三 ビッグマウス・ストライクス・アゲイン〈SCRIPT〉その2
わたしの書いた脚本『How Some Jellyfish Are Born』は、人の感情の消滅と再生をクラゲになぞらえて描いた話だ。ある特定の感情はいつの間にか消滅し、そのうちよく似た小さな萌芽となってまたそこに在ったりする。
もし特定の感情の依り代を自ら捨てたら、それはネガティブに捉えれば精神の自殺だけれど、クラゲ風にいえば再生への道筋とも呼べる。事細かく考えればそんなことないかもだけど、わたしはそう定義した。だから、何かしら過去に囚われた人々がそれぞれの大切にしていたもの、思い出の宿ったものを自ら「捨てる」と宣言することで、前向きになって再生に繋がる。そういう感じのことを書きたかった。それなりに書けた気がして、映画にするのはこれからなのに、一人で勝手に満足している。ちなみにタイトルは英会話部でもある
空は青くて、今週は日本全国ずっといい天気らしい。合宿が晴れで良かった。そういえばさっき井口さんが「わたし、晴れ女ですよ」と自慢していたから、も一つ彼女に感謝した。
駅前の駐輪場に自転車を駐めて、駅に向かうまでの道。赤信号で足止めを食ってると、先のロータリーにバスが入ってきたのが見えた。なんとはなしに人がぞろぞろと降りてくるのを眺めていたら、その中に一人見知った顔があった。
「あっ、
独り言で呟く。声をかけるには遠い。それにいまは会ったら気まずいかも。わたしは「どこに行くの?」に答えられない。でも無視するのもいやだな。菜々子先輩のことを好きなのは本当だから。そうだ、向こうがこっちに気づいたら手を振って、挨拶だけして通り過ぎよう。なんて思って念を送ってたら、彼女の左手が白いもので巻かれていることに気づいた。
気づけば無意識に目を逸らしていた。先輩がこっちに気づきませんように。そんな念を虚空に送りながら。
信号の変わった気配を感じたので目をあげると、もう菜々子先輩の姿は見えなくなっていた。もっと向こうに一般車両用のロータリーがあるから、そこで親御さんの車にピックアップしてもらった、というのが妥当な線だろう。
電車の時間まであまりない。わたしは早足に横断歩道を渡ると、吸い込まれるように駅に向かい、切符を買って電車に乗った。十分ほど電車に揺られ、降りたらまた十分くらい歩く。
呼び鈴を鳴らすと、坪手さんが玄関を開けて迎えてくれた。
ここに来るのはもう何度目だろう。いつものように二階にあがり、いつものようにお母様が麦茶を運んできてくれた。「ゆっくりしていってね」だなんて、なんて甘えたくなる言葉だ。最初は怪訝そうにしていた妹さんとも軽く挨拶を交わす程度にはなった。わたしはここに来て良い人間としてすっかり馴染んでいる気がした。
「出来は……どうか甘々で評価してもらえると助かります」
「評価なんて、書き切ったってだけで最高だと思うけどね」
「手垢のついた話ですよ」
さっき二条先輩たちに読んでもらったときは平気だったのに、坪手さんに目の前で脚本を読まれるのは恥ずかしくて、わたしはずっとクッションに顔を押しつけて変なうめき声をあげていた。そんなわたしを見て、坪手さんはこう言った。
「じゃあ、感想は映画が完成するのを待つよ」
「見てくれるんですか?」
最初に来たときは「見ない」とはっきり言っていた。『ピクニック』もロクに見ていなかった。だからわたしも、映画が完成したとしても見てはもらえないと決めてかかっていた。
「お願いごともしてるからね。期待してるよ」
たった一つ「期待」という言葉に全て持ってかれて、心がどこかに行ってしまい、深々と頭を下げる。
「艱難辛苦を越えて必ずやご期待に沿いましょう」
「おごそかだなあ」
坪手さんは失笑した。おごそか、だって。そんな形容されたの生まれて初めてだ。
ふとポケットのケータイが振動したので見ると、メールが一通届いていた。
『シナリオ完成お疲れ様。ゆっくり休んでくれ。明日部室に取りに行くよ』
「メール? 大丈夫?」
「あ、はい。先輩……
「どんな人?」
