやだ。この先輩は寡黙だが、いい人で、何事も平等に眺めている。部の中では、エンジンの菜々子先輩やアクセルの二条先輩に振り回されながら、ハンドルの祥子先輩が引退したあと、一人でブレーキ役を買って出ているようにも見えた。ずっと、最後の最後でバランスを取ってくれる良心。そんなイメージの人だったし、これからもそうあってほしかった。でも、わたしはそのブレーキを叩き壊しにここに来た。

「きっともう」

 このときのわたしの、本当に本当の気持ちはこうだった。

 べつに放っておけば良いのだ。

 だって菜々子先輩が人に危害を加えられるのは、大抵の場合、彼女自身にも問題がある。でも、そうでないいくつかの場合にも、彼女はまたなぜかいつも不思議な引力で災難に遭う。

 ついてない偶然か、しょうがない必然か。不幸は概ねいずれかだが、そのどちらともつかない曖昧なライン上にあるものを、わたしたちは無視すべきなのだろうか?

 佃先輩の真正面に座る。

「きっともう気が済んだだろうし、もう起こらない。だったら放っておいてもいいかなっても思ったんです」

「菓子のこと?」

「ずっと疑問だったんです。ちゃんとしまったはずなのに、どうして机に置きっぱなしになっていたのか」

「ん? 菓子のことじゃないのか」

「宮本が片づけたって言ってて。わたし絶対しまったから、何言ってんだこいつって思って。でも」

「やっぱり菓子のこと?」

 佃先輩は周囲を見まわした。

「え? これ、何か撮ってる?」

「撮ってません。ええと、ちょっと待ってください」

 無意識に隣を見た。宮本はいない。わたしはこれまでずいぶんあいつに頼っていたのだと気づかされた。でも今日はわたし一人だ。

「ええと、菜々子、いえ……ミチカ先輩のことなんですけど」

「あいつがどうした?」

 それからふと視線を彷徨わせた。

「いや、そうか。骨折したんだったな。すまん、変なこと言った」

「そうですね。変なことです」

 目を合わすと挫けそうになるから、棚にかかる時計になんとなく目線を合わせる。

「わたし、ミチカ先輩のシナリオをノートの束に戻して、棚にしまったんです。それがまたテーブルに出てた。それってつまり、誰かが読んだんです」

「いつの誰のなんだって?」

 佃先輩が首を傾げる。ん、急かさないで。知らなかったけどわたし人に説明するのヘタクソだ。

「この部室、掃除してからずっときれいに保たれてました。みんな、出したものは片づけるようになってました。いちばん散らかしてた二条先輩がいちばん張り切って片づけたから、いちばん散らかすことにうるさくなった。そして、そもそも散らかすのって二条先輩と宮本くらいだったから、二人が気をつけるようになったら部室は散らからなくなった」

「まあ、そうかもな。いいことだ」

「でもノートが出しっぱなしになってた。それっておかしいです。だってしまえばいいのに」

「よくわかんないけど、二条か宮本なんじゃないの?」

「二人じゃないことは本人の口から確認済みです。だからノートを出しっぱなしにしたのは他の人で、その人には意図があった」

 視線を下ろすと、ずっとわたしを見ていたらしい佃先輩と目が合った。

「……つまり、ノートを置きっぱなしにした人は、それが読まれたことを伝えたかった……んだと思います」

「言いたいことはいくつかあるけど、天坂ってずいぶん遠くから話し始めるんだな」

「すみません」

「いや。知らなかったから、意外だなと思って」

 たしかに、佃先輩と二人きりで話す機会はこれまであまりなかったかもしれない。ここでもわたしは、経験の少なさに足を引っ張られている。

 ええと、どこまでいったっけ。あ、そうだ。

「佃先輩が怒るのはもっともだと思います。そして、その怒りを今更誰かに向けるのが無意味だって、先輩が思っているのもわかります。でも、止められなかった。そういうことですよね?」

