そらからのおくりもの
あたりがすっかり寒くなった頃、エクラの誕生日が来た。とは言っても自分の親も知らなければ、生まれた日も知らなかった。ずいぶん昔、人間には自分が生まれた日を祝う文化があると郵便屋さんから聞いたとき、エクラはそれが羨ましくてたまらなくなった。年に一度、冬の終わりの頃に、月が裏側を見せてピンク色にゆらめき空を同じような色に染め上げる日があった。エクラはその日を自分の誕生日として祝うことにしていた。
今年も迎えた誕生日だったが、その日はあいにく雲を両手で押して絞ったような、局所的な雨が珍しくトパーズの周りに降り注いでいた。エクラが工作に飽きて眠り、また起きてもそれが続いていた。自分の意思でプレハブの中に籠り、何か作業に熱中することは今までにも何度もあったが、それが自分以外の存在に強制されるとなると話は別だ。何年も前に星の中から見つけた「aspidistrafly」と書かれたお気に入りのレコードを流してみたり、プラトンという人がソクラテスというお友だちと難しい話をした時のダイアローグを読んだりと、いつもならエクラが時間を忘れて没頭してしまうようなことも、なんだか退屈に感じて手につかなかった。やがて雨が終わったとき、デスクの横についた小さな正方形の窓から差し込んだ光が、うたた寝をするエクラをゆっくりと起こした。
まだまだ寒い時期だった。外に出たエクラは身震いして、慌ててプレハブの中から厚手のコートを取りに戻った。もう一度デッキに出ると、プレハブの裏側に周り、トパーズの梯子を登りはじめた。二〇メートルほど登っていくとその先は五メートル四方の、デッキをぎゅっと狭くしたような空間になっていた。中央にはエクラの電波を空中に向けて放出するためのアンテナが鎮座していたが、物置となったデッキよりかは広々としており、景色もずっと良かった。エクラはこの場所を展望台と呼んでおり、空模様がいつもと違うときはよく登って、景色を眺めるようにしていた。
展望台まで登り切ると、少し強い風が吹き、エクラの長い髪を後ろにかきあげた。視界が広がると、その先には雄の虹がかかっていた。巨大なアーチはトパーズとトパーズの間を縫うようにかかっていて、七つどころではない色たちが、自分が一番美しいのだと主張している姿が見えた。やがて虹が薄くなり、完全に姿を消して、いつもの青空に戻っていった。雨が空気中の塵を洗い流してくれたおかげで、そこら中にペパーミントのような清涼感を含んだ空気が満ちていた。月の裏側は見えなかったけど、もっと良いものを見られた。一日ずれてしまったけれど、素敵な誕生日になったとエクラは満足した。
しばらく空を見ながらぼーっとしていると、やがて自分が丸一日なにも口にしていないことに気がついた。澄んだ空気では胃袋を満たすことはできず、エクラは急いで梯子を降り、デッキで星を拾い集めた。
この日はなんだか星が少なかった。雨がすべて洗い流してしまったのだろう。無造作に置かれたガラクタの中にいくつも水たまりができていて、その中に二つか三つ、豆つぶのような大きさのものが見つかるだけだった。
エクラがしかたなくそれらをポケットにしまってからプレハブの扉を開けようとしたとき、その背後で何かガラスが割れるような音が鳴り響いた。いつも星を叩き割る時に聞く音だったが、その時の音はもっと大きく、鈍く、分厚い音だった。驚いて後ろを振り返ると、砕け散った星のかけらがあちこちに飛び散っているのが見えた。その破片を目で辿っていくとデッキの端っこで誰かが倒れており、エクラは急いでその人影に駆け寄った。
駆け寄ったそれは少女の姿をしていた。エクラと違って、郵便屋さんのバルケッタのように真っ白な肌を持っていた。背中には体の倍ほどの翼がついていたが、かわいそうにその片方はほとんど骨だけになっていた。もう片方も羽こそ残っていたものの、真ん中からポッキリと折れてしまっていたようだ。両翼の根本からは血が吹き出していた。体外に流れた血は、水中に注がれた絵の具がブラウン運動によって不規則に広がっていくのと同じような軌跡を描きながら、空気中に広がっていた。エクラが少女を抱きかかえてみると、思いの外大きく、体格もエクラよりしっかりとしているのがわかった。それなのに全く重さを感じさせない。重たいものを持とうと足元に力を込めていたエクラは、つい勢いが余って後ろに転びそうになってしまった。
