四 フールズ・ゴールド〈ACT〉その1
誰かになりたいと思ったことはないが、誰かのいる場所に自分がいたいと思ったことはある。ただしそれは叶わない。人間が物理的な存在である限り、一つの座標には一つの個体しか存在できないからだ。それが物事をややこしくする。解決するにはパラレルワールドが発見され、同じ座標が複数並列して存在する必要がある。そうすればもう一つの重要な問題も解決される。
そうではないから、問題はいつも問題として顕現する。
この合宿は男女別で二部屋の部屋割だった。きっと
裏切りやがってという怒りはある。けれどもそれは、裏切りそのものよりも裏切りをおれに言うチャンスがあったのに見送ったという点に強く向いている。さっき握りしめた拳はなんだったのか。
いや、言っても詮無いことだ。事態は動きだしている。
いま、菜々子先輩はおれの目をじっと見据えながら、次の台詞を待っている。
本当ならここでおれが言うのは、次のような台詞だ。
——そんな陰険な先輩には、もっと本当に捨てるべきものがある。
この映画『くらげのできるまで』は「何かを捨てる話」で、本来菜々子先輩が捨てるべきはボロボロになった文庫本だ。古いSF小説で、大好きで何度も読み返したけど中学の頃にカバンに入れてたら大雨に降られてずぶ濡れになり、乾かしてもどうにもならなかった。人からプレゼントされた本だからずっと捨てられずにいる——そんな一冊だ。その本を他の人の諸々と一緒に箱に入れて燃やす。それで彼女に名前が戻る。そういう物語だった。
でも、このクライマックスで唐突に捨てるものを変える。そのときの顔を、言葉を、反応を映し、編集し、映画に残す。
そんなおれの目論見は、彼女に筒抜けだった。
菜々子先輩はおとなしくおれの言葉を待っている。「どう出るんだ
「ねえ、これからどうなるの? わたしは何を捨てたらいいの?」
この人のことだから、真柴から計画を聞かされても「面白そうだからそのまま続けて」なんて言っただろう。事実、監督役はすでにカメラを下げているのに、横槍を入れてくる者はいない。真柴が小声で合図して、彼らの動きを抑えているのだ。
全ては動いている。
おれは胸の内で、いまの気持ちを反芻する。
よかった。
真柴を信用してよかった。
真柴が裏切る奴だと、信じてよかった。
おかげで向こうから乗ってきてくれた。
「先輩。おれ、この合宿に来る前に、いろんな約束をしたんです」
「ふうん?」
「それを全部果たせそうです」
「どうやって? お得意の推理で? 宮本くんは推理したいの?」
「とんでもない。誰かによって歪められた現実が、いかにして実現したのか。それを捉えたかっただけです」
「それが推理では?」
そう呼びたければ、それでも構わない。けれどもおれは何も推測していない。あったことを組み合わせて知ったことを伝えるだけだ。
菜々子先輩は腰に手をあて、おれを見据える。
「探偵のお話につき合ってやろうかな。順番に聞かせてちょうだい」
「おれが約束した相手の一人は真柴です。あいつからの依頼内容は——」
「
「正しくは『
菜々子先輩は首を傾げた。
「まあ……舞ちゃんの様子が変だとは聞いているけど。それで、この映画を撮ることとどう繋がるの?」
「始まりは、部室でおれと天坂が見つけたノートです。天坂はそれを土台に脚本を書こうと試みた」
「そうだね。個人的には、最悪の巡り合わせ」
おかげで天坂は脚本に悩んだ。プライドが高いのに影響を受けやすい奴だから、自分の内面がグラグラと揺さぶられて大変だっただろう。
「一方で先輩は、夏休みに入ってから、ノートがないことに気づきましたね?」
「そうだね。夏休みはさすがにいつも宮本くんが部室にいるわけじゃなかったから、探す時間をゆっくり取れたしね。でも、棚の中のものをいくら引っ張り出して探しても、見つからなかった」
おれが持って帰ったからだ。