「質問の対象はおれで合ってるのか? だったらおれが何に怒ってて、それを誰に向けていて、なんで無意味と結論づけたんだ? もう少し整理してくれるとありがたいかな」

 わかる。自分でもそうしたい。でもできない。言葉が有機的に繋がらない。いつかの宮本みたいに堂々と滑らかな言葉で以て相手の穴を突っつきたい。なのに言うべき理屈じゃなくて言いたい感情ばかりが前に出る。

「せめて我慢してほしかったし、それができないのならわたしたちに相談してほしかったです」

「うーん……人に相談するような不満はないよ」

 たしかにそうなのだろう。相談を必要としない人はたまにいる。一人で溜め込んで、一人で整理して、一人で結論づけられる。理性的で自分の物差しを持っている人だ。尊敬する。でも、そういう人は良くも悪くも他者からの目を蔑ろにしがちだ。だから、時に極端な行動に出る。自分の行動の責任は自分で負えればそれでいいと考えているからだ。

 わたしの理想的な考え方の人。

 だからこそわかる。そういう人に、罪悪感やモラルを説くのは無意味だ。全て承知の上でやっているのだから。

「先輩。お友達の手術は上手くいきましたか?」

「ああ、お陰様でな。完治まで二か月くらいはかかるみたいだが」

「でも、大会には出られなかった」

「そうだな……ああ、そういうことか。やっと繋がった。それを言うためにおれを呼んだのか」

 そう。

 話は菜々子先輩の中学時代に遡る。彼女が「システム」で守られていた、噂でしか知らないあの時代。

「システムでケガした人。佃先輩のご友人だったんですね」

 一昨日、久美子くみこ先輩と三輪みわくんがしていた会話。それで全部わたしの中で繋がってしまった。

 これはある意味、わたしのせいなのだ。

 佃先輩は、わたしがシナリオのノートを戻しに来たときに二条先輩と一緒に部室に来た。あのとき、わたしがしまったものに興味を持ってあとから引っ張り出し、そこで菜々子先輩のシナリオを見つけたのだ。

 あのときノートの存在を知っていたのは、わたし以外では宮本と二条先輩と佃先輩。わたしがしまったノートを出した人は、他二人が違うから消去法で一人になる。

 あれを読んで、書いた人が誰か気づけば、わたしがそうであったようにそれが菜々子先輩の罪の記録であることには気づける。わたし程度でさえそう思ったんだから、映研の人なら誰だって気づける。

 買い出しのときに二条先輩が説明してくれたこと。

 あのあと調べたら、関節内骨折というらしい。たとえば骨の、関節の中で骨折すると、ただの捻挫と勘違いして放置してしまったりする。さほど痛くないし、そのまま骨は癒着して治ったように見えるから。でもそのとき骨がちょっと曲がってくっついちゃうと、数年後、下手をすると十年後とかに後遺症が現れる。

 佃先輩の友達は、中学生の頃に手首を捻ったときの骨折が高校二年のいまになって顕在化した。

 手首を捻った原因は、発作を起こした菜々子先輩と相対したからだ。菜々子先輩の爪が剥がれた返り血でワイシャツが血まみれになった人。菜々子先輩は守られた存在だったし、ケガした当人も軽い捻挫だと思って気にも留めていなかった。だからみんなスルーして、当時はさほど大事にはならなかった。

 けれども佃先輩はシナリオを読んで、そのときの菜々子先輩の発作が「フリ」かもしれないと知った。

 たしかに、あのノートでは菜々子先輩は坪手さんをベッドから起こすために「フリ」をする計画を目論んでいるし、先んじて学校でテストすることも示唆している。

 佃先輩が「自分の友達のときに『フリ』をしたのでは?」と思ったとしてもしょうがない。菜々子先輩のことを、友達の晴れ舞台を潰した犯人だと思ったとしても。

「ミチカ先輩には、どこでその話をしたんですか?」

「ああ、この建物の四階に上がる階段のところで会ってな。他に人のいないタイミングは珍しかったから、聞いてみたんだよ。べつに責めるつもりはなかった。いや」

 佃先輩は少し首を傾げた。

「あったかもな。でもまあ、あいつも中学時代は大変だったんだろう。それはわかる。それにちょっかいかけたのはおれの友達の方だしな」

 佃先輩は頷きながら続ける。

「鬱陶しい学校の連中を黙らすために、多少大袈裟な行動に出る。そういうこともあるだろう。だから、うん。責める気はなかったんだよな。本当に。ノートを出しっぱなしにしたのだって、見たことを伝えたかったってほどでもないし、知らんぷりならそれでよかった。ただ、だったらなんで問い詰めたかっていうと……」

