二 シェイド・アンド・ハニー〈SCRIPT〉その2
図書館の古い新聞記事で見つけたその事故について、あらましは以下のようなものだった。
市内の小学校で、そこに通う六年生児童の死亡事故があった。事故現場の社会科準備室はかねてより一部の児童が教師のいない隙を狙って勝手に遊び場にしていた。事故が起きたのは放課後で、そのとき室内にいた三人の児童がそれぞれ被害を被った。天袋のような位置に設置された用具棚の扉の中には、ちょっとした振動で重い荷物が落下するような仕掛けが施されていた。その仕掛けが発動したことで、不幸なことに一人の児童が落下物で頭を打って死亡した。もう一人の児童は同じく頭を打ち意思の疎通もできない寝たきり状態になったが、三年後に回復した。現場にはもう一人児童がいたが、ケガこそ負わなかったものの心理的なトラウマを抱えて年単位での治療が必要となった。原因となった仕掛けは亡くなった児童によるいたずらで、その後、彼の遺族は県外に引っ越した。
亡くなった男児。
他に、大怪我を負って入院した男児。
さらに、心的外傷を負った女児。
それが——。
背中をふいに冷たいものが駆け抜け、わたしははたと顔をあげる。
何をしているんだろう。人の過去を漁るなんて、品がないにもほどがある。
ただ、その記事と自分との間に何か言いようもない感情の存在を感じて、わたしはそうすることにした。
つまり、一人で二回目に行ったとき。
「この間は、失礼しました」
「べつにいいよ。そんなことを言いにわざわざ来たの?」
「……ノートは部室にあったんです。持ってきてはいませんが」
「そんなものをあの人が、そんなところに隠すわけがない」
「でも……」
「
自分の行動と言動が適切か、自信はなかった。とにかくわたしは赦しがほしかった。他人の陰の領域に土足であがり、あまつさえ「土足であがりました!」なんて報告しにきたことへの赦しを。
今日は比較的涼しいので窓が開かれていて、吹き込んだ風を扇風機がゆっくり攪拌している。その風を受けてってわけじゃないだろうけど、クラゲが水槽をのんびり揺蕩っている。
「菜々子先輩のノートは、部室の連絡ノートや過去の映画のシナリオノートと一緒に束にしてまとめられていました。それを
発見の経緯を話すと、坪手さんは腕を組み、頷きながら答えた。
「たぶん、何かの拍子に隠さざるを得ない状況になって、それから回収するタイミングを逃したんだろうな。好き好んで人に見せようとは思わないだろうし」
「でもどうしてノートを持ち歩いていたんでしょうか。そもそも、用が済んだら捨てても良さそうなのに」
「そりゃ、答え合わせをしたがっているんだよ。台本を捨てるわけにはいかない」
「答え合わせ、ですか?」
「彼女はたぶん、ぼくが彼女の想定するゴールに到達することを待っているんだ。エヌのためにもね」
「……エヌ?」
わからないことばかりなのは、わたしが愚かだからだろうか?
よほど虚無ヅラを晒していたのだろう。坪手さんは、壁にもたれて昔話をしてくれた。
「亡くなった子のあだ名だよ。後頭部にアルファベットの『N』っぽい形のちっちゃいハゲがあってさ」
ああ「N」か。言われてみればたしかにノートにあった。一人だけイニシャルだったのが不思議だったけれど、単にあだ名だったらしい。
小学校での事故で亡くなった子。
「新聞では、エヌが自分で仕掛けた罠にはまったことになってるけど、ぼくと彼女の間では、罠を仕掛けたのは
名前はともかく、言い回しが気になった。二人の間で「なっている」ということは、事実はさらに違うのか。仕掛けをしたのはエヌでも瀬戸でもないということか。
「天坂さんが詳細を知る意味はないから説明はしないけど、彼女はずっとぼくがあることを考えている、と、考えていた」
含みのある言い回しに感じた。「あること」とは何か。聞きたいけれど勇気が出なくて、ぼやかして訊ねる。
「だとして……菜々子先輩はそこにどんな答え合わせを必要としているんでしょうか?」
「よく言えば、彼女はあの事件をぼくたちの絆のようなものにしたかったんじゃないかな。客観的に見れば、悪い意味でってことになるけど。でないと——」
