あの夜、白百合は消えた

与坂のわ

序章

ヴァルデンの白百合

 白百合しらゆりが風に揺れていた。


 朝露は日の光を受けて瞬き、湿った土と草の匂いが柔らかな空気に溶けていた。

 鳥の囀りに、谷を渡る子どもたちの笑い声が微かに混ざっている。


 ヴァルデン辺境伯は中庭の様子を眺めていたが、娘の髪を梳く妻の方へ振り返り、一言だけ声をかけた。

 「良い朝だ。」


 妻は辺境伯の方へ顔を向けると、にっこりと微笑み、再び娘の方へ視線を戻した。


 「今夜は皆で祝うのですよ。クロスグリのタルトも用意したわ。」

 母が告げると、娘の天青の瞳が輝いた。


 象牙の櫛が滑る度に、長く伸びた髪が黄金色に煌めき、辺境伯は目を細めた。


 身支度が終わると、彼は娘の前に立って言った。

 「クラリッサ、もう十五の歳になるのだな……」

 「はい、父上。」

 「早いものだ。あの小さなクラリッサが……もう、立派な淑女だ。」


 「では、私もそろそろ、父上にも敬われる頃かもしれませんね。」

 クラリッサは口の端を上げた。唇の赤が広がる。

 父が苦く笑い、母も口元を隠して笑う。


 「……そう言えば父上。」

 不意に思い出したようにクラリッサが言う。


 「アナから聞きました。近頃は流れ星が多く見えると、聖堂の学匠が言っていたそうです。」

 クラリッサは眉根を寄せた。

 「……良くない事が起こるのではないでしょうか。」

 