 天井を見あげ、それからわたしたちに視線を戻した。

「やっぱり、おれは気づいたぞって言いたかったのかもな」

 そう言って薄く笑った。

 佃先輩はお友達の骨折が発覚したあと何度目かに話したときに、骨折の大元の原因が中学時代のシステムだと知ったという。そのしばらく後にノートを読んで「もしや」と思ったそうだ。

「宮本が夏前くらいにウチの前の部長を懲らしめたじゃないか。まるで探偵みたいに証拠を固めて、自白を引き出して。あれ、ちょっと面白かったんだよな。正直ワクワクしたし、スッとした。ああいうやり込め方ができる人間はカッコいいなと思ったんだよ」

「宮本は大変だったし二度とやりたくないって言ってましたよ」

「だな。それが正解だ。本当は人間関係の軋轢なんて、全部見て見ぬ振りすればいいんだ。でも知っちゃうと言いたくなるってのはさ。止められなかった」

 そしてわたしを見た。

「いまのおまえもそうなんだろう?」

 その通りだ。

 わたしは佃先輩を糾弾したいとは全く思っていない。そもそも根拠を固めた推理でもなんでもない。わたしはこう思ってるんですけど、実際のところどうなんですか? 違うんですか? そうなんですか? あ、そうなんですか。ふーん……そうですかあ……。それ以上を望んではいない。

 ただ、悔しいのだ。

 せっかくできた脚本の、使い道が失われたことが。

 あれは菜々子先輩と坪手つぼてさんのことを思って書いたものだ。演じるのは菜々子先輩じゃなくちゃダメだし、ケガもしてちゃダメ。完璧な彼女が〝菜々子〟の名を捨てる。その意志を見せる。でなきゃ坪手さんはそれを受けとめられない。

 だからわたしが言うのだ。宮本もきっと気づいてるけど、あいつには言うメリットが何もない。だからわたしが言う。わたしがスッキリするために。

「ミチカ先輩を階段から突き落としたんですか?」

「信じてもらえないかもだけど……弾みなんだ。そこが階段だって忘れてた。これは言い訳だが無意識に手が出ていた。幸い、あいつが落ちたのは数段だったから、おれもあいつも大したケガだと思わなかった。あいつは笑って去っていったし」

「その場では痛がってなかったんですか?」

「ああ。あとから骨折したって知ってすぐ連絡したよ。でもあいつはべつにいいって笑ってた。おれが誰にも言わなければ、どうせ誰も気づかないって」

 たしかに映研の誰も疑ってなんてなかった。

「あいつは、自分がやったことがどんな形であれ返ってくるのはしょうがないって言ってたよ。そういうタイプとは思ってなかったから意外だったが」

「いや、そういうタイプだから無茶苦茶なんですよ」

「……なるほど」

 佃先輩は腕組みした。

「言われてみれば、自分が死んでもいいって思って相手を殺すタイプだ。覚悟が決まりすぎている」

「それはさすがに過言かも」

 わたしが吹き出すと、佃先輩も笑った。

「でもなあ。なんで腹が立ったかっていうと……おれは聞いたんだ。中学のときはフリだったのか、って」

 そして目を伏せた。

「あいつはなあ、覚えてないんだってさ。まあ、そういうこともあるだろう。仕方ない。でもさあ、最後に言われた言葉が、なんていうかカンに障った」

 最後の言葉? 気になったけど、わたしが聞くよりこの人が言った方がいい。そう思って黙っていると、佃先輩は溜息をついた。

「覚えてないってことは、フリだったかもしれないだろ? そしたらおれは許せない。でもあいつはこう言った。それは佃くんの問題でしょ、って。わたしは佃くんがわたしを許せなくてもべつに困らないって」