そして先輩は自分の秘密のノートの不在に気づき、頭を悩ますことになった。
「誰かが持ってったんだとは思ったよ。そしてもちろん、脚本を書く舞ちゃんが第一候補だった。探りを入れて勘繰られるのは嫌だから、少し様子見することにしたけど」
「おれに脚本の進捗を管理するように言ったのもそのためですね」
「まあね」
夏休みの序盤に部室で会ったとき、進捗管理のついでに探りを入れられた。天坂をどこかに連れ出せなんて言われたり、妙だと思ったものだ。あのときのおれの反応で、先輩はおれと天坂が先輩のシナリオノートの追究をしていたことを察しただろう。
「ノートがなくて、持ってったのが舞ちゃんと仮定すれば、わたしとしては彼女がそれを脚本のアイディアに使う可能性を当然考えるじゃない? で、そこに宮本くんも絡んでるなら、ノートの内容が実際にあったことだと気づく。それなのにノートを返さないしわたしにも何も言わないってことは、二人はノートを読んだこと自体がタブーなんだと思ったってこと。そしたらきみかきみたちは『わたしが、きみたちはノートの内容を裏取りしようとするつもりだ、と考える』と考えるよね。そうじゃないかもだけど、わたしはそう思いついた。思いついた可能性は『ある』って考えて動かないとじゃん」
菜々子先輩は腰に巻いたストールを解き、それで帽子の代わりみたいに頭を覆った。
「宮本くんならどうとでもして
「それについては反省してます」
「当たり前だよ」
そして、おれが坪手さんの住所を知ったとして、もし彼の家に行くとして、脚本を書くのは天坂だ。だから菜々子先輩は、天坂も同行していることを当然想定する。
するとどうなる?
「おれは、天坂に念を押したんです。もう行く必要はないだろって。でも天坂は意に介さなかった」
「みたいだね」
先輩はあっさりと言った。おれはそこに指を立てる。
「それ」
「どれ?」
「いまのです。おれ、それが不思議だったんです。菜々子先輩が、そんな自分のプライバシー領域ともいえる人間関係にたかが部活の後輩を踏み込ませて、それを放置するだなんて……ちょっと考えづらい」
「放置したといえばそうだね。さっきも言ったけど、少し様子見しようと思ったから」
「それにしたって、天坂が坪手さんのところに何回行ったのかは知らないけど、それができたことに違和感を覚えました。だから、おれは仮説を立てました」
「探偵っぽいじゃん。本人に聞けば一発なのに」
「先輩が何を企んでいるかわかりませんでしたからね」
菜々子先輩は目を泳がすわけでもなく、鼻で嗤った。「で、仮説って何?」
「先輩は、坪手さんと天坂がくっつくならそれでいいと考えた」
「それは……考えすぎかなあ。他人のあれこれに首を突っ込む立場じゃないと思っただけだよ」
「本当に?」
「何? 嫉妬に狂うと思った?」
「いえ。先輩はホッとしたんじゃないかと思いました」
「なんで。いや……」
菜々子先輩は視線を上に飛ばし、また下ろした。目の色に少し、真剣さが宿っていた。
「そうだね。舞ちゃんは賢くて真面目な子だから、坪手くんとも話が合うんじゃないかなっては、思った」
「意外とお似合いだと」
「でもくっつくとか、それでいいとかは思ってない。干渉しなかったことをそんなふうに勘繰られるのは、やっぱり考えすぎかなって思う」
「そうですね、それだけなら」
「精神分析してんの?」
「いえ、どちらかというと理屈の話です」
「屁理屈じゃなくて?」
「どうだろう。ひとまず言えるのは、先輩は感情を理屈で操作する人だ。人に向けて平気でそれをする。てことは、自分だったらなおさらでしょう」
「なんだかすっごい悪口言われてる気がする」
まったくである。おれこの人のこと好きなのに、悪口がいくらでも出てくる。口が滑る前に、話を先に進める。
「ここで、ノートの中身にちょっとだけ触れましょうか。先輩の昔の『事故』は、世間に表向きになってる事実と、先輩と坪手さんの間で『そういうことにした』二人の間での表向きの事実が異なる。そのことはノートに書いてありました」
