第52話

「葵ちゃん、葵ちゃん?お湯が沸いたよー」


店長の声が、遠くの方から聞こえるような気がした。聞こえてはいたけど、体が鉛を飲み込んだように重く、まったく動こうとしない。


魂が体から抜け出てしまったみたいだった。


「綾ちゃんが来たよ」店長が突然、そう付け加えた。


「あっ!」電流が走ったように、私は我に返り、慌ててコンビニの入口を見た——そこには誰もおらず、自動ドアが静かに店内の灯りを反射しているだけだった。


その時になって、ようやく私は完全に意識を取り戻し、からかわれたことに気づいた。私は少し恨めしそうに店長を見た。


店長は苦笑いして、唸りを上げているケトルのスイッチを切った。「葵ちゃん」彼は振り返り、棚にもたれかかった。「ここ数日、ずっと様子がおかしいよ。ぼんやりしてて。何かあったのかい?」


「店長、私……私……」口を開いたものの、言葉は喉で詰まってしまう。このごちゃごちゃした気持ちを、どう説明すればいいんだろう。彼女が浮気してるんじゃないかって疑ってるって、ストレートに言えばいいのか?


店長は息をつき、レジカウンターまで歩いてきた。「綾ちゃんのことでしょ?」


私はうなずいた。


「綾ちゃん、足の怪我も治って、毎日一緒に学校に行ってるんじゃないか?」店長は少し理解できないという様子で。「寂しいはずないよね?」


私は店長に、ここ数日抱えていた憶測と不安を話し始めた。


「私……神宮寺綾が……浮気してるんじゃないかって疑ってるんです」


彼女が以前、興奮して「昔の私みたい」と言ったコンビニの女の子の話から始めて、最近よく家にいないこと、もうずっと私を仕事終わりに迎えに来てくれないこと、いつもスマホを手放さず、夜中でも画面を光らせていること、学校でさえ、以前のように私の周りを常に囲んでいたあの熱意や独占欲がなくなったように感じること——全てを話した。


店長は静かに話を聞き終えると、思案しながらうなずいた。「うん……君が一つ一つ分析するのを聞いていると、確かに……君がそう考えてしまうのも無理はない。そういう可能性はあるね」


私の心は彼の言葉とともに沈んでいった。


「ただし——」店長は話を切り替え、鋭い目つきで私を見た。「君は一番大事な問題を見落としている」


「何がですか?」


「君は神宮寺が言っていたあの『面白い女の子』を実際に見たことがあるのかい?あるいは、彼女とあの子の間に何かがあるっていう実質的な証拠が何かあるのか?」


私は呆然として、ゆっくりと首を振った。ない。私にあるのは、ただの感覚と憶測だけだ。


「ほら、君の神宮寺に対する全ての行動の解釈は、『彼女が別の誰かを選んで私を捨てるかもしれない』っていう悲観的な前提に立っているんだ」店長の口調は優しく、そして強固になった。「いつも悪い方に考えすぎないで、葵ちゃん。もう少し自分に自信を持たないと」


彼は少し間を置き、後輩を導く先輩のように私を見つめた。「それに、葵ちゃんは初めてのまともな恋愛だろ?」


私はうなずいた。


「だとすると、君はまだ、完全に覚悟ができていないのかもしれないな」


「どんな覚悟ですか?」私は疑問を抱いて聞いた。


「神宮寺綾と余生を共にする覚悟だよ」 「もし君の神宮寺への感情が、ただ『付き合ってみよう』とか『遊び』程度のものなら、俺が言ったことは忘れてくれ」


「ありえない!」私はほとんど反射的に叫んだ。遊びなわけがない。私の綾への想いは、自分でも怖くなるほど深く刻み込まれている。


「だったら、綾ちゃんを信じなさい」店長の目は励ましに満ちていた。「信頼は絆の基礎だ」


しかし彼は、現実的な考慮を込めて、再び口調を変えた。「でもな、もし君の心が今みたいにいつも苦しくて、慌てていて、普通に仕事も生活もできなくなっているんなら、ずっと疑い続けるのも良くない」


彼は私を見つめ、真剣に言った。「だったら、一度『確かめ』に行ってみなさい」


「確かめる?」


「ああ。君が欲しい答えを探しに行くんだ。ただし、覚えておいて」彼は人差し指を一本立て、疑いの余地ない口調で言った。「今回は一度きり、次はないってことだ。君が何を見て、何を聞いて、あるいは何も見つからなかったとしても、この後は、無条件で彼女を信じることを学ばなきゃいけない。繰り返される猜疑心は、恋愛で最も毒性の強い毒なんだ」


……


仕事が終わる時間になった。


案の定、今日も綾はコンビニの入口には現れなかった。


私は一人で「家」と呼んでいる場所に戻った。鍵を開け、私を出迎えたのは、冷たい暗闇と死のような静寂だった。


「綾?」試すように呼びかけた声は、がらんとしたリビングに反響するだけで、何の返答もなかった。


明かりをつけ、部屋中を探し回った。寝室、バスルーム、バルコニー……どこにも神宮寺綾の姿はなかった。


「また留守……?」私はソファに崩れ落ちた。


店長の言葉が頭によみがえる——「だったら、一度『確かめ』に行ってみなさい」 同時に、別の声が必死に私を説得する。「ただ退屈で、たまたま通りかかってみただけ……店長の言う通りだ、答えが必要なんだ。そうでなければ、永遠に安心できない……今回だけ、今回だけだって!」


私はソファから勢いで立ち上がり、記憶を頼りに思い出したあのコンビニの名前を、スマホの地図に入力した。


ナビに導かれ、見知らぬ路地裏にあるそのコンビニにたどり着いた。 私はコンビニの外の目立たない隅に身を潜め、こっそりと中を覗き込んだ——レジの後ろには、中年のオジさんが棚整理をしているだけで、若い女の子の姿はまったくなかった。


いないのか、それとも……?


私が一心不乱に覗き込んでいると、よく知った声が、突然、背後にある影から響いた。


「こそこそ、何してるの?」


私は全身が震え、悲鳴を上げそうになった。私は猛振り返り、そこに立っている神宮寺綾を見た。彼女は腕を組み、私を見ている。 「別に……別に!ただ退屈で、ぶらぶらしてただけ……!」


綾は細目にした。「言ったでしょ?」彼女は一歩前に出て、高くはないが疑いの余地ない威圧感のある声で言った。「仕事が終わったら、真っ直ぐ家に帰るように」


「帰ったよ!」私はわらをも掴む思いで叫んだ。「帰ったんだよ!でもあなたがいなかった!あ、あなたは……どこに行ってたの?」 神宮寺は軽く首をかしげた。「あら?私に口答え?」


彼女はそれ以上私が質問する機会を与えなかった。「さあ、帰るよ」

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