 辺境伯は笑った。

 「流れ星は神々が地上へ関心を向けた証と言う。ならば願いを抱けば良い……」



 「皆で良き願いを考えておこう。」



 その日の午前、教会の鐘が三度鳴った。

 残響が消えると、聖堂内は人々の息遣いと衣擦れの音で満たされた。蜜蝋とミルラの香りが漂い、ステンドグラスの光が石灰岩の床を色鮮やかに染める。


 皆が見守る中、クラリッサは祭壇の前に立っていた。胸元には一輪の白い花。

 堂の隅では、父と母が静かにその姿を見つめていた。


 少女の、凛とした声が響いた。

 「我、父母の教えを守り、この白百合の如く身を清く保ち、志を曲げず、家名に恥じぬように生きる事を民に誓わん。」


 拍手と歓声が沸き起こり、間をおかずに歌声に変わった。母は胸の前で手を合わせ、父は深く息を吸い込んで頷いた。


 少女の胸は少しだけ騒ついていた。

 白百合の誓いは、どこか檻のようにも思えた。



 歌が最も盛り上がる頃、旋律が僅かに波打つように変調した。

 石床が微かに震え、祭壇の燭台の炎が揺らぎ、窓のステンドグラスが小刻みに振動した。


 「地震か?」


 誰かが声を潜めて言う。


 疎に歌声が止まると、聖堂の外から耳の端を掠めるように長い角笛の音が聞こえ、ふいに途絶えた。

 次に外から聞こえたのは、女たちの悲鳴と、男たちの怒号、そして乱れるように打ち鳴らされた鐘の音だった。


 歓喜の音は消え、不規則な鐘の音と人々の騒めきが堂内に満ちた。


 程なくして兵士が取り乱した様子で駆け込む。

 「敵襲!」


 辺境伯は目を見開いた。

 「敵襲だと? 有り得ぬ。報告は聞いていない。」

 「閣下! 南砦が燃えております!」

 「燃えているだと? どういう事だ?」

 「わ、わかりません! 霧でよく見えませぬが、黒煙が……塔の形が揺らいだように!」


 辺境伯は愕然としたが、すぐに妻に声をかけた。

 「皆とともに城内へ避難を。」

 妻は震える手を隠しながら、はっきりと答えた。

 「わかりました。」


 続けて、すぐ近くにいた近衛隊長のトーヴァルに声をかける。

 「妻と娘を頼む。」

 トーヴァルは一瞬肩を揺らした後、深く敬礼をした。

 「……仰せのままに。」


 辺境伯は扉の方へ駆け出した。その時、娘と一瞬目が合ったが、すぐに視線を離し、外に出ると礼装のまま馬に飛び乗った。

 広場を駆け抜けながら大声で叫ぶ。

 「全門を閉じよ! 民は直ちに城内へ避難せよ!」


 広場では兵たちが走り、民が荷を抱えて逃げていた。鐘はその間も絶え間無く鳴らされていた。


 激しく揺れる鞍の上で、辺境伯は風の声を聞いていた。


 谷の入口、峡門の方角から、角笛と太鼓の連なりが近づいている。

兵たちが集まりきらぬうちに、彼は馬上から大声で命じた。

 「マティアス! 麾下の弓兵を率いて民家の屋根へ!」

 「御意!」

 「ノエル! 残りの弓兵を率いて南坂へ向かえ!」

 「はっ!」

 「エドリンは中央の街道を封鎖せよ!」


 「仰せのままに。」



 一方、聖堂内では辺境伯夫人が民を集めていた。

 「落ち着いて、皆さん。これから城内に避難します。途中で止まらぬように。」


 泣き叫ぶ女、杖を突く老人……。夫人は一人ひとりの顔を見て声をかけた。その声は、皆の恐怖を和らげた。

 「あの方を支えて……あなたはその子と一緒に。

 大丈夫、恐れることはありません。」


 夫人は赤子を抱く女の前で立ち止まった。赤子はよく眠っていたが母親は不安そうに唇を噛み締めている。


 「前へ。その子をしっかり抱いて……大丈夫、すぐに静まります。」

 夫人が声をかけると、彼女はぎこちない笑顔でそれに応えた。


 クラリッサは修道女のアナと共に行列を導いた。祭壇の裏の小部屋。そこには城内へと続く隠し通路がある。

 老人を支える若者、子どもの手を握る女、そして赤子を抱く母。その背を押しながら、娘は父が出て行った扉の方を振り返る。


 夫人はクラリッサに声をかけた。

 「行きましょう。」

 「はい、母上。」


 アナとトーヴァルが続き、その後ろに残りの民、その後に三名の聖堂騎士と司祭が続いて隠し通路に入っていった。

 最後に司祭は内側から入口を閉じた。



 敵が谷底に雪崩れ込んだのは昼過ぎだった。

 谷口の長い街道を押し合いながら進み、戦列は縦に伸びきっていた。

 ノエルの弓兵が坂の上に潜み、エドリンの槍兵が街道を塞ぐように並ぶ。

 辺境伯は騎兵を率いて最前線に立っていたが、霧の向こうから現れた敵の旗を一瞥すると、前へ進み出た。


 「我こそはリード家当主、ヴァルデン辺境伯アルベルト。敵の大将は名乗り出よ。」

 雷鳴のような声が轟き、敵の歩みが止まる。

 

 「ヴィドー公国の大将軍、ジェリ・ヴェルナドである。」

 先頭に立つ白髪の将が応えた。


 「久しいな。ヴェルナド殿。よもや貴殿とこのような形で再会しようとはな。」


 「主命により、貴殿を討ちに参った。だが槍を収め、城を明け渡して降伏するのであれば助命いたそう。」


 「民の命は?」


 「……保証いたす。」

 老将の後ろで軍旗が不規則に揺れていた。その中に叔父であるオルドヴィンの姿を捉え、辺境伯は厳しい眼差しを向けた。堪らずオルドヴィンは目を伏せた。


 辺境伯は老将を見据えて問う。

 「時に、ヴェルナド殿……ベイリンたちはどうなった?」


 「……ベイリンとは南砦の守将であったな。」

 そう言って、オルドヴィンに目配せをする。


 オルドヴィンが口を開く。

 「あの者は私が開門を求めたのに拒んだのだ。大人しく城を明け渡し――」

 老将が遮る。

 「実に見事な最期であった。他の者は知らぬ。」


 辺境伯は南の虚空を見つめた。

 「そうか……ベイリンはもうこの世にいないのか。愚かな奴だ。何故逃げなかった。何故、門を開けなかったのだ。そう思わぬか?」


 「理解しかねる。貴殿の為に死んだのではないか。」


 「他の奴らもそうだ。ハンスには年老いた母がいた。一人息子だぞ。ヨハンは子どもが生まれたばかりだった……。」


 「いったい何の話をしておるのだ?」


 「貴殿が知らぬと言った者たちの話だ。皆大切な家臣だ。

 私の為に死んだ? ならばどんな顔をして彼らの家族に会えと言うのだ?」

 辺境伯は剣の柄に手をかけた。老将の表情が強張る。

 「血迷うたか……。」


 「どうか教えていただきたい。何故、彼らは死なねばならなかったのだ。何故、貴殿は前触れも無く攻めて来たのだ。」

 辺境伯はゆっくりと剣を抜き天に掲げた。刀身が白銀の輝きを放つ。


 老将が怒鳴った。

 「後戻りできぬぞ!」


 辺境伯は輝きを見つめたまま言った。

 「そのまま返そう。貴殿の言葉には真実が無い。そうでなければベイリンたちが死ぬはずがない。この谷を攻めた事、必ず後悔させてやろう。」

 その瞳に雷光が宿る。


 「ヴァルデンの子らよ!」

 谷の兵たちの間を稲妻が走り抜けた。

 「父祖たちが守り続けてきたこの地を汚すわけにはゆかぬ。リードの名のもと、我らの家を、家族を、奴らの手に渡すものか。私に続け!」

 その光を振り下ろし、十余騎を率いて突撃する。


 ――火花が散り、鉄の匂いが空気に満ちた。風が矢を運び、石畳を削る音が雨音のように響く。

 兵が叫び、馬が嘶いた。

 谷口は狭く、大軍は思うように進めない。ノエルの弓隊が敵の頭上を狙い打ち、エドリンの槍隊が敵を押し留め、辺境伯は短い突撃と離脱を繰り返し、敵に深刻な損耗を与えた。


 その頃、城内の広間では逃れる事のできた二百余りの民が犇めいていたが、その殆どは聖堂内にいた人々であった。

 