「そうだね」
「そしてもう一つノートに書かれてたのは、坪手さんにあえて気づかせた偽の真相があるってこと」
「それも……そうだね」
「それにより、坪手さんに呪いがかかった」
「急にオカルト?」
「いえ。単純な刷り込みです。坪手さんは、『事故』の原因が菜々子先輩にあると思った」
「わたしがそう仕向けたって言うわけだ」
「はい。そして仕向けたということは、真相はさらにもう一段階あるってことです。①表向きの真相、②二人の間の表向きの真相、③坪手さんに刷り込んだ偽の真相、そして④本当に本当の真相。あのノートから、事件の真相には四段階あることがわかります」
「だいぶ読み込んだんだね。だとして、その④の真相がわかったっていうの?」
先輩は自分の言葉に自分でおかしくなったらしく、吹き出して言った。
「わかるわけないと思うんだけど」
「はい。わかりません」
おれは両手を広げる。
「事故は数年前で、詳細も当事者にしかわからない。ノートをいくら読んだって、書かれてないことが多すぎるからわかりようもない。そもそもどこまで本当のことが書かれているのかもわからない」
「そうだね。なんの根拠にもなんない。④が存在するってのだって、宮本くんが言ってるだけかも」
「でも、第三者があのノートを読めたって事実からわかることがあります」
「たとえば?」
「もしあのノートだけで真相がわかるのなら、持ち主はあのノートを家から出したりしないでしょう」
「もしかしたら殺人事件の証拠になるからね」
「てことは、あのノートからわかる④の真相は、たとえば誰かの『故意』だったってことじゃない。犯罪の証拠なんかじゃない」
「だから?」
「子供の頃の事故は、坪手さんの過失だってことです」
「断言するんだ」
「ちょっと言いすぎかな? ただ、少なくとも彼は純粋な被害者じゃない」
「それは敬意を欠いてるよ」
「なら、坪手さんと菜々子先輩の共犯だ。いや、エヌって人も含めた三等分か、周辺の出来事も含めれば関わる人がもっと多いかもしれない。どれくらいの人の思惑が重なったかわからない、偶発の事故だってことです。これはおそらく合ってる」
坪手さんは菜々子先輩との接し方を決めきれずに過ごしていたようだが、おれたちがあそこに行った時点で彼は、少なくとももう怯える必要性を失っていた。
小学生のときの事故は対外的にはエヌって人のイタズラの結果だとなっている。でも菜々子先輩と坪手さんの間では別の人のせいだとなっている。でも坪手さんは内心では実はそう思っていなくて、菜々子先輩がやったんじゃないかと思っていた。だから坪手さんは菜々子先輩に「怯えて」いた。もちろん、それが事実ならとんでもないことだ。
でも、おれと天坂が菜々子先輩のノートを見つけた。
そんなものがおれや天坂に発見されていいはずがないのだ。
本当に人に見られて不味いものなら、とっとと処分するか自宅の自室の奥底に隠す。
犯罪の証拠になり得るノートが捨てられておらず、あまつさえ簡単に人の目に触れた。逆説的に考えて、そこに記されているのは真相じゃない。なら順接的に考えて「実は菜々子先輩が犯人だ」というのは、菜々子先輩が坪手さんにそう思わせていたことであり、その奥にはより不都合な真実が覆い隠されていると考えられる。
「そうかな。そんなややこしいこと起きるかな?」
「前に起きたウチの学校での盗撮事件だって、蓋を開ければ多くの人が関わりすぎて全体が見渡せなくなってただけでした」
「ああ。まあ、それはそうだね」
「先輩たちの子供の頃の事故も同じようなもんです。誰か一人のせいだと思えば見誤る」
おれは、彼女からの反論がないことを確認して続ける。