ベッドに少女を寝かせたエクラは、カーテンや古着といった適当な布を持ってきて、怪我した部分を覆ってあげた。少女が身にまとうゆったりとした白いセーターを少しまくると、人肌ほどのお湯にくぐらせたタオルで腕やお腹を拭いてあげた。エクラは郵便屋さんと握手こそしたことがあったが、それ以上に誰かの肌に触れた経験は無かった。急に恥ずかしさが込み上げて来た。エクラは顔を真っ赤にして、まくったセーターを元にもどしてあげた。
少女が来てから三日が経った。エクラは少女が眠るベッドに一緒に入ることができず、その間の夜を硬く、加水分解によって表面がひび割れたフェイクレザー張りのチェアに腰掛けて過ごした。おかげですっかり寝不足で、この日もあくびを何度も繰り返しながらデッキで星を拾い集めていた。
エプロンをたくしあげて袋の形にして、その中にたくさんの星を抱いてプレハブに戻ると、眠りから目を覚ました少女が上体を起こしてエクラの方を見つめていた。それにも驚いたが、何よりも少女はセーターを脱ぎ捨てており、上半身には何も身につけていなかった。エクラはびっくりして星を床にバラバラと落とすと、少女の体を見ないように顔を背けながら、彼女の体を干していたバスタオルでぐるぐる巻きにした。翼が邪魔でその体を完全に隠すことは叶わなかったが、なんとかエクラが目のやり場に困らないくらいの姿にはなってくれた。エクラは少女に、自分よりも濃く煮出したお茶が入ったカップを差し出した。彼女はそれを両手で包み込むように持ちながら、お茶を口に含むわけでもなくエクラの方をみつめていた。その目は別に、エクラに対する疑りを含んでいるわけではなかったのだが、かといってポジティブなものとも思えなかった。感情が読み取れないその表情に、エクラはただ戸惑った。やがてお茶がすっかり冷めてしまったころ、少女もその頭の中で何かがまとまった様子で「ありがとう」と囁き、カップに口をつけたのだった。
ひとつ、またひとつと口を開きはじめた少女だったが、どうにも記憶を失っている様子で、自分の名前も、どこから来たのかも、怪我をした理由も、なにも思い出せなかった。
気がつけばトパーズからちょっとだけせり出したデッキの上に運良く引っかかっていて、そこに暮らす見知らぬ子どもに裸を見られ、お茶を振る舞われていたのだ。
エクラだって困ってしまった。記憶を失ってしまった少女に対して、自分ができることなんて何ひとつ無かった。とにもかくにも、名前が必要だろう。そう思い、エクラはまずこの少女に名前を授けることにした。改めてその姿形をよく見てみると、肌に限らず髪の毛も、身にまとう衣服や靴に至るまでも、同じ純白で統一されていることに気がついた。エクラはなんとなくその姿を、かつて本で見たことがある大昔のレーシングカーと重ね合わせた。それはこの少女みたいに真っ白で、大きな翼もついていて、すっごく速かったんだ。かっこいい! 一度そう思いつくと、少女がもはやレーシングカーの擬人化にしか見えなくなる。そんなわけでエクラは少女をレーシングカーと同じ「シャパラル」という名前で呼ぶことにした。なんだか妙に子どもっぽい笑顔を向けられながら、シャパラルは自分と同じ名前を持つレーシングカーの写真が載った本を見せつけられた。その無機質な機械のカタマリがなんなのか全くわからなかったが、音の響きは素敵な気がして、特に異議もなくそれを受け入れた。
エクラとシャパラルの奇妙なふたり暮らしが始まった。さらに数日が経つころには、シャパラルは立って歩けるくらいに回復した。共同生活とはいったものの、ここには仕事もなければ家事といったものもほとんど存在しなかった。大抵はエクラが無線を触ったり機械いじりをする様子を、後ろから不思議そうな顔のシャパラルが覗き込んだり、その合間に外に出て星を拾い集めるくらいだった。
シャパラルは記憶こそなかったものの、エクラよりも賢くたくさんの言葉を知っていた。難しくてエクラが読むのを途中で諦めてしまったような本をすらすらと読み進め、その内容をエクラに教えてくれたりした。エクラはそれも嬉しかったが、何よりも生活の中に他者との会話が生まれることが何よりも喜ばしく感じていた。シャパラルの来訪を境にして、エクラの人生から退屈というものが消え失せていた。
