にじいろのバルケッタ
吉塚ちよ
塔の上の子ども
ハローCQ、ハローCQ。こちらはタンゴ、オスカー、パパ、アルファ、ズールー、エイト。トパーズ8です! 誰か通信をお聞きの方はいらっしゃいますか? いらっしゃいましたらお返事をください。QSO。
エクラの呼びかけに返事をするものはいなかった。何もこの日に限ったことではない。物心がついた頃にはすでに無線機のスイッチを入れ、まだ見ぬ隣人に対してキーヤーを叩いていたが、点と線だけで構成された挨拶に答える声が届いたことは、今までにただの一度だって無かった。もしもエクラの通信を受け取ったものがいたとしても、はるか昔に廃れてしまったCWやフォネティックコードを理解できるものはこの世界にひとりも残っておらず、その通信がどこの誰から届いたものなのか、そもそも人間による呼びかけなのか、おそらくそれすらもわからなかっただろう。
エクラはそうやって無視され続けることに最初こそ寂しさや不安を感じていたが、早いうちに朝の体操や歯みがきといったルーティンに組み込まれるうちのひとつと化した。キーヤーを軽やかに叩く左手には、もはや一切の感情が宿っていなかった。
無線の電源を落とすころには、薬缶が朝の到来に快哉の声をあげていた。エクラは少しだけ茶葉を取り出すと、それで薄いお茶を淹れた。マグカップを片手に外に出て、陽の光を浴びながら煙草を吸い始めた。
エクラは鉄塔の上にひとりで暮らす、
鉄塔はひとつの街をまるまる飲み込んでしまうほど広い土地の上に建設されていて、その高さも当然、宇宙を貫くほどのものだった。そんな目立つものが世界中に建設されたのだから、地球は子どもたちが「星」と聞いて想像するトゲトゲの姿に本当になってしまったし、バベルの塔の神話とは比べものにならないほど神様を怒らせてしまった。その結果、人間の言葉をバラバラにされるどころか、人類のほとんどが消え去ってしまうほどの大戦争が引き起こされてしまったのだった。生き残った人間たちはそうやって、自分たちが置かれた悲惨な現状をすべて神様のせいにした。しかし、それは全て人間が自分勝手なせいで招いてしまった結果なのだと、エクラをはじめとした賢くて勉強熱心な人々は知っていた。
そんな鉄塔のうちのひとつがエクラの住処だった。地上から四千メートルほどの地点に、かつて軌道エレベーターの保守作業をする作業員が、その寝泊まりのために使用したプレハブがくっついていた。小さいながらもひとり暮らしのエクラにとってはちょうど良い広さで、客観的に見てもそれなりに住み心地の良い場所だった。丈夫な鉄塔の中にはエレベーターのための電線や水道が通っており、それらは大戦争のあともずっと動き続けていた。そのおかげでプレハブの中にも電気と水が供給されていて、エクラは無線で遊んだり、茶を淹れたり、なんならシャワーを浴びることだってできたのだ。
鉄塔の足元には大戦争を生き残った人々が暮らす集落があり、そこでも水と電気を使うことができた。おかげで他の場所に住む人たちよりも良い暮らしができたし、人口の増加や文明の再発展も順調に進んでいた。エクラの鉄塔だけでなく、世界中で建設されたどの鉄塔の足下でも、同じように人々が暮らしていた。自分たちの頭上にそびえるこの鉄塔はかつて人間を滅ぼすきっかけとなってしまったが、いまでは人類に救いの手を差し伸べている。人々はこの鉄塔に愛と憎を感じつつ、やがて「トパーズ」という名前で呼び始めた。大戦争の前から黄色く輝き続ける柱状の塔にふさわしい名前だ。
エクラが住んでいた塔には、黒いペンキで大きく「8」の数字が書かれていた。これは大量に建設された塔の中で、八番目に建てられたことを指し示している。だから「トパーズ8」。これがエクラの住む塔の名前であり、無線通信の際に使うコールサインの代わりとしても利用されていた。トパーズ8から周囲をぐるりと見渡すと、エクラが住むそれと同じように地上から空を貫くトパーズの姿がいくつも見えるのだった。エクラは自分と同じように、他のトパーズにも人が住んでいるかもしれないと思っていた。だからこそ毎日のように隣人への挨拶を無線機に込め、電波を放ち続けていた。
エクラはまだ大人になりきれていない十七歳ほどの子どもの姿で、細長い手足に褐色の肌を持っていた。生まれた時から伸び続けたふわふわの銀髪は腿のあたりまでの長さがあり、身体の線が細いエクラを実際よりも大きく立派に演出していた。前髪は邪魔だからとハサミで一直線に眉上で切り揃えられ、そこから覗く大きな目は、トパーズを鏡で写したような明るさを備えた山吹色に輝いていた。いろんな布を自分で縫い合わせたパッチワークの服を身にまとい、その上から重ねて着ているキャンバス地のエプロンは最初こそ白く透き通っていたが、今では機械油や塗料が飛び散り、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。