 わたしも少し似たところがある。

 人間、どこかの時点で自分の問題と他人の問題を切り分けなくちゃいけない。

 自分にできることはここまで、あとは仕方がなかった。自分が自分である以上、どういう選択をしてもこの結果は避けられなかった。

 そうやって折り合いをつけて生きていくしかない。

「あいつの言っていることは、理屈としてはわかるんだよ。問題は、感情は理屈じゃないってことだ。そして、べつに感情は理屈によって制御されなくちゃいけないなんて理屈はない」

 一理ある。

 菜々子先輩は、きっとずっと周りから特別扱いされてきた。病気だった時期にたくさんの人に助けられて生きてきたのだろう。とはいえ、その感謝があったとしても、その頃と同じような振る舞いを一生していけって求められたらきっと疲れる。でも周りは理屈じゃなくて感情でそういうのを求めてしまう。それもわかる。

 その「わかる」をずっと抱えてきた人は、どこかで「わかるけど、べつにいい」になる。その諦めが、菜々子先輩の自由さの陰に潜んでいる。外から見てもわからないから、時としてただの開き直りに見えるだろう。

 少しの間を置き、佃先輩は教えてくれた。菜々子先輩から最後に言われた言葉。

『きっとそのうち、誰かが素敵な言葉で慰めてくれるよ。わたしじゃなくて申し訳ないけど』

 それは特大の開き直り。

 次の瞬間には無意識に菜々子先輩の肩を押していたという。音は派手には立たなかった。気づけば菜々子先輩が階下にくずおれていた。我に返った佃先輩は、すぐに彼女に駆け寄った。あとは先の話の通り、らしい。

「何か、罪滅ぼしをする方法を考えてるけど何も思い浮かばん」

 俯く佃先輩に、わたしは答える。

「何もしなくていいんじゃないですか?」

「そういうわけには……」

「だって何も起きませんよ。佃先輩は勘違いしただけなんだから」

 佃先輩は、友人のケガがシステムの「フリ」により引き起こされたと想像して、復讐に及んだ。菜々子先輩本人は「覚えてない」なんて、しらを切るような台詞。佃先輩が衝動に駆られても仕方ない側面はある。

 でも。

「わたしは、やさしい方がいいですか?」

「いや、公平な方がいい」

 そう言うと思った。

「ミチカ先輩は『フリ』なんてしてません。佃先輩のお友達をケガさせたのは、その人が本当にミチカ先輩の名前の途中までを言いかけたからです」

 わたしは断言できる。

 だって坪手つぼてさんが断言したから。坪手さんは寝たきりの状態から、菜々子先輩の策略なんかに頼らず「自分」で動いたとはっきり言った。そして菜々子先輩はプライドが高いから、ここぞの勝負でズルはしないとも言っていた。菜々子先輩を誰より理解している坪手さんが言うのだから、誰がどういう思考の過程を辿ろうともその結論になる。発作について、病室でも教室でも彼女は「フリ」をしていない。

 なので佃先輩が友人の仇討ちをする意義はなかった。

 ついでに。

 先日の撮影で聞こえた声。あれは三輪くんだ。

 全然元気そうじゃない?

 なんでわたしが元気ないこと知ってるの?

 それからこっちは久美子先輩の声だった。

 やっぱ違うかなあ。

 合わせると、わたしが元気そうだからやっぱ違う。

 何が?

 あとから思えば、その前にあったやりとりも気になる。

 久美子先輩は菜々子先輩に「最近逆恨みされてる」って聞かされていたという。久美子先輩はその主を「中学のときのケガ」の人だと思い、先んじて「釘を刺し」ておいた。だからそこは問題ないはずだった。とはいえ「逆恨み」を抱いた人物は、「中学のときのケガ」の人ではないかもしれない。そこで彼女が思いついた第二候補がわたしだ。

 坪手の家に入り浸っていた、天坂とかいう女。坪手さんのことだから「片寄かたよせさんが警戒していた映研の子はもう来なくなったよ」ってことはすぐに伝えているだろう。つまりわたしがフラれたと知っている。「中学のときのケガ」と「失恋」は無関係だけど「逆恨み」が生まれうるという点で違いはない。なんなら横恋慕からの失恋なわけで、わたしの方が恨みのパワーは強いかもしれない。そう考えた久美子先輩は、わたしの監視のために撮影に来た。