「渋い人です。物静かで、ドンと構えてて、いい人。最近、友達がケガで手術するからって、よく会いに行ってるみたいです」
「それはいい人だ」
坪手さんは笑った。安心したようにも見えて、もしかしてわたしが他の男子と仲良くしてるのを嫉妬した? とか思っちゃったりした。アホすぎる。
それから先は、好きな映画の話に花が咲いた。わたしは直近で坪手さんから借りたイラン映画がすごくよかったので、感想を語る口調がどんどん熱くなっていた。
「あの子供、ずっと困った顔してて可哀想なのについ笑っちゃいました」
「大人が全然子供の話を聞かないからね」
小学生がクラスメイトのノートを間違って持ち帰っちゃって、届けに行きたいんだけど相手の家を知らなくて右往左往するっていうだけの話だ。坪手さんの言葉の通り、助けを求める子供の声を大人は無視して自分の話ばかりする。
「あの子役、すっごい演技力ですよね」
「あの子は素人なんだよ。ロケ先の村で出会った子を主演に据えたんだとか。しかも撮りながらどんどん話を変えていくから、どこまでが脚本でどこまでがアドリブかわかんないらしい」
「だからあんなリアルに困った顔ができたんだ……なんて不憫」
言いながらわたしは笑う。坪手さんも笑う。
「ウチは親も妹も映画はあんまり見ないから、こういう話ができるのはありがたい」
ただ一緒にいるだけで、たわいない話をするだけで、時間が流れて、発見と驚きと安らぎがあった。気づけばほとんど毎日来ているかもしれなくて、だったら毎日この時間だけある日が一生続けばいいのにと思った。
坪手さんはいつも心が穏やかで、一緒にいるとわたしのヒステリックな部分が浄化されていく気がする。安心する。
たとえば最初は、それは彼が弱い人間だからだと思った。事故で三年も寝たきりになって、身体の成長も大きく止まっている。だから威圧感がなくて接しやすいのかと思っていた。でももっと根源的な要因は、彼の落ち着いた言葉遣いなのだと気づいた。言葉に匂いがあるのなら、彼のそれはラベンダーのようだ。わたしの全てを包んでくれる感じがする。
そして価値観……嫌いなものが似ているという安堵。
「好きな映画のことを考えると、どうしても小さな話になるんだよね。世界を救うとか、悪者をやっつけるとか、そういうことに興味がないみたいなんだ」
「わたしもです! 大作映画がどうしても好きになれなくて。とってつけたような恋愛シーンとか、絶対バレるってわかり切ってるくせに嘘をつくのとか、でも最後は都合よく有耶無耶になるとか、またかよって思っちゃう」
「まあ、お客さんを楽しませることに特化して研ぎ澄まされたとも言えるけれど、ぼくはたぶんそういうのがいやなんだ。楽しさを自分で見つけたいと思うのかも」
「わかります。自分ならこうするなーって見てると、主人公はもっと複雑な判断で突飛な行動をする。でもちゃんと納得できる。そういうのが好きです」
「たしかに。そうせざるを得ないからやっているだけのことでも、その前に大きな決断をしたのがわかることが重要だ。それが結果として良い方向になるか悪い方向になるかは別だとしても」
それから坪手さんは、少し長い間を置いてからこう言った。
「だからさ。決断ってのは、表明されるずっと前に終わってるんだ。そうだなあ……これからするのはそういう話なんだけど」
……あれ?
なんか。
そんなはずはないんだけれど、部屋の明かりが暗くなったような気がした。
錯覚ではなく明確に、部屋の空気の感じが変わった。肌にピリピリと刺激が走るような気がする。
いや、ネガティブになるな。わたしはあえて、変わらぬ口調で訊ねる。
「なんですか?」
「うん。
背中から、誰かに引っ張られたような感覚だった。
「えっ……」
そういうことを言われるかもしれない。そんな考えは、とっくの昔(といっても数日前だけど)に、どこかに捨ててしまっていた。だからなんで今更そんな言葉がわたしの目に前に出てくるのか、意味がわからなかった。
「そう……なんですか……?」
「だって、きみ、ここに来てるの内緒にしてるでしょ?