「少なくとも事件の中心にいた三人……坪手さん、エヌ、菜々子先輩は、被害者であり加害者でもあった。それがあのノートからわかると思います。関わりの度合いと代償の大きさが釣り合ってるかまではわかりませんけど」
「それで?」
「亡くなった人のことはどうしようもないので、ここでは触れません。きっと先輩もそうなんだと思います。ただ、残された二人のことを考えたときに先輩は、坪手さんはもう充分代償を払ったと思った」
先輩は腕を組んで口先を尖らせた。何か言いたいが瞬時に思いつかないときによく見せる仕草だ。何か言われる前に先んじて言葉を継ぐ。
「だから、彼の罪を彼に自覚させたくなかった」
「わたし、そんなにやさしくないよ?」
「そうでしょうかね」
思わず笑みが漏れた。
「その判定は棚上げしますが、やさしさでないなら先輩自身に都合が良かったのかもしれません」
「また分析が始まった」先輩は頭に載せたストールの両端を抓み、ぐっと下に引っ張った。少しふてくされた顔を見せて言う。
「聞くよ。その心は?」
「坪手さんへの執着を持ち続けられる。そして、彼の意識の中に常にあり続けられる」
「重すぎ女じゃん」
「だって好きなんでしょ?」
菜々子先輩の眉間に険しく皺が寄る。
「……そんなの言わせる?」
「言わなくていいです。ただ先輩は、彼が最終的に④の真相に気づくと考えた。そのときまでに自分の気持ちの整理がしたい、その猶予期間がほしかった」
「なんか気持ち悪い言い回し。やな気分」
でも先輩はこの話を遮らない。そうすることもできるのに、おれの話にじっくり耳を傾けてくれている。この人は、根っこはフェアな人なのだ。だからこその猶予期間だ。
「この先の長い人生で、ずっと子供の頃の傷を背負い続けることはできない。でしょう?」
「そりゃあそうだね」
「かといって、すぐには捨て去れない」
「それもそうかもね」
「先輩は、彼が④の真相に気づくまでに、彼に寄り添うと決めた。彼が真実に気づいたときにケアして彼が普通の生活に戻れるようにするため、彼の中に自分を残し続けたいと考えた」
「介護役ってこと?」
「サポート、くらいに思ってもらえれば」
「なんでそんなことを?」
「それこそやさしさでしょう。目覚めたばかりの彼に『ずいぶん寝てたね、自業自得だけど』とは言わない。でも、いつか真実に気づいたときに『きみ一人のせいじゃない』と伝えられる」
「その役割を勝手に背負って彼にしがみついてた、みたいなことを言おうとしてる?」
「その受け取り方はやさしくないかなあ」
おれは頭をかきつつ、周囲へと視線を飛ばす。
「菜々子先輩は、サポートしてくれる人のありがたみをよく知ってるでしょう。中学の頃はきっと多くの人に助けられた。それこそ
「それは……まあ、そうか。感謝してるよ。なんの得にもなんないのにいろいろしてくれて」
べつに、人を支えようって動機が深刻であるとは限らない。友達だからとか、近しいからとか、日常の人間関係の延長線上にあるものだったりもする。
「単に二人が疎遠になった場合のことを考えてください。いや、考えてないはずないでしょうけど。彼が一人で真実らしきものに気づき、自分一人のせいだと思い込んだら。彼は人の死を全部背負い込むことになる。だから、そうじゃないと伝える役目。これ自体は、掛け値なしに意義のある立場ですよ」
「でもさ。そんなの、起きたその場で教えればいいことじゃん。『自業自得』を伏せて『きみのせいじゃない』とだけ言えばいい」
先輩は言ってから気づいた様子で、口元に手を当てた。
「あっ。実際そうしてるのか、わたし」
「そう。先輩は彼に、自分のせいじゃないって思い込ませようとした。ほら、やさしい」
「それは、彼の心の中に残りたかったから……いいよそうだよ、執着だよ」
「映画をおくるのも、彼に自分の存在を残すため。考えさせ続けるため。ですね」
「うっさいなー。そうだって言ってんじゃん」