坪手さんの口調が仄かに速度を帯びていく。
「彼女の失ったものと帳尻が合わないからね」
坪手さん曰く、三年の空白の間、彼は寝ていただけ。では菜々子先輩は? 毎日のように病室に来ていた。
「彼女はずっと、ぼくに協力してほしかったんだ。名前の問題を解決することとか、その他いろいろ。でもぼくは寝てたから何もできなかった。聞こえてはいるけれど、返事も相槌も合図もできない。その間、彼女はずっと不安だったのさ。そこまでは想像できる?」
「一人だけ取り残されて、とか、そういう意味なら」
わたしの答えに坪手さんは頷き、こう続けた。
「そしていまは、ぼくを不安にさせようとしている」
「ええと……」今度は想像をうまく言語化できない。坪手さんは少し苦笑してみせた。
「彼女はぼくに仕返ししたいんだ。自分が不安になったのと同じ分だけ、そっちも不安を味わえって。ほら、あの人は陰険なところがあるから。ややこしい話だけれど、そういう性格だってことはなんとなくわかるでしょ?」
「えっと……まあ」バレない程度に苦笑で返した。
「その前の三年間、わたしはおまえが何も言わないせいでずっと怯え続けていたんだから、今度はおまえの方が怯える番だって……そんなとこ」
わたしは菜々子先輩の顔を思い浮かべる。にやりと笑って、わたしより背が高いから、見下ろすようにわたしを見ている。
「けど、ノートが部室にあったことにも理由があるのか? あの人は人を操るから。きみたちが見つけるのも折り込み済み? いや、さすがにないか。なら、きみたちがここに来ることも予定通りって話になる。さすがに彼女が、他人にそこまで踏み込ませるとは思えない」
それから坪手さんはわたしを見て、まるで大人がやさしく言い含めるように話した。
「たぶんきみたちは、シナリオの最後までは知らないんだと思う。途中で読むのをやめたか、そもそもノートが途中までしかなかったか、それはわからないけれど」
「わたしたちの読んだノートは、途中から途中までの一冊だけでした」
「だよね。だから、最後が気になって行動を起こした。筋が通ってる。きっときみたちが見たのは、ぼくが目覚める……『復活する』までのところでしょ?」
「そうです」
「なら、きっとこういう内容だったはずだ。ぼくが彼女を疑っている」
それもその通りだった。
「どうしてわかるんですか?」
「そりゃ、あったことだから」
坪手さんはあっけらかんと言った。
あったこと。やっぱり菜々子先輩のあのノートは「妄想したifストーリー」なんかじゃなくて実際に「演じられた」ことだったのだ。
坪手さんはしゃべる。
「目覚めてしばらく過ぎた頃、彼女が中学を卒業したあたりかな。車椅子のぼくを彼女が押してくれた。そのときに少し話した。犯人は瀬戸だって。でも、それでわかり合ったはずなんだけど、ぼくはそのときに気づいたんだ。瀬戸を犯人と断定する証拠はないけれど、同時に彼女が犯人でないと確定できる証拠もない」
しゃべるしゃべる。
「だからぼくは、一人でこっそり疑うしかなかった。エヌを殺して、ぼくをベッドに縛りつけ、彼女自身の名前を奪ったあの事件。故意か事故かはさておき、引き起こしたトリガーは彼女だと。そしてそれはいまも払拭されていない。けれど、ぼくたちは互いに瀬戸が犯人だって示し合わせた。だからぼくは彼女を疑っているなんておくびにも出せないし、彼女もぼくから疑われているって勘づいていることをぼくに悟らせちゃいけない。それでぼくたちは、ずっととてもアンバランスなんだ」
ほとんど一息に言うと、そういう玩具が止まるときみたくピタリと口を閉じた。
「……でも、菜々子先輩は坪手さんに自分の映画をおくってきたりしたんですよね? 考えすぎってことはないんですか?」
だってそれって、菜々子先輩が殺人犯だってことでしょ? いくらなんでもそんなワケがない。……たぶん。
あ、坪手さんはまさにそう思わされているってことか。
そんなワケないけど、そうかもしれない。「そう」の可能性がある以上、そう思っているってことを悟られてはいけない。
そのうえ菜々子先輩は、坪手さんが「そう思ってるかもしれない」と思っている……って、複雑すぎる。そんなことある?