「それは……」
宮本が告げ口をした? ありえない。二人が連絡先を交換しているわけがない。
「
一枚ずつ、自分で見て見ぬ振りをしてきたカードを一枚ずつめくられていっているような気分だった。
「探りを入れられたってことは、ミチカさんはまず間違いなく映研の人がここに来ているって想定している。片寄さんとぼくがやりとりしてることもきっと織り込み済みだ。もし次に片寄さんが何か聞いてきたら、天坂さんは何度か来たけどもう来てないって言い訳するしかない。だから、実際にそういうふうにしなくちゃ」
壁際の水槽が久しぶりに視界に入った。クラゲが相変わらずふわふわ揺れている。見慣れすぎて最近気にも留めていなかったけれど、ここに初めて来たとき同様に愚鈍なわたしの鏡映しみたいに見えた。
坪手さんが続ける。
「片寄さんの様子から、きみがここに来るのは思ったよりマズいことなんだとわかった。いや、それは正直わかってたんだけど、脚本ができるまでは水を差すのも悪いと思って先延ばしにしてた」
「でも、坪手さんは菜々子先輩とは関係ないはずじゃ……。独立した他人って言ってたじゃないですか」
「そうなんだけどね。ぼくはぼく自身のことをそう思っているけれど、客観的にはそうじゃないとも思ってる。ぼくの中で天坂さんは彼女に内包されていて、彼女の知らないまま彼女に内包される天坂さんと会い続けることは、けっこうな綱渡りなんだよね」
「だっ」
わたしは言葉を放ってから続きを探す。
「大丈夫ですよ!」
「なんでわかる?」
「少なくとも、当面は。だって菜々子先輩はケガしてるし、しばらくはおとなしいと思います」
「ケガ? なんの?」
「さっき駅前で見かけて。腕に包帯を巻いてました」
「ふうん。また何かしたのかな」
坪手さんが思案している間に、わたしはそれをさせまいと言葉を継ぐ。
「べつに、気にしなくてもいいんじゃないですか? ケガっていってもきっと大したことはないし。それに、もし原因が本人にあるのならそれって仕方ないって、そう思うのは変ですか?」
「仕方ないことと、だからといってそれを軽く扱うことは別だよ」
坪手さんは壁に背を預け、どこか遠くを見た。
「何かの事象は別の事象の遠因になり得る。彼女のケガをぼくが知ったことで、何かが繋がる可能性がある」
ああ、これは。
これは呪いだ。
この人は、菜々子先輩の身に何か起こると、それを我が事であると錯覚する。そういう呪いから逃れられないのだ。自分もまた彼女に内包された一部分であると、言葉とは裏腹に自分自身でそう思い込んでいるのだ。
「このことを考えるとグルグルするんだけど、結局そこに戻ってきちゃうな。ぼくと彼女は、もう一人の同級生が死んだときに一緒にいた。人が死ぬって、すごいことだよ。自分に置き換えて考えてみなよ。たかだか十数年しか生きていないぼくらだって、それなりにいろんなことを考えて、いろんなことを経験している。それがある日、何もなかったことになるんだ。何も残らず、考えたのに誰にも言わなかったことは誰もそれに気づかずに消えてなくなる。エヌだって、何かが違っていれば死ななくても済んだかもしれないし、生きてたら仲良くなっていたかも知れない。でも、そういうのを考えても意味がない。ただただ、もったいなかったなと感じる」
周囲で人の死に触れてこなかったわたしにはわからない。でも、ここから先に何を言おうが、きっと彼には響かないのだ。だって、
「坪手さんが同じ場所に留まってたら、坪手さんの考えてることが誰にも届きません。それこそもったいないことです」
いまわたしが喋っているのは、わたしの都合のよい方向に彼の感情が動けば良いのにという打算だからだ。
ん、と思った。
とすると、菜々子先輩は。あの人の、人をコントロールすることに興味を持ち、実際にコントロールできてしまう。これまで、それはいまのわたしみたいに自分勝手な打算によるものだと思っていた。
でも実際はそんなくだらないことじゃない。
坪手さんと逆なのだ。
この坪手さんは、他者への干渉をなるべく避けることで自分の存在が日なたに引きずり出されないように息を潜めて身を守っている。菜々子先輩は逆で、他者に干渉することで、自分の強さを誇示することで誰からも首根っこを掴まれないように自分を守っているのだ。
二人とも本質的にはひどく用心深い。あのノートに描かれていた通りの人物像が、にわかに浮かんで見えた。
