2 祈りの花は今日も摘まれる
暗がりの中、微かな声が流れていた。
柔らかな調べ。子守歌。
「ねんね ねんね 海の子よ……」
妻の声だった。
膝の上では、幼い娘が母の指を握りながら眠っている。
暖炉の火が揺れ、影が壁を泳ぎ、小さな犬がその足もとで丸くなっていた。
そこに在るはずの温もり。だが、手を伸ばすとそれは火の粉となり、灰となって散りぢりになり、声は遠のいて消えていった。
――胸を締めつけるほどの静寂。
自らの荒い呼吸の音で、ルデクは目覚めた。
夢ではない。
指先に触れる土壁の冷たさが、それを告げていた。
ここはルジャヴァ。かつて街道の要衝として栄え、今は病と戦に疲れた街。
その街外れの酒場、
枕元では犬が耳を立て、じっとこちらを見ている。
ルデクは荒く息を吐き、額を押さえた。
夢はいつも同じ――妻が娘に歌をうたい、やがて声が途切れる。
目覚めるたび、声の続きを聞けなかったことが心に鉛のように残り、しばらく動けなくなるのだ。
犬はそっと立ち上がり、静かに部屋を出ていった。窓の外では暁鐘が鳴っている。
◇
階段を下りると大麦スープの香りが漂ってきた。
湯気の向こうから、酒場の主人ヨナスの豪快な声が飛ぶ。
「おう、やっとだな。ほら見ろ、モルはもう起きてるぞ!」
奥では、下働きが鍋をかき混ぜる音が、規則正しく続いていた。
足もとでは、犬が前脚を揃え、じいっと見上げていた。
立ち止まると、モルは首を傾げてさらにルデクを見つめる。
暫くの間、犬と男は黙って見つめ合った。
ヨナスは、モルを見て言った。
「さっきからずっと階段見張ってたぞ。」
ルデクは気まずそうに視線を逸らした。
「……スープの匂いで起きたんだろう。」
ヨナスは笑って、二つ並べた木椀にスープをよそうと、具の多い方をモルの目の前の床にそっと置き、汁だけの方をルデクの方へ押しやった。
「……贅沢なやつだ。」
ルデクは文句を垂れながら、厨房の隅に置かれた黒パンを手に取ると少しだけちぎってモルの木椀の中に落とした。
食事が終わるとルデクは店の裏口に回った。
モルが黒パンを咥えながらついて来る。
桶に汲まれていた冷たい井戸水で顔を洗うと、ようやく夢の残滓が薄れていく。
「行くぞ。」
モルは小さく吠え、尻尾を振る。
◇
川沿いの通りには人々の姿がもうあった。
水を汲む女、甕を抱える少年、欠けた石畳を杖で叩く老人。
「モルだ!」
声を上げて駆けてきたのは孤児たちだった。犬に飛びつき、耳を引っ張り、笑い声を上げる。
ルデクは苦笑し、外套を直した。
子どもたちに引っ張られ、孤児院の前に来ると、扉を開け放した院長が手を振った。
「おはようございます、ルデクさん。いつもありがとうございます。」
「ああ。」
彼は頷き、背負い袋から酒場で得た黒パンを取り出した。
子どもたちの小さな手が、パンを奪うように伸びる。
その横でモルが欠伸をする。
一番幼いリリアだけはパンに興味を示さない。
少女は遠慮がちにモルに手を伸ばした。
「……モル、きょうもきてくれたの?」
モルが短く尻尾を振り、リリアの手の甲をそっと舐めると、少女は照れたように笑った。
淡い胡桃色の髪が輝く様子を、ルデクはしばらくの間、見つめていた。
◇
欠けた石畳の道に、男の静かな足音と、犬の賑やかな呼吸が響いた。
モルは急ぐように先を歩き、時々立ち止まってはルデクの方を振り返った。
乳白色の雲が空を薄く覆い、修道院の尖塔が青銅色に浮かぶ。
鐘は既に朝祈の時刻を告げ終え、修道院の中は静まり返っていたが、門前には村の若者たちが四、五人集まっていた。
門を叩く若者たちに向けて、中から野太い声が聞こえきた。
「とっとと帰れ。駄目なものは駄目だ!」
「俺たちの悩みを聞いてくれないの?」
若者たちは口々に不平を言う。
ルデクが近づき、モルが一声吠えると、覗き窓が開いて修道士が顔を出した。
「やあ、ルデクさん。」
にっこりと笑うと若者たちを睨みつける。
「馬鹿者ども、下がれ!」
モルが小さな牙を見せ、威嚇すると若者たちは後退りし、ほぼ同時に門が少し開かれた。
恨めしそうに見つめる若者たちを横目に、ルデクは修道院の中へ。モルが誇らしげに尻尾を上げて後に続く。
「また、いつもの騒ぎか?」
「ええ、そうなんです。――馬鹿者! 近寄るな! ルデクさんは行って。」
ルデクは軽く頷き、門の閉じる音を背後に聞きながら、モルとともに回廊の奥へと進んだ。
修道院裏の薬草房の前に立つと、中から乳鉢を擦る音が聞こえてきた。
門を叩くと乳鉢の音が止まり、やがて扉が少しだけ開いた。隙間から薬草の香りが漏れ、澄んだ灰青の瞳がルデクを捉えた。
「……ルデクさん。おはようございます。」
薬草師のエリシュカ・カンベロヴァ。細く整った鼻筋と、赤く丸みを帯びた唇が露になる。黒鳶色の髪は寝癖も直さずに乱れていた。
「また少し、花を分けてほしい。」
ルデクは真っ直ぐに彼女を見つめると、背負い袋を開いて見せた。
エリシュカは軽く中身を確認して言った。
「……どうぞ。中へ。」
ルデクの後ろをついて入ろうとしたモルの前に、薬草師の白い手が翳される。
その細い指先は薬草で青く汚れていた。
「モルはだめ。」
モルは舌を出し、首を傾げて上目遣いで彼女を見上げた。
「……だめよ。待ってて。すぐ終わるから。」
ふてくされたようにモルは顔を背け、くるりと回るとその場に伏せた。
◇
蜜蝋、ミント、セージ、ヤロウ……。
薬草房の中では様々な香りが混ざり合っていた。
机の上の乳鉢の横には擦り減った刃の小刀と傷ついたまな板が置かれ、小刀の刃先には切り刻まれた薬草の欠片がこびり付いていた。
「……ついてきてください。」
エリシュカはそう言って、奥の扉へ歩き出した。
「気をつけてください。毒もあるので。」
棚には陶製の小瓶がぎっしりと並び、それぞれに羊皮紙の札がぶら下がっている。
「ああ。」
エリシュカが奥の扉を開ける。
彼女の髪がふわりと浮き、仄かにカモミールの香りが鼻を擽る。
ルデクは思わず息を止め、顔を背けた。
薬草園に出ると様々な薬草が風に揺れていた。
カモミール、ラベンダー、ミスミソウ……。
ルデクはそれらの花には目もくれず、花壇の隅に咲く青紫の花に近づいた。
妻のエレナが好きだった
「……すまない。頼む。」
エリシュカは静かに頷き、小さく息を吸い込んだ。
最も色の濃い一輪を選び、そして祈りの言葉を唱えた。
指先で茎を挟み、力を入れる。
ぱつり、と小さな音が響き、花は傷つけられた気配もなく、静かに掌へ落ちた。
選ばれなかった残りの群れだけが震えていた。
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