「ただ、考えさせ続けたとして、その答え合わせがいつになるかは想定してなかった。もっと大人になってからかも。そのとき、二人はすでに別々の人生になってる。先輩はそう思ってた。普段からずっと、そのときまでには坪手さんへの執着を捨てなきゃと考えていた」
先輩はストールで口元を隠し、苦々しい目でおれを見ている。
「菜々子先輩の高校生活って、ほとんどずっとそのことを考えてたんじゃないかと想像します」
「……妄想じゃなくて?」
二つの言葉に響き以外の違いがあるのかはわからない。ただ、先輩が具体的な否定の言葉を用いない以上、おれの考えはおおよそ現実に沿ったものであるということだ。
「その執着を捨てる猶予期間の最中、坪手さんのところにおれたちが行った。仮にノートそのものを見せなくても、坪手さんならおれたちとの会話でシナリオの存在に気づくと思った。そしたら真相に辿り着くと思った。答え合わせのときが来ると思った」
少なくとも、この人はそう妄想した。
「もしいちばん手っ取り早く執着を捨てるなら、坪手さんと天坂がくっつけばいい。先輩はそう考えた。だから放置した」
「そこ飛躍じゃん?」
「だから『仮説』なんです。でもこの仮説が飛躍なら、逆になんで放置したんですか?」
菜々子先輩と坪手さんは幼馴染みではあるけれど、それより深い仲になるには断絶の期間が長すぎた。天坂なら「アリ」かと考え、いじらしく身を引いたのではないか。
「そもそもそんな深く考える必要がないんだって。くっつくとか、そんないい感じの雰囲気だとは思わなかったから。それだけだよ。べつにただの友達だって遊んだりするでしょ?」
「高校生が? 異性の家に? 一人で? 足繁く?
「なんか言い方がいちいち引っかかるんだよなあ」
先輩はストールで汗を拭う。ショートカットの前髪が額に貼りつく。
「……でもまあいいか。いいよそれでもう。舞ちゃんかわいくていい子だから、全然いいと思ったよ。知らない変なのよりはずっとね」
「本当に?」
「そりゃ、最初はちょっとモヤる気持ちもあったけど。でも彼には彼の人生があるって認めないと、受け入れないとしょうがない。わたしたちはタイミングをきっととっくに逃したから」
「じゃあ、なんでこんなことになってるんでしょうね?」
「というと?」
「天坂はフラれてグレた」
「それこそわたしの与り知らないことだよ!」
「それも本当に?」
「さっきから、何が本当だって? 本心とか本性とか、宮本くんそういうの好きだよね」
「先輩、期待したでしょ?」
「何を」
「坪手さんが天坂をフッたのは、彼にもまた先輩への執着があったから……って」
「あの、わたしは恋愛ごとをからかわれるためにいまここにいるの?」
「じゃあジャンルを変えましょうか。坪手さんの場合は、先輩に抱く感情は恐怖に近い。だってずっと先輩に命を狙われていると考えていたから」
「さっきの③だね。そうなるように仕向けたから、否定はしない」
「でも、坪手さんはおれたちが現れたことでシナリオの存在に気づき、さっきおれが言ったのと同じような思考で④に至った。もう怯える必要はない。でも確証はない。あの人は慎重だから」
「オマエが彼を語るなよ」
「すみません」
「嘘。そう思った根拠は?」
「おれと天坂が菜々子先輩を『菜々子先輩』と呼んでることです。そのせいで、坪手さんはその人物がまだ現役で存在していると認知した」
「それは比喩だよね? わたしがまだそっちを『演じてる』ってことの」
「もちろん」
「わたしって、誤解されやすくない?」
「それこそ菜々子先輩がこれまで積み重ねてきた末の人物像だから、自業自得の話ですよ。というわけで、だから坪手さんは天坂を遠ざけた」
「は?」菜々子先輩は首を傾げた。「わたしさっき、飛躍してるって言ったよね。そっからさらに飛躍しなかったいま?」
「いいえ。長くなりましたが、天坂が部活を辞めた理由はそれです。天坂は、坪手さんが菜々子先輩からの攻撃を避けるために利用された」