でも、そんなの知ったことか。
わたしは足を崩し、坪手さんににじり寄る。
「たかが十数年と言いましたけれど、坪手さんは生きてます。菜々子先輩だって。なら、これから先はもっと長い数十年が待っている。考えるべき、行動すべきはその先のためになるように、ってことじゃないですか? 話を聞いていると、なんだか二人して、変なやり口で環境を変えないように無理やり踏みとどまっている感じがします」
「それはぼくや彼女がそれぞれ決めることであって、きみに決められることじゃない」
「それはそうですけど……」
気づけばわたしは両腕をあげて、坪手さんの方に倒れ込もうとしていた。左手首を掴まれて我に返る。
わたしはこのあげた腕で何をしようとしたのだろうか。暴力のつもりではないけれど、限りなく暴力に似た力を振るおうとしたのかもしれない。けれどもわたしの手を掴む坪手さんの力の方が全然強くて、わたしは彫像みたく固まるしかできなかった。
わたしの動きを遮ったまま、坪手さんはこう呟いた。
「うん。やっぱりそうだ」
続く言葉が気になって、無意識に顔をあげる。目は合わなかった。
「天坂さん、もうここに来ない方がいいと思う。だってすごく重要なことを見落としている」
「そんなことないです」
「あるよ。それに気づかないきみはいま、ものすごくあやうい。もうここに来ないことを、強く勧める」
「いやです」
「じゃあ、強く求める」
「……でも、わたし、あなたが好きなんです」
はたしてなんと答えられたか。「強く」のあとに、ひどく冷たくて北極のクレバスに落ちた人だけが聞こえる音みたいな言葉を付されたことは覚えている。あとはもう思い出したくない。
二度と。
帰りがけ、風が少し出ていた。流れゆく夏の雲は、さわやかすぎて敵に見えた。どうしようもない白々しさがわたしを包み、この世界にはいま大切なことが何も存在してないと感じた。
その辺の子供が「また明日ねーっ」なんて言い合うのが聞こえて、それのせいで奥に溜め込まれていたやつが滂沱となって目からどばっと流れてきた。いいなあいつら、明日も会えて。
どこで間違えたのだろうか。そもそも、どこかで間違えたのだろうか。何もわからない。口は災いの元とか、そんなことを思えばいい? いや、きっかけがなんであろうと結果は同じだっただろう。わたしがわたしである限り。
今朝は最高にせいせいしていたし、部室とか、買い出しとかも楽しかった。でもいまはどうしてこうなの? 朝のわたしがいまのわたしを見ても、意味わかんなくて信じられないと思う。
あれだけ浮き足立っていたわたしの心が、自分の影を舐められるくらいに地面にひれ伏している。そんな感じ。
その落差に、ふと何かが閃いた。
あ、そうだ。
もう一つ脚本に書ける。
そうだ。この感情が必要だ。そうだ。脚本に、一つ細工をしよう。初めて知ったこの感情を、最後にとってつけてやる。
菜々子先輩が想像もしていないことをぶつけてやる。そしてそれは、坪手さんにも想像がつかないことだ。
ああ、でももう配っちゃったな。いいか。わたしだけアドリブで突っ走れば。あのイラン映画みたいに。
ケータイにメモっておかなくちゃ。
ずっと放っておいたケータイを取り出して見ると、メールが一通届いていた。
宮本だった。
『聞いた? 菜々子先輩が事故で骨折したって』
そんなのどうでもいいって。
少しも胸が動かない。くだらなすぎて返事をする気も起きない。そういえば宮本はわたしのシナリオを受けとったのだろうか。それもどうでもいいか。なんて思ってケータイを側溝にブン投げようとしたら、ちょうど宮本からの着信が入った。
出たのは、出る気分じゃなかったけれど、あとでかけ直すより気が楽だと思ったからだ。
「……何?」
『いや、メールの返事が来なかったから』
「忙しかったの」
『そうか。そりゃ悪かった』
「で、何?」
『メールは読んだ? 菜々子先輩が骨折したって』
「いま見た」
上の空で受け答えするわたしに、電話の向こうの宮本は呆れたような溜息をついた。でもそれももっともだ。坪手さんに言われた通り、わたしはいまのいままでそのことに気づいていなかった。その可能性を見落とすどころか、目を向けてもいなかった。
宮本に言われるまで。
『そういうわけだから、合宿中止だって』
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