第四章 光輝の到来
第四章 光輝の到来
夕暮れの赤い光が山の稜線を染めるころ、一台のタクシーが施設の門に停まった。
後部座席から降り立ったのは、肩に上着を掛けただけの男――杉村光輝、四十五歳。商社勤務の長い歳月は、彼の顔に深い皺と沈黙を刻んでいた。
「やっと、休めるか……」
誰に聞かせるでもないその呟きは、ため息に紛れて消えた。
ロビーへ入ると、人工的なラベンダーの香りが鼻を掠める。だが光輝の嗅覚はすぐに違和感を覚えた。空調の下、漂う消毒液の匂いと混ざり合い、どこか病院めいている。
受付の職員は笑顔を崩さず、形式的に名前を確認した。
「杉村光輝さまですね。お待ちしておりました」
――まただ。
光輝は悟と同じく、その口調に“歓迎”よりも“確認”の色を感じ取った。すでに到着が織り込み済みであるかのように。
案内の途中、光輝は廊下の壁に埋め込まれた黒い小さな半球を見つけた。監視カメラだった。
数えると、十メートルおきに設置されている。
「安全のためです」と案内の職員は微笑むが、その数の多さは過剰に思えた。安全のためにしては、まるで“監視のため”に見える。
部屋に入ると、机の上には水差しとインスタントコーヒーの小袋が置かれていた。光輝は一息つこうと、備え付けのポットで湯を沸かし、コーヒーを溶かした。
一口、口に含む。
――薬臭い。
喉の奥に、甘さとは別の化学的な苦味が残った。思わず顔をしかめるが、すぐに「疲れているからだ」と自分に言い聞かせた。
窓の外では、庭園に整列した風鈴が揺れ、涼やかな音を重ねていた。だが光輝には、その整然とした配置が妙に軍隊的に見えた。風鈴すら「音を奏でる兵士」のように並べられている。
心の中に、仕事場で使い果たした「秩序への疲労」が蘇る。完璧に揃えられた机、帳簿、数字。
――ここも同じか。
整えられすぎた場所は、安らぎよりも窮屈さを運んでくる。
ベッドに身を投げ出すと、天井の白が目に痛かった。
長時間労働の末に倒れた同僚の顔が思い浮かぶ。彼もまた「休みたい」と漏らしていた。だが休めなかった。
光輝は瞼を閉じ、かすかに笑った。
――休むことに、こんなにも技術が要るとは。
遠く、風鈴の音が一度だけ強く響いた。
その音に、光輝は眠りに落ちる直前で気づいた。
――この施設の静けさは、外の世界よりも不自然だ。
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