シャパラルの記憶は断片すらも存在しなかった。あの日、硬くて冷たいメッシュスチールのデッキで目覚める前のことを思い出そうとしても、パチパチとした光や音がけたたましく脳内を駆け抜けて邪魔をした。エクラが見せてきた本の中には宗教に関するものもたくさんあって、その中には自分と姿がよく似ている天使という存在が紹介されていた。だからと言って自分もそうだという実感は湧かなかったし、自分が神様に仕えているとして、本の中に出てくるそれはどれも全く見覚えのない老人ばかりだった。
エクラとの暮らしの中で、シャパラルは記憶の断片や自分という存在に関するヒントを得ることはできず、ただ親切な子どもとの穏やかな日々を繰り返すだけだった。記憶を持たない彼女は、今この瞬間だけを切り取ればエクラの境遇と似ていた。頭の中にひとりかふたりしか他人の顔を有していない、孤独なもの。エクラとの日々は心地の良いものだったし、このままその緩い幸せがだらっと続くのも別に悪くないような気がしていた。だけれど、自分を確立したい。何者かでありたいという人間の根源的な欲求がそれを許さなかった。時間とともにそれは肥大化していったし、やがてエクラが自分に向けてくれる無条件の優しさに対して、言葉にするのが難しい申し訳なさを感じるようになっていた。この子はこんなにも自分に優しくしてくれて、喰事をくれたり本を読ませてくれたりしてくれるのに、自分はそれに対して何もできず、ただその優しさを一方的に享受するだけ。なんて情けないのだろうと。エクラは微塵もそんなことを気にしていない。ただ自分のそばに誰かがいるというだけで充分すぎるほどに価値がある。そう考えていることはシャパラルだって理解していたが、一度生まれてしまった疑念を心の中から完全に取り除くことはできなかったし、ただでさえ空虚な彼女の心の中で、その疑念が占有する面積はあまりにも大きかったのだ。
シャパラルがそうやって自分の存在意義に悩みながらベッドで丸くなっていた頃、エクラは相も変わらずデッキで煙草を吸っていた。エクラが吸うそれは郵便屋さんが物資として送り届けてくれるもののひとつで、バニラフレーバーのちょっとした高級品だった。大戦争よりも前の世界においては、子どもの喫煙だなんて想像するだけでも恐ろしい悪行と恐れられていたのだが、娯楽がほとんどなくなった今、それを咎めるような人間はひとりもいなくなっており、子どもも大人も関係なく煙を吐いて心を落ち着けているのであった。
そらの贈りものとしても、時たま煙草が見つかることがあった。それは大戦争の前に生産されていた古い銘柄で、珍しいからとエクラは吸わずに取っておいて、郵便屋さんが来た時にお土産として渡していた。
メッシュスチールのデッキよって金属らしい質感を伴いながら増幅されるシャパラルの足音が聞こえてきた。彼女はエクラの隣に立つと、肩を寄せてエクラに煙草をねだった。エクラは彼女が唇の先で支えた煙草に、これまた星の中から見つけた真鍮のジッポーで火をつけると、ふたりで特に何かを話すわけでもなく煙を吐いた。立ち昇るふたつの煙はお互いに全く違う挙動を描き、やがてひとつに重なった。その狼煙に呼ばれたのか、久しぶりに地上からバルケッタがやってきた。
いつものように大きな荷物を両手と背中に抱えながら、郵便屋さんが元気よく飛び出してきた。彼女が視界にエクラの姿を捉えたと同時に、その隣に立つ翼の生えた少女の姿に気がつき、驚きのあまり小さな悲鳴をあげそうになった。
思いがけないサプライズだったのはシャパラルにとっても同じで、少しの時間お互いの姿をまじまじと見つめあい、どうしたらわからないという様子で、どちらが先というわけでもなく話しはじめた。エクラの助けを借りながら自己紹介をして、やがて双方が相手の素性を理解すると、郵便屋さんはまたいつもの明るい笑顔に戻った。
「ここでエクラさん以外の姿を見るなんて! なんて素敵な日でしょうね。こんなことならもっとたくさん荷物を持ってきたのに!」
郵便屋の声にはもはやシャパラルに対する訝しみや、恐怖といった感情はこもっていなかった。
「気を遣わないでくださいね。私はただでさえ自分ひとりでは使いきれない程の贈りものを頂いていますから。でも、郵便屋さんが連絡先を教えてくれないのだもの、本当は真っ先に、あなたにシャパラルのことを紹介したかったのですよ」