 そしてわたしに揺さぶりをかけるために「中学のときのケガ」の人の話をしたのだ。けれどわたしは全然ピンときてなかったので、それを見た久美子先輩は自分の懸念は取り越し苦労だったと感じた。

 ところが直後、菜々子先輩が骨折したと聞かされる。

 事故というけど、一人のときに階段から落ちたから目撃者はいない。

 結果、久美子先輩の中でわたしへの疑念が再浮上した。きっとそのときわたしはぶっちぎりで第一候補に躍り出ただろう。

 というわけで久美子先輩は、わたしが失恋の逆恨みで菜々子先輩を階段から突き落とし、骨折させたと考えた。

 だから踊り散らかすわたしの様子を三輪くんと観察して、ヒソヒソ話をしていたのだ。

 彼女の思考の推移はだいたい想像できる。

 あの天坂って奴はミチカに逆恨みしてるかもしれない。でもカマをかけたけど無反応だったから違うかも。わたしの取り越し苦労だったのかな。え? ミチカ骨折したの? じゃあやっぱあの女か? でもメチャクチャ楽しそうに踊ってるなあ、やっぱ違うか……。

 そんな感じだろう。

 そのときのわたしは意識が研ぎ澄まされていたから、それらを耳で捉えてしまった。いや、普通にヒソヒソ声じゃなかっただけだろうけど。どっちにせよ、それを聞いたわたしと宮本は「菜々子先輩の事故は事件で、犯人がいる」と思うに至った。

 たぶん菜々子先輩はいつものように情報を操作しようとしたはずだ。

 彼女は久美子先輩に「逆恨みされてる」と伝えてしまっていたようだ。そこで「階段から落ちて骨折」なんて言ったら、まず間違いなく「逆恨み」と結びつけられる。それを避けるために、菜々子先輩は仲良しの久美子先輩と二時間電話したのに骨折のことを伏せた。

 ところが久美子先輩は三輪くんとつき合ったりなんかしたせいで映研に菜々子先輩以外のツテができており、撮影に来て骨折のことを知ってしまった。

 ていうか久美子先輩こそ菜々子先輩に言ってないんじゃないの? 恋人ができたって。

 だいたい、わたしが余計なことを知ってしまったのもあの人の余計な一言のせいだ。

 夏休みに手術する二年生のハンドボール部員。そんなの一人しかいない。その条件で複数いるなら「の坊主頭の方」とか「の中でいちばん背の高い奴」とか、追加で絞り込み条件がつくはずだ。だから中学の時のシステムでケガした人と佃先輩の友人は同一人物だ。

 佃先輩は菜々子先輩のシナリオノートを読んでいる。佃先輩が菜々子先輩を逆恨みするとは思えないけれど、本人に直接会って真相を確かめるくらいはするかもしれない。

 そう考えたときわたしは、そこで何かあった可能性を捨てられなかった。

 だからこうして佃先輩を呼び出して直接聞いたし、だからこのことを伝えられる。

「ミチカ先輩は佃先輩に仕返しなんてしませんよ」

「いや、仕返しを怖がってるってわけじゃないんだ。ただ……」

「ただ、何もないのが逆に不安だってことですか?」

「……その通りだ」

「それです」

 佃先輩は意味がわからないというふうに首を傾げた。わたしより付き合いが長いくせに菜々子先輩のことを知らなすぎる。

「そもそも、あの人は仕返しに怯えてない人に仕返しなんてしません。なので仕返しがあるとするならもう済んでます」

 菜々子先輩が、自身の発作に関することを覚えていないはずがない。なのにそう言ったのは、自分の被害と相手の弁済を同時に済ますため。後腐れなく物事を終わらすための、かつて特別扱いされてきた彼女ならではのテクニック。たとえばある地点を過ぎた瞬間に未来が過去に変わるように、励ましが労いに、「頑張れ」が「頑張った」に変わるように、悪意を罪悪感に変えたのだ。攻撃されたときに、復讐はすでに終わっている。