この不思議な子どもは生まれてからずっと独りで、物心がついた頃にはもうトパーズ8で暮らしていた。そんなエクラはよく本を読んだ。大戦争の前の時代に書かれた歴史書や、当時の技術書といったものを特に好み、暇だからと何度も目に通した。おかげでエクラはこの時代に生きるものとしては賢く、ありとあらゆる物事をよく知っていた。それでもその知識は実際の経験と紐づいたものではなかった。恋愛だったり、身近な人の死といった事象が人間の社会にはあると、本の中で読んだことはあった。しかしながら、それがもたらす心の微細な動きまでを理解することは、どうしたってできなかった。
空にはジルコニウムの金平糖にアルマイト加工を施したような、見る角度によって色を変える星たちが無数に浮かんでいた。月や太陽といった星とは違って、もっと小さく地上に近い場所で浮かんだそれらは、お互いに太陽やストラトスといった恒星から放たれた光を反射していた。それが合わせ鏡の星々のなかでさらに色と明るさを増したおかげで、この世界の空はずいぶんと眩しく、煩かった。
星の中のいくつかは、時たまそれを支える台座から外れたように、大地に向かって転がり落ちてくることがあった。小さいものだと拳くらい。大きいものだと車くらい。だけれど星は、その大きさに見合わないほどにふわふわと軽く、落下してくるスピードもずいぶんとのんびりしていた。やがてトパーズまでやってくると、その人肌よりもすこし温い熱をゆっくりと冷やし始めるのだった。
エクラが住むプレハブの扉を開けるとそこには、メッシュスチールの足場で組まれたデッキがテニスコートほどのスペースに広がっていた。下を向くと空が透けて見える。それでも見た目よりはるかに頑丈な足場で、エクラがいくら飛び跳ねようと、重たく鈍い音を出すだけで、ほんの少しだって揺れたり不安を感じさせたりしないのだ。そんなデッキに引っ掛かるように、落ちてきた星たちが転がっていた。
いくつか星を拾い、ハンマーで叩き割ってみると、その大きさに応じてライターや人形、本や家具といったアイテムが中から出てきた。たまにずいぶんと精巧な機械工作が出てくることもあり、エクラはそれを分解したり、反対に組み立ててみたりした。そのおかげで手先が驚くほど器用に成長した。毎日働かされる無線機や、美しい星空を収めるための写真機だって、元々は壊れた状態で星から出てきたものを、エクラが自分で修理したものだった。その練習の過程で生まれた失敗作や、新しい発明のための実験体といったガラクタたちは、部屋に納めきれなかった、同じく星から出てきた家具と共に、まとめてデッキに置かれていた。最初は広々としていたデッキも、やがて足場がどんどんと狭くなっていき、いつか地上で繁栄していたマラケシュのスークのごとく、レトロスペクティブな文明を感じさせる姿に変わっていった。
ハンマーで割られた星のカケラからは、ミルクのような良い香りがした。口に入れるとその香りから想像できるような、ミルクケーキのように甘くてパキパキとした喰感を伴いながら胃袋におさめることができた。エクラが日ごろ口にする喰べ物のほとんどはこのカケラであり、そのためにエクラからは星と同じミルクの甘い香りが漂っていた。それに呼応したのか、トパーズ8の周りでは特に降り注ぐ星の量が多かった。エクラは星や、その中から出てくるアイテムをまとめて「そらの贈りもの」と呼んだ。デッキの上には冬の初めの木の実のように星が転がっており、陽の光を浴びながらそれを拾い集めるのが、エクラの毎朝の日課となっていた。
滅多に雨が降らないトパーズでは、毎日のように明るいグランディディエライトのような色の空が顔を出した。エクラは毎朝、規則正しい生活をした。眠りから覚めたらまず湯を沸かし、それを待ちながら無線を飛ばした。それが終わるとお茶を飲みながら外に出て、そらの贈りものを拾い集める。それが終わると、あとは本を読んだり、デッキに積み上げられたガラクタの中から目についたものを選び取り、鼻歌まじりに分解したり、また組み立てたりした。