エクラは少し不満げに答えた。
「連絡も何も、私はあなたと通信できるような無線機を持っていないのですよ? 地上にはほとんどそらの贈りものは届きません。その前に燃え尽きて消えてしまうのです。運よくこのデッキに引っかかった星だけが贈りものになるのです。あなたは知らないでしょうが、ここは地上よりもはるかに文明が進んだ場所です。私たちが使うバルケッタだって、戦争の頃に使われていたものがたまたまいくつか生き残っていて、騙し騙し修理を重ねながら使っているものです。今の文明ではとてもこんな機械は作れないのですよ」
郵便屋さんも、いつも説明しているでしょうとばかりに少し呆れた様子で返した。
「それなら私が作った機械工作をいくらでもあげますし、贈りものだってもっと持っていってくれたって良いのに」
エクラがそう答えると、郵便屋さんは「とんでもない」とでもいうような表情をして、少し大きい声を出した。
「それはいけません! 身の丈に合わない文明の成長はすぐにまた崩壊を招きます。人間たちは自分の力で努力し、文明を再興させなければならないのです。どうかご理解を。私はあなたを良き友人だと思っていますし、感謝だってしています。それでも、甘えるばかりではいけないのです。あなたと私たちではあまりにも、生きる世界が違いすぎるのですよ。トパーズはそのくらい、不思議で特別な場所なのです」
口論というわけではなかった。お互いに口調はやわからかいものだったし、敵対の感情も一切なかった。それでも、また少し郵便屋さんから突き放されたように感じてしまい、エクラは寂しくなってしまった。
シャパラルは横からふたりが会話をする姿がを眺めていた。エクラから郵便屋さんの話も、地上に人が住んでいるという話も聞いていたが、初めて目にする他者同士のやり取りはそれが些細なものであっても一挙一動が新鮮なもので、彼女はとにかく楽しくてたまらなかった。エクラと郵便屋さんのいつも通りの会話が続き、たまにシャパラルが横槍をいれる。そうして普段よりも少し長くなったおしゃべりを終えると、郵便屋さんは足元の星を拾い、布に包み、礼をして地上に戻っていくのだった。それではまた。
言われてみると、たしかに郵便屋さんのバルケッタはところどころがツギハギだらけで、金属のボディがめくれて中身が見えていたり、剥がれた白いペンキから昔の色が顔を覗かせていた。そうしてみるとなんとなく風に揺さぶられる小舟の動きが今までよりも頼りないように見えた。しかし、エクラのそんな心配は杞憂に終わり、あいかわらず元気よくジェットエンジンを噴き上げながら、トパーズの下に広がった雲海の中に飛び込んでいくのであった。
シャパラルはいつまでもいつまでもバルケッタを目で追い続けて、やがてそれが見えなくなってからようやく顔を上げた。エクラも初めて見る、好奇心に満ちた顔だった。
「ねえエクラ、君は地上に降りたことはあるの?」
シャパラルは興奮した様子でエクラに尋ねた。
「郵便屋さんも言っていたでしょう? 私は地上の人たちとはずいぶん違うようです。もちろん生まれてから一度だってここから離れたことはないし、これからもそうだと思います。」
これまたエクラが初めてシャパラルに見せる諦めの表情だった。
「行ってみたいとは思わないの?」
「気にはなりますが、私が行っても地上の人たちは歓迎してくれないと思います」
あまりこの話はしないでほしいというような顔をエクラはしていたが、それがシャパラルに伝わることはなかった。
「どうして? エクラは人間でしょう?私は翼が生えているから違うかもしれないけれど、エクラには生えていないし、肌の色も郵便屋さんと同じでしょう?」
いつになく積極的に喋るシャパラルに面喰らいながら、エクラは少し考えてみた。自分は地上に降りてみたいのだろうか。降りたらきっとたくさんの人がいて、孤独な思いをしなくても済むかもしれない。シャパラルに聞かれて初めて意識したが、それまで地上に降りるなんて想像したこともなかった。その選択肢が初めて芽生えた今、別にそれを望んでいないことにも気づいた。どうして? 寂しいはずなのに? 今は隣にシャパラルがいるから? それとも拒絶されてしまうかもしれないから? 誰に? 郵便屋さんに? それともまだ顔を見たこともない地上の人に?
