第1章
1 酒場の夜
「……それが、ヴァルデンの白百合の始まりだった。」
弦が最後の音を残し、静かに震えを止めた。
吟遊詩人カレム・エイダンは、リュートを抱え直すと柔らかく微笑んだ。
パチリと薪が爆ぜ、
刹那、
亜麻色の髪は蜂蜜酒の色に、薄金の瞳はエールの琥珀に輝いた。
炉辺に吊るされた燻製肉が仄かに脂を温め、麦酒の香りが酒場に漂う。
カレムはリュートを胸からそっと離すと、膝に置き、木卓の上に手を伸ばした。
「……本当の話か?」
誰かが、酒で掠れた声で問う。
「さあ?」
詩人は杯を持ち上げ、顔の前で見つめながら、小さく首を傾げた。
「それを決めるのは俺じゃないよ。
俺はただ、見たものや聞いた話を歌にするだけだからね。」
一口飲み込むと杯を置いた。
「けど……」
そう言って彼は再びリュートを構えた。
「それが気になるんなら歌わなきゃね。」
―― ふいに指が跳ねるように動き、静かな
カレムは目を閉じ、緩やかな調べに澄んだ声を乗せた。
「ねんね ねんね 海の子よ……
灯りゆらゆら 波もゆらり……」
皆、息を潜める。それは誰もが知っている子守歌だったが、何故かとても悲しげに響いた。
一節歌い終えるとカレムは弦を指で押さえた。
リュートは小さな悲鳴を上げて声を噤んだ。
「この歌に纏わる、男の悲しい物語がある。
男は腕利きの傭兵だったんだけど……」
静かに言葉を継ぐと、優しく弦を撫でた。
再びリュートが声を震わせ、人々は息を飲んだ。
「ある日剣を捨てた。
……過去から逃げるみたいに、小さな犬と一緒に暮らしてたんだ。」
過ぎていく音の余韻に乗せて、ぽつりぽつりとカレムは語る。
「でも、悲劇ってのは、そういう人が好きだろ? だから……」
音と沈黙の間に、カレムは一言を添えた。
「そういう運命は、いずれ一つの夜に集うのさ。」
カレムは何か考えこむように虚空を見つめ、しばらくして杯を掲げた。
「おっと皆さま。まずは喉を潤しましょう。物語はそれからでも遅くない。」
カレムは酒を一口飲み、再びリュートを構える。
そして弦が唸り、犬を連れた男の物語が語り始められる。
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