そんな一日を三〇回ほど繰り返すと、郵便屋さんが「バルケッタ」と呼ばれている小さな舟に乗り、エクラの顔を見るために地上からやってきた。背が高く、上質な赤いスエード生地の帽子とコートに身を包む、大人の女性だった。エクラと同じ褐色の肌と山吹色の目を持っていた。しかし髪の毛はエクラのものとは全然違う艶のある黒で、細くてまっすぐなそれを首元の長さで上品に切り揃えていた。彼女は定期的にエクラのために物資を運んでくれたり、話を聞くためにトパーズ8まで来てくれた。彼女は自分を郵便屋さんと名乗っていたが、手紙を持ってきたことは一度もなかった。その代わり、周りのトパーズまで届きそうなほど明瞭な声と、空に輝く星々に負けないほど光と希望に満ちた笑顔で、自分が見聞きした地上の様子を伝えてくれた。その内容は個人が見聞きした思い出話というよりも、司馬遷のように優秀な人によって編纂された歴史書のように整えられたものだった。
妙に芝居がかった喋り方をするこの郵便屋さんも、はたから見ればエクラのようにちょっとヘンな人だった。しかしながら、エクラにとっては唯一の、実際に会話を交わしたことがある人間だった。そのために人間が会話をするときはこういう喋り方をするのだろうと思い込んでいたし、ふだん囁くように独り言を呟くことが多かったエクラも、郵便屋さんと会話をするときだけは彼女に釣られた妙に緊張した喋り方になっていた。
おしゃべりが終わると、エクラは会話や物資のお礼に、拾ったそらの贈りものの中でも大きなものを幾つか差し出したり、自分が作った機械のおもちゃを郵便屋さんに渡そうとするのだった。しかし郵便屋さんはどうにも遠慮がちで、毎回その申し出を丁寧に断ると、足元に転がった石ころほどの大きさの星を拾い上げ、「これだけで充分ですよ」と言いながら、優しく布に包んだ。星を懐にしまうと、簡単な祈りの言葉をエクラに捧げてから地上に帰ったのだった。
いつの日だったか、郵便屋さんの帰り際に、エクラは兼ねてから思っていたことを伝えてみた。
「郵便屋さん、もっとたくさんトパーズに来てくださいよ。本を読んだり機械をいじるのは楽しいですが、さすがに少し飽きてきました。あなたがいない間は、なんだか暇で暇で仕方がありません」
初めて聞くエクラの寂しそうな言葉に、郵便屋さんの笑顔は若干の慰みを含んだものに変わった。
「他にも回らないといけない場所がたくさんあるのです。地上の人たちは誰しも寂しいのですよ。あなたのような独法師がたくさんいますから。私は彼らのひとりひとりの元に行き、同じように物資を送ったり、話をしたりしないとならないのです。どうかわかってくださいね。ひと月ほど経ったら、必ずまたここに来ますから」
突き放されたわけではない。それはもちろんエクラも理解していたが、どうにもその返答に寂しさが込み上げてきて、もうひとつだけ尋ねてみた。
「ここから見える周りのトパーズにも、私のように人がいるのですか?」
郵便屋さんは少し考えるように間を置いて、やがて口を開いた。
「はい。もちろんいますよ。でも私は会ったことがありません。私と同じような仕事をしていて、その中でもトパーズを専門に回るものがいるのです。私は主に地上を担当していて、ここ以外のトパーズには行ったことがないのですよ。トパーズ8の根本には大きな集落がありましてね、そこに寄るついでに上に登ってみたら、そこであなたと出会ったのです。だからここに来るのは本来私の仕事ではありませんし、どちらかといえば、友だちに会いに来るつもりで、忙しい合間を縫って来ているのですよ。それでもあなたがそれを望むのであれば、他の郵便屋に頼んで別のトパーズの住人への言伝をしておきましょう。トパーズ8で孤独に過ごしている住人がいますと」
他のトパーズに誰も住んでいないことも、彼女の他に郵便屋さんがいないことも、エクラはこの時気づいてしまった。だって、もしも彼女の言うことが本当なら、ここから見えるはずじゃないか。他のトパーズに向けて飛んでいくバルケッタが! 彼女が乗っているのと同じような白い船体が、青空を反射して光り輝く姿が!
郵便屋さんがそんな嘘をついたのは、自分に寂しい思いをさせないための方便であることを、エクラはもちろん知っていた。エクラは自分が郵便屋さんを困らせてしまったことに気がつき、申し訳ない気持ちになった。それでも郵便屋さんは、たしかに自分のことを「友だち」と言ってくれた。エクラはそれだけで満足だった。嬉しさと、初めて感じる恥ずかしさにほんの少しだけ顔を赤くして、エクラは郵便屋さんを見送った。郵便屋さんはまた丁寧にお礼の言葉を述べて、白いバルケッタに乗り込み、地上へと降りていった。それからまた定期的にエクラの元にやって来たし、いつもどおりのお喋りをした。それでもその日を境にして、郵便屋さんはエクラにとって正しく「友だち」になった。自分が一方的に彼女に向けていただけかもしれない好意を、相手も自分に向けてくれていることを知ることができた。それは寂しいエクラにとって何よりも喜ばしいことだった。
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