エクラの顔が少しずつ怯えたようなものになったとき、シャパラルはようやく自分の問いがエクラを困らせていることに気づいた。
「エクラ、ごめんなさい。私は今ここにあなたとふたりでいるのが好きだよ。さあ、煙草を吸おうよ。郵便屋さんはまた来てくれるからね、地上に降りなくたって寂しくないよ」
エクラのエプロンのポケットを手で探り、シャパラルはジッポーを取り出した。今度は彼女がエクラの煙草に火をつけて、またふたりで煙を吐いた。いつの間にか空は暗くなりはじめていて、プレハブの小窓から漏れた室内の灯りが煙に当たり、さっきよりも長い時間、それは空を昇り続けているように見えた。
郵便屋さんが帰った次の日、エクラは朝から荷解きをしていた。郵便屋さんが置いていった物資だ。地上の喰べ物や日用品。新しく書かれた地上の本。煙草。エクラはひとつひとつに感謝のくちづけをして、部屋の中に仕舞っていった。荷物の底には緩衝材の代わりに詰められた新しい衣服があった。エクラはその背中の部分に丁寧に切れ込みをいれて、「シャパラル用」という手書きのタグがつけられた箱の中に畳んだ。シャパラルは郵便屋さんが帰ってからというものずっと本を読んでいて、その中でも彼女が以前同じように持ってきた地上の本をよく読んでいた。エクラが眠り、起きてもずっと、シャパラルは本を読み続けていた。おかげでエクラは久しぶりにベッドを使うことができ、ここ数日の寝不足を解消するように長く眠った。それは良かったのだが、昼になってもまだ熱心に読書をするシャパラルを見て、エクラは驚きと心配が混じった顔をしつつ、邪魔をしないようにとその日は無線機の電源を入れず、静かに荷解きをしたのだった。それが終わるといつもみたいに外に出て贈りものを探し始めた。
数日が過ぎて、春から夏へ季節が移ろう前兆を感じはじめた。そうは言ってもここは地上からはるかに離れた天空で、周りに季節を告げる植物の姿なんて無かったし、渡り鳥の隊列飛行を目にすることだって無かった。
あるのはここから見える恒星の並びの変化だけで、少し前までは真上に見えていたヴァンデン・プラ座やザスタバ座がエクラの目線の位置まで降りて来ていたし、船乗りたちが道標に使うストラトスという恒星が、その役目を果たさんばかりに再び強く白い光を放ち始めていた。
シャパラルは本をたくさん読み、大戦争の前の人々が紡いだ歴史や物語を、エクラと同じように実感を伴わぬ知識として蓄えはじめていた。その中で唯一つ自分にも当てはまるものと言えば、エクラに対する恋心だった。
人間たちの恋愛のように、数多く存在する「好きな人」から特別なひとりを選び取る特別な好意とは少し違うものであり、どちらかと言えば友情や信頼といったものが複合した大枠の好意が幾重にも複合したものだった。それでもあまりに人生経験が乏しい故に、その違いはわからなかったし、実際にエクラと彼女の出会いは確かに運命的なものだったからそれを愛に変換するのは自然なことだったのかもしれない。その好意はエクラ自身もシャパラルに対して感じていて、いつの間にかだんだんとふたりが話す時の顔の近さは近づいていた。肩を寄せ合いながらふたりで目を閉じて過ごす時間が増えていき、やがては夜もひとつのベッドに収まるようになった。だけれど、それまで。必要以上にお互いの体を触るようなことはなかったし、そういった形の愛情のことはふたりとも知らなかった。もしくは知っていたけれど、自分たちとは関係ない、はるか遠い世界の儀式のようなものに感じていたのかもしれない。