 一人で虚空を見つめる若者、互いに慰め合う老人、泣く子を宥める女……クラリッサは群衆の中で泣きながら母に訴えていた。

 「私も母上とともに最後まで残ります。逃げる事なんてできない。」


 夫人は娘の髪に触れながら言った。

 「なりません。民を導くのも領主の勤め。父が不在の今、あなたが代わりに果たしなさい。

 トーヴァル、アナ。クラリッサと共に行きなさい。」


 名前を呼ばれたトーヴァルは困惑した。

 「……しかし奥方様。閣下は私にお嬢様と奥方様のお二人をお守りするように命ぜられております。敵が迫っている今、奥方様を残して離れる訳には参りません。」


 「トーヴァル……ごめんなさい。誰よりも忠義に厚いあなたにとって辛い事は承知しています。エドリンのように、あの人の傍にいたかったでしょう……」


 トーヴァルの指が震えた。


 「でもどうかお願いします。あなたにしか任せられないのです。」

 そう言って夫人は懐から短刀を取り出した。

 琺瑯ほうろうの鞘に白百合の紋章が刻まれている――フロウス・アルバ。リード家に伝わる宝刀である。


 トーヴァルは膝を突いて頭を垂れた。


 夫人は娘を抱き寄せ、その手に宝刀を握らせた。

 「クラリッサ……これはリード家の誇り。

 でも、守り抜けぬ時は、必ず生き延びなさい。

 あなたはヴァルデンの希望なのだから。」


 少女の拳は小さく震えていたが、その瞳は母を真っ直ぐに見返していた。夫人はその手を握ったままトーヴァルの肩に刀身の背を当てた。


 「我は古き契と天の御名において、騎士トーヴァルに命ずる。これより汝の主はクラリッサ・フォン・リード……。」


 「……仰せのままに。」


 夫人はもう一度娘を強く抱きしめると微笑み、そして力の限り少女を突き飛ばした。人々の手がクラリッサの体を受け止める。


 「お嬢様、こちらへ!」

 アナに手を引かれ、夫人と共に残ると決意した人々の手に送られ、次の瞬間には夫人の姿はクラリッサの視界から見えなくなった。



 陽が傾く頃になると防衛線は徐々に後退し、夜になると聖堂前の広場まで押し戻されてしまった。


 礼装はボロボロに破れ、血だらけとなり、馬は斃れた。頭は朦朧として、腕に力が入らない。それでも彼らは戦い続けていた。


 「まだ死ぬな! 民が避難するまでは!」


 しかし、それを嘲笑うかのように火の手が上がった。宵の風はそれを谷中に吹き広げ、広場の周りは炎に包まれた。


 エドリンが叫んだ。

 「閣下!もはや間に合いませぬ。ひとまず城へ戻り、籠城いたしましょう!」


 辺境伯は息を整える間、周りを見回した。その目が、年老いた母を背負い、城内へ逃げようとする血と泥に塗れた兵士の姿を捉えた。


 ――ハンスか! よくぞ生き延びていてくれた!


 脳裏に妻と娘の微笑みが過ぎる。

 それは彼に一瞬の未練をもたらしたが、すぐに決意に変わった。


 「皆。良く戦ってくれた。家名を守ると言いながらこの有り様だ。すまぬ。

 だが……ここまでで良い。それ以上は望まぬ。敵の血を冥土への土産とし、あの世で父祖に詫びよう。」


 「御覚悟、承りました。何処へ行かれようとも御供いたします!」

 エドリンが答え、兵たちもみな声を揃えた。


 ハンスは辺境伯の方を振り向く事も無かったが、辺境伯の胸は満ち足りていた。


 彼は空を見上げて震える声で呟いた。

 「……クラリッサ。ただ生きよ。」

 


 その夜、北の大地に無数の流れ星が落ちた。


 ヴィドー公国では、通りを歩いていた若い男女が足を止め、娘が綺麗と呟いた。

 「でも、不吉ね……。悪い事が起きないと良いけど……」



 「どうかずっと幸せが続きますように……。」


 ――谷は燃え、花は灰となって散った。

 だが、ヴァルデン城の北の断崖に掘られた水路から、ひっそりと城を離れてゆく三隻の舟があった。

 先頭を導く少女の髪は、月明かりに照らされて暗闇の中でも輝いて見えた。


 クラリッサ・フォン・リード――ヴァルデンの白百合、その始まりである。

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