菜々子先輩はストールごと、頭をわしゃわしゃとかきむしった。
「ちょっと意味わかんなくなった」
「坪手さんは、おれと天坂が訪ねてきたことで子供の頃の『事件』の真相に気づき、自分はもう怯える必要がないと知った。でも彼の中では〝菜々子〟と〝ミチカ〟が分裂して存在している。〝菜々子〟に怯えることをやめても、それで〝ミチカ〟が戻るかどうかはわからない。本人が自分でそれを名乗っている可能性があるなら特に。だから天坂に『菜々子という名前を捨てさせる脚本』を書かせれば、自身の意図が伝わると思った」
「なんて? 舞ちゃんに? 書かせる? 意図?」
ぶつ切りのオウム返し。それはそのまま、質問だ。
「坪手さんは、天坂が自分のところに来たと菜々子先輩が気づかないわけがないと考えた。ならば、脚本に悩んでる天坂が脚本を完成させたら、そこに自分が介入してると察知するだろうとも。そして脚本が『名前を捨てさせる』なら、それは菜々子先輩に対する坪手さんからのメッセージであり、菜々子先輩は坪手さんが④の真相に『気づいたことに気づく』と考えた。もしメッセージを受け取るのが〝ミチカ〟なら、何か反応も期待できる」
「ちょっと……複雑すぎない?」
「そう見えますが、思うに、彼にとってはそれが一番の早道なんですよね」
「そうかな」
「直接探りを入れて、違ってたら菜々子先輩に口封じされる可能性を排除できませんからね。このやり方なら〝菜々子〟に疑われても最悪『天坂が一人でこの話を思いついただけ』って言い訳が立たなくもない」
「要するに、舞ちゃんを……人を介して交換日記をやろうとしたってこと?」
「その通りです」
「舞ちゃんが、自分で思いついたと思って書いた脚本は、実はまんまと書かされたものだったってこと?」
「そうなりますね」
「それって……」
先輩は頭のストールを両手で掴むと、パンッと勢いよく空に叩きつけた。
「かわいそすぎじゃんっ!」
まったくだ。
「でもそれは勝手にのめり込んでドツボにはまったアイツのそれこそ自業自得なので、同情はするけどしょうがないかなと」
「じゃあ宮本くんが今回この脚本を使ったのは?」
「交換日記を渡す役の天坂がいなくなったから、誰かがあとを引き受けなくちゃと思って。相手……坪手さんに返す役も必要じゃないですか」
そこに割って入る声があった。
「待って、ちょっと待って」
真柴だ。
パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、眉をひそめておれを見る。
「じゃあ、それに気づいて舞は
「いや、それはまだ違う」
「まだって何? まだって」
訝る真柴を手で制し、おれは再び菜々子先輩に向く。
「菜々子先輩。先輩に聞きましたよね。発作のフリをしたことはあるかって」
ストールを今度は首に巻きつけて、先輩は答えた。
「秘密を知りたきゃ勝ってからって話だったよね。勝負は流れたじゃん。なんなの」
「それは大丈夫です。答えを知りたいわけじゃなかったから」
「何それ。じゃあなんで聞いたんだバカ」
だんだん口が悪くなっている。
「坪手さんの目が覚めたときのきっかけ、覚えてますよね?」
「当たり前じゃん。彼が自分の点滴のチューブを抜いたんだよ」
「坪手さんはどうしてチューブを抜いた?」
「そうすれば、看護士が来るってわかっていたから。ナースコールと連動していたからね」
「坪手さんはどうしてそれを知っていた?」
「一度、そういう動きをしたことがあるから、そのときに」
「どうして坪手さんはそういう動きを?」
「わたしが教えた」
「どうやって?」
「そりゃ、言葉にしてだよ。手が動くはずだから頑張ってって。それの何がおかしいの?」
「おかしくはありませんが不思議です。先輩はどうして坪手さんの手が動くことを知っていたんだろうって」
「それは、わたしの目の前で動いたからだよ。ああもう、知ってて聞いてるでしょ。性格悪いな」