お互いに相手のことを考えるとなんだか話し足りない気がしてしまい、眠れなくなる夜が増えてきて、ふたりで夜空を眺めながら煙草を吸う時間が多くなった。その日もまたいつものように、デッキで星を見つめていた。
「戦争よりもずっと昔の本を読みました。昔は夜空に見える星空もずいぶん姿が違っていたようで、私たちが今こうして見ているヴァンデン・プラ座もザスタバ座もかつては存在していなかったのです。船乗りたちの希望であるストラトスの役割を果たしていたのも、もっと小さくて白い星だったというのです。もっと言えば、ここは地上よりもよく星が見えるのです。例えば私たちの頭上に輝いているナビスターやケーニグセグといった矮星たちは、地上では見ることができません。地上から見る空はもっと隙間がたくさんあって、それを想像するととても寂しく思います。星がよく見えないのなら、地上に降りても少し退屈かもしれません」
エクラは自分なりに地上に降りたくない答えを見つけたようだった。それは本心からそう思っているのか、何かそれらしい言い訳をして自分を納得させようとしただけなのか、シャパラルにはわからなかった。
「エクラ、私もバベルの方が良いと思う。地上は星も見えなければ、かしくい(お菓子ばかり喰べてて賢くなれないやつ)がたくさんいて、今でも争いが絶えないと本で読んだんだ。郵便屋さんみたいに優しい人もたくさんいるかもしれないけれど、またいつ戦争が起きるかもわからないし、私のような異形の姿をした人が現れたら、それこそ争いの種になってしまうかもしれないね」
シャパラルも彼女なりに地上のことを勉強していた。最初は好奇心から、地上の人々と自分たちの接点を見つけるために始めたことだったが、あんまりにも悲しい歴史や物語ばかりですっかり参ってしまった。エクラはそんなシャパラルから発せられた言葉を聞きながら思った。そういえば私も星のかけらばかり喰べている。あれは甘くてお菓子と呼ぶにふさわしいものだ。だとすると私もかしくいになってしまうのだろうか。賢さとはなんだろうな。争いを起こさないこと? そうだとしたら、せめてシャパラルとこのまま喧嘩をせずに済むくらい、賢くあり続けたいな。今日は久しぶりに星のかけらではなく、郵便屋さんから送ってもらった喰べ物を口にしてみよう。
「エクラは地上やトパーズ以外に、例えばナビスターやザスタバ座を構成するどれか。あとはここから一際明るく見える月の上に、人の形をしたものや動物たちが住んでいると思う?」
シャパラルが聞いた。
「きっといると思います。シャパラルを初めて見た時にそう思いました。人間よりももっと綺麗な姿をしたものたちが、私たちのように星空を見上げながら同じような会話をしているのだと思います。でもそれは地球と同じく、かしくいが引き起こした戦いを経ての出来事かもしれません。それらも全部含めて、生きているものたちの歴史は美しいと思います。会えなくても良い。お互いに相手の住む星を思い浮かべながら、隣にいる人とおしゃべりができていれば、それ以上に素晴らしいことはないでしょう」
エクラは星空を見上げながら答えた。シャパラルも星を見ながらそれに続けた。
「私も、自分が地球の生き物だとはどうにも思えないんだよね。例えば私があのストラトスから来たとして、こうして別の星に住むエクラと同じ時間や言葉を共有できる。それを知ることができただけでもここに来て良かったと思う」
ふたりは空に向けた目線をやがてお互いに向けて微笑みあった。
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