第3話 約束
叶わぬ恋と知りながら、俺は何度も彼女を遠目から見に行った。
叶わぬと知りながらも、徒労な日々を過ごす自分は酷く愚かで馬鹿な奴だろう。それでも彼女に会いに行くのやめられないのは、一重に恋のせいだった。
何を持ってしても満たされなかった飢えが、彼女の声と、美しい白銀の髪、滑らかな肌、目を覆い隠すように巻かれた包帯、その全ての要素が恋という甘美な蜜となって、底のない心を満たしてくれるように思えた。
自分をみて欲しい、声をかけて欲しい、俺のためだけに歌って欲しい。
遠目から見ると決めたのにも関わらず、際限なく欲が出てしまったのは、至極当然のことであった。
でも彼女の周りにはいつも護衛と思わしき人がいた。
それは男であったり、女であったり、とにかく入れ違いの激しさを見せた。だから行動パターンを把握して、なんてことは意味がなくて、俺は彼女に近づけないことを苦しく感じた。
だが、そうして見守っていたことが功をなしたらしい。いつの日からか彼女は護衛の目を掻い潜って、森へと花を愛でにやってきたのだ。
「初めて触ったわ、こんなに小さな花」
俺は初めて出会えることに興奮を抑えきれなかった。
街では絶対できなかったことだ。気持ちが早る。鼓動がうるさい。彼女と話せる、そのことはどんな宝よりも素晴らしく思える。
俺はざわめく心を叱咤して、目が見えない彼女を驚かせないように静かに、それから少し高めに声をかける。
「初めまして、お嬢さん」
その後の言葉は続かなかった。
何か気の利いた言葉とか、話が続くようにすれば良かったと後悔する。そんな俺の焦りに気づいてないのか、彼女はころころと笑って、愛でていた花から手を離した。
「はじめまして、あなた」
彼女はそういうと鈴のような声で続ける「あなたのお名前を聞いても?」語りかけてくれたことが嬉しくて舞い上がった俺は「俺の名前は…」と言いかける。
突然沈黙が広がった空間で、彼女はコテンと頭を傾げた。可愛らしい仕草の前で、俺は彼女に名乗っていいのか迷っていて、焦りに煽られていた。名乗れるはずがない、生まれて初めて俺は自分の名に自信をなくしてしまったのだ。
「俺は…あなたに名乗ることができない」
どうすればいいかわからなくなって、彼女に正直に言うことにした。
なんだか彼女に嘘をつくのは気が引けたし、好きな人を欺くようなことはしたくはなかった。
だから正直に、謝罪の意を込めてそう言った。
そうすれば彼女は、驚いたように口元に片手を添えて、それから朗らかな微笑みをその美しい顔に浮かべる。
「まぁ、不思議な人。でも、内緒話みたいで私は好きよ。じゃあ、あなたに習って私も名乗らないでおくわ」
俺は彼女の言葉に驚いた。
誰もが彼女を知っているし、その誰もがには俺も含まれている。だからこれはフェアじゃないし、彼女にとってみれば俺は不審者に変わりないだろう。
知的で賢い彼女がそれを知らないはずもない。
俺の中に思わず困惑と不安が渦巻く。けれども彼女が俺に気を遣ってくれたんだ、と思い至って、先ほどの困惑や不安が消えて、代わりに胸が締め付けられるような気持ちになった。
「ねぇ、あなた、あなたのお家ってどんなところ?」
「俺の好きなものを組み合わせてるんだ。それじゃあ君のお家は?」
「私のお家は窮屈よ、なにをするにも1人じゃさせてくれないの」
彼女が笑えば俺も笑った。
彼女が怒れば、その理不尽に俺も怒った。そうすれば彼女は次第に大きく口を開けて笑う。
その表情がまた愛らしくて、俺は彼女をどんどん好きになっていった。
「ねぇ、あなた、今はどのくらいのお時間なの?」
そう彼女が言ってきたのは、ちょうど日が暮れる頃だった。そういえば彼女は護衛から逃げてきたのだ。今頃護衛は肩を怒らせて、彼女を探しに行ってるに違いない。
俺はそれに気がついて、さっと血の気が引くのを感じた。
俺は彼女の時間を独り占めにしたかったけど、だからと言って彼女が誰かに怒らることはよしと出来なかった。
「もう夕暮れだ。君は早く帰ったほうがいい、方向はわかるかい?」
「あら、楽しいお時間はもう終わりなの?」
焦る俺とは反対に彼女は少しだけ残念そうに呟いた。
彼女を帰さなきゃ、なんて思っていたのに、彼女が自分との時間を惜しんでくれたことに喜んでしまう。
俺はなんて単純な生き物なんだろう。
そんなことを考えているなんて思ってもない彼女は、立ち上がって俺に礼を言った。
「今日はとっても楽しかったわ。だからまた会いましょう」
彼女の言葉を呑み込む。
また会いましょう。それは俺とまた会ってくれるということだろうか?俺は自分に期待した。彼女に恋する気持ちは、叶わないと思っていたけれど、もしかしたら違うかもしれない、と勘違いしてしまったのだ。
「また、また会おう」
彼女が去っていく背中を見る。
夕日の赤、草原の輝き、風の戯れ、全てが世界を彩って、色彩に溢れていく。今まで生きてきた世界が、まるで生まれ変わったように、心温かな灯火をつけた。
あの日に悲しんだ心は、まるで嘘のように今は浮ついた心を抑えるので必死だった。
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