「むしろ、ミチカ先輩は佃先輩を庇ってくれたって言えるかも。実際、ミチカ先輩の骨折に誰かが絡んでるだなんてみんな思ってませんし。言葉でなんて言おうとも、ミチカ先輩は佃先輩の怒りを引き受けようと思ったんですよ。あの人が中学時代に人を傷つけたこと自体は本当だし、その罪滅ぼしはすべきだと感じたんじゃないでしょうか」

 骨折するとまでは思ってなかっただろうけど。

「……おれ、あいつがそんなにやさしいとは夢にも思わなかったよ」

「ひどい」

 わたしは声をあげて笑ってしまった。最初より気分はいくぶん落ち着いていた。

 時間はどれくらい経っただろうか。小腹が空いて、少しお菓子が気になってきはじめたくらいだ。湿気ってるから食べないけど。

「天坂と話せてよかったよ」

 佃先輩は安堵にも見える溜息をついた。

 でも、人の安堵がわたしのそれと重なるとは限らない。佃先輩は窓の外を見つめて続けた。

「そういうわけでおれは映研を辞める。二条は旅行からいつ戻るんだっけか。なんにせよ、戻ったら言う」

 その口調はとても乾いていて、それでわたしは初めて知った。

 映研のドライさはこの人によるものだったのだ。わたし好みのこの空間を司る人。咄嗟に言葉が出た。

「ダメです。それはダメ」

「……は?」

「佃先輩はこの部を辞めないでください。もちろんミチカ先輩も」

「いや、さすがにそれは無理だろ」

「簡単です。今日ここであったことを、誰にも言わなければいい。そしたら何も変わらない。ミチカ先輩が佃先輩に言ったのと同じです」

「おまえ、おれに罪悪感を抱えたまま部活やれと?」

「はい。ですから、これは共犯のお誘いです」

「なんだって?」

「この先、佃先輩は罪悪感を抱いてるんだろうなーっていう罪悪感をわたしは抱き続けます。黙ってれば、わざわざ追い討ちなんてかけなければよかったのにって後悔しながら。わたしも苦しむので、先輩も苦しんでください」

「天坂が苦しむ理由はないだろ」

「だってわたし、これ八つ当たりですよ? 最初に言いましたけど、ほっときゃ良かったんです。なのに言ったのは、わたしの映画の脚本が、せっかく書いたのに使い道なくなっちゃったっていう、その苛立ちをぶつけて満足したかっただけです。最悪です。自分勝手という意味では、お友達の仇討ちの佃先輩よりもひどいかも」

 この世で役に立たぬもの。夏炉かろ冬扇とうせんか、わたしの脚本ホンか。その悔しさに耐えられない愚かなわたしは、どれほど見かけ倒しでも何かを成せば自分も金ピカにひかれると思いたかったのだ。

 佃先輩は天を仰いで目を瞑ったあと、しばらくして唸るように呟いた。

「おれ、無駄なことしたよな」

 何も知らない第三者から見たらそういう評価になるだろう。でも人が誰かのために何かをしてしまうとき、往々にしてこういった空回りは発生してしまうものだ。そして菜々子先輩がそれを許容した以上、外野が何か言うのは野暮だ。

「人のためにってなると、あとに引けなくなるのなんでだろうな」

「それは、自分のことを諦められたくないからじゃないですか?」

 佃先輩はからかうように言った。

「また遠い話か?」

「いえ。うーん……その人にとって自分が価値ある存在だと、認めてもらえると期待してるから……みたいな」

「期待かあ……身勝手な話だな」

「まったくです」

 つい先日、坪手さんにフラれて思ったことだ。勝手に相手に期待されているという期待を抱き、それに応えたいと勝手に思い込む。そんなの全部錯覚なのに。わたしたちはしばしば、架空の期待に振りまわされる。そうでもしないと、この世界は味気なくてやってられないから。

 佃先輩は苦笑した。それから呟いたのは、ある意味で、きっと全ての人に対しての言葉だ。

「おれたちって、いったい誰と喋ってるんだろうな。本当に」

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