先輩は腕組みしておれを睨みつけた。
「わたしが発作を起こして苦しんで、窓から飛び降りようとしていたときに、坪手くんがそういう動きをして看護士さんを呼んでくれたから、そのおかげで助かった。これでいい?」
「つまり、先輩はたまたま坪手さんが動くのを見て、それで彼が動けると知った。それを教えて、彼にもう一度動いてもらうよう努力したと」
「そう。その通り」
「そのことについて、ノートに書かれていましたね」
「あー、うん。そうだね。で、それが嘘かもって? 本当は、わたしが坪手くんに動いてもらうために発作のフリをしたってこと? 彼が動くかどうかは賭けでしょ?」
「それに加えて、彼の手を『動かした』のも先輩によるものかもしれない。坪手さんに感覚がなかったのなら、先輩が発作のうめき声の演技をしながら彼に近づいて手を動かしてもバレない。あれは坪手さんが動くかどうかじゃなく、動くと自覚するために必要なイベントだった」
「実績解除のためだって?」
「はい。『一回動いたんだから動けるでしょ』って自信をつけさせるために、先輩は『発作のフリ』をしたのかもしれない」
「ねえ」菜々子先輩は呆れたように言う。
「昨日も言ったけどさ。仮にそうだとして、だからなんなの? わたしのノートを読んで、その中にわたしが嘘をついたっぽい記述があって、見つけたのが嬉しくてわたしに報告したくなったわけ?」
黙っているおれに、彼女は矢継ぎ早に言葉を継ぐ。
「発作はわたしにとって屈辱なんだよ。学校でやらかしたら毎回、相手に深刻なケガをさせなくてよかったってホッとしてたんだから。ケガさせちゃったのとか、ケガしてもいいやって思っちゃったのとか、そういうのほんと後悔してたんだから」
「だから、フリしたかどうかはいいんです。してないっていうならおれは信じます」
「だったらなんで聞くんださっきからこの
「たとえば別の人は、そう思わなかったかもってことです」
おれの言葉に、菜々子先輩は咄嗟に周囲を見た。「別の人」がこの場にいると思うのは無理もない。けれども誰も身に覚えがないから、みんな菜々子先輩の視線にたじろいで後ずさるくらいしかできない。真っ先に目の合った真柴が「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
それから菜々子先輩は、自分で自分の行動のおかしさに気づいたのか、顔を引きつらせておれを見た。
「まさか……えっ? ほんとに?」言いながら、左手の手首を押さえる。
「思い当たる節、ありますよね?」
「待って、中学の話でしょ? 舞ちゃんとなんの関わりもないのにどうやって、いや待った……!」
先輩はある方向を見た。
「そうです。この中にもいますよね。菜々子先輩の中学時代を知ってる人。その人は、いま言った『別の人』じゃない。けれども、その人が天坂にこう言ったら? たとえば——」
そこで誰かが「え? わたし?」と声をあげた。おれはそっちを向いて訊ねる。
「はい。そのときなんて言いました?」
「そんな前のこと正確には覚えてないけどさあ。たしか……ウチのクラスで夏休み中に手術する人がいるんだけど……あれ中学のときの『システム』が原因なんだよね。……って、そんなことを言った」
「なんでそれを天坂に? 久美子先輩」
おれに見据えられて、久美子先輩の目の奥がわかりやすく揺らいだ。
「……反応を、見たくて」
「おれが知りたかった言葉です」
「えっ? ひょっとして、わたしが何かやらかしたってこと……?」
呆然とする久美子先輩を前に、菜々子先輩の手からストールが砂上に落ちた。
「アクトオブキリングって、そっち?」
太陽はとうに南中を過ぎ、撤収の時刻は刻々と近づいている。そんな中で、ずっとカメラを回していた
「カット!」
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