坪手さんは身じろぎもせず、口だけ動かす。
「だってあの人だよ? ぼくが薄々気づいてるってことにわたしは全然気づいてませんけどってフリくらいするさ。彼女はギリギリの振る舞いをしてぼくを余計にこんがらがらせているんだ。パズルゲームなんかで、何も動かせないままただただ時間切れを待っているときに似ている。ぼくと彼女は互いに引っかかりあって行き詰まっているんだ」
冗談みたいな話だ。だってそんなの、本気で言ってるならものすごく最悪な信頼関係じゃないか。
「もちろん、ぼくと彼女はそれぞれ独立した存在だって、頭ではわかってるけどさ」
「……菜々子先輩って、昔からそんな感じだったんですか?」
「そんなことは……いや、どうかな。小学生の頃はすごくぶっ飛んだ人だとは思ってたけど、あの事故とその後の三年間で大きく変わった気もする。執着だけが残っているけど、それを自分でどう表現したらいいのかわかんないのかも」
「じゃあ」わたしの口が勢い込んでこう開いた。「坪手さんには、そういう執着は……」
「それは、どうだろう。説明したとしてうまく人に伝わるかはわからない」
「たしかに、こちらもうまく受け取れるかはわかりませんけど……」
わたしの言葉に、坪手さんは少し笑った。この間よりずっと柔和な表情だった。
「実を言うと、目覚めてからの一年半くらい、ずっとわからないでいるんだよね。ミチカさんと菜々子さんが同一人物だって、うまく結びつかないんだ。ぼくに映画をおくってくるあの人がどっちなのか、どっちだと思えばいいのか、もう全然わかんない」
「どっちであってほしいんですか?」
「それもわかんない。ミチカさんは小学生の頃に友達だった人だ。いまはもう昔の人って感じ。一方で菜々子さんは連絡をたまにくれたりDVDをおくったりしてくる『いま』の知り合いだけど、さっき言った理由で彼女に対しては全く気を許せない。でも菜々子さんを否定すると、ミチカさんもいなくなる気がして、そっから先がわかんなくなる。医者からは若年性の見当識障害を疑われたこともあった。腹立ったからそれ以来隠してるけど」
知ってる人をその人だと認知できなくなるという症状のことか。
は、さておき。
こんがらがる。
坪手さんの中では、かつての通称の〝菜々子〟先輩と、その本名であるところの〝ミチカ〟先輩が別人だということ? 〝ミチカ〟さんに会っていたのは小学生の頃の事故の前だけで、事故の後は一度も会っていないという認識なのだろうか。そして〝ミチカ〟さんに代わって現れたのが〝菜々子〟さんで、彼女は坪手さんを「不安がらせる」存在だ。だからできれば距離を置きたい。でも〝菜々子〟さんと〝ミチカ〟さんが同じ直線上にいることはうっすら理解しているから、〝菜々子〟さんと完全に縁を切ることもできずにいる。そういうことだろうか。
こんがらがった。
自分の人生になさすぎるシチュエーションだ。
坪手さんはわたしの表情をどう読んだかわからないけど、こちらに向けて少し身を起こした。初めてちゃんと顔を見たけれど、きれいな表情をする人だと感じた。
「いろいろ言ったけどさ。結果的にきみたちに感謝してる。実はこの間からずっと考えてて、もっと話しておけばよかったって後悔したんだ。連絡先も知らなかったし。だから天坂さんが今日来てくれてよかった」
坪手さんがそう言って頭を下げた。
瞬間、いままで頭の中で絡まっていたコードみたいなのが全部すーっと消えて、視界が眩しく感じられた。
同時にわたしの全身を、いうなれば光の風みたいなものが駆け抜けていった。胸が疼き、泡立つ背筋の感覚を捉え、遅れて思う。
——わたしはいま、赦されたのだ。
理由はよくわからなかったけれども。
頭をあげて坪手さんが続ける。
「ぼくはずっと逃げ回っている。ずっと怖がっている。けれど、人生を賭けて逃げたとしても、追いつかれるときは一瞬だ。その瞬間が来たらどうしようと思っていたし、この間きみたちが来たときはついにその瞬間が来たんだとビビってた。でも、天坂さんが今日来たことで、そういう捉え方をすべきじゃないと思った。何か、前進するきっかけが近づいた気がする。ありがとう」
ありがとう、だなんて。
感謝するのはこっちの方だ。でもうまく言葉にできない。坪手さんと話していると、わたしは自分の頭が一際悪くなったように感じる。
照れくささも相まって逃げるように視線を飛ばすと、ふと座卓上のDVDに目が留まった。坪手さんが言う。
「そういえば映画好きなんだよね。これ見た? 見てないなら、持ってっていいよ」
差し出されるままに手を伸ばし、ジャケットを見つめる。黄色がかった砂漠っぽい風景に、三人の男の顔が浮かんでいる。
「どんな映画ですか?」
「どんなに逃げても絶対に追ってくる殺し屋の話」
「えっ……」
それってまさに、いま坪手さんが語った自身のことじゃないか。
「得物が家畜を殺す空気銃でさ。おっかないんだよね」
いやそれ、どんな気持ちで見ていたの? そしたら、わたしの思考を先読みしたようにこう言われた。
「次に見るときは、楽しく見たいな」
その言葉に、もう一度わたしの胸が疼きを覚えた。
だって、それってつまり、これを返しに来ても良いってことだ。
よね?
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