第五十話 盤上の反逆者たち

『見せてみろ。君たちの、最後の、無様なダンスを』

 神の、遊戯ゲームの始まりを告げる声が、無限に広がる空間に響き渡る。

 それに応えたのは、絶望ではなかった。

 一人の聖女が、自らの意志で下した、反逆の号令だった。

「―――全員、総攻撃! 私に、続いてください!」

 アイリスの叫びを合図に、盤上の駒たちは、一斉に、神へと牙を剥いた。


 先陣を切ったのは、アイリスとギルだった。

「うおおおおおっ!」

 ギルが大地を蹴り、その巨体を弾丸のように加速させる。彼の戦斧が、神が座す玉座の足元めがけて、大地を砕く勢いで振り下ろされた。

 それと同時に、アイリスが宙を舞う。ギルの巨体を踏み台とし、常人には不可能な跳躍を見せたのだ。彼女の剣が、神の心臓めがけて、一直線に突き進む。

 人間と元・魔王軍幹部による、完璧な連携攻撃。

『…ふむ。面白い』

 神は、玉座に座ったまま、その光景を、ただ、眺めていた。

 そして、指を、一本、軽く振るう。

 その瞬間、ギルの戦斧は、玉座に届く寸前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように、ぴたり、と動きを止めた。

「なっ…!?」

 アイリスの剣もまた、神の喉元まであと数センチというところで、見えない壁に阻まれる。

『物理法則の、書き換え。基本だろ?』

 神は、そう言うと、今度は、指を、くるり、と回した。

 ギルとアイリスにかけられていた運動エネルギーが、逆流を始める。

 二人の体は、自分たちが放った攻撃と全く同じ威力で、後方へと、凄まじい勢いで吹き飛ばされた。

「ぐはっ…!」

「きゃあっ!」

 二人は、鏡面の床を、何度もバウンドし、仲間たちの足元まで転がっていく。


「二人とも、下がりなさい!」

 後方から、ジーロスとゼノスの声が響いた。

「ノン! 我が至高の光よ! 醜悪なる存在を浄化する、美の鉄槌となれ!」

「我が深淵の闇よ! 全てを喰らう混沌となって、かの偽りの神を飲み込め!」

 ジーロスが放った、聖なる光の槍。

 ゼノスが放った、禍々しい闇の奔流。

 光と闇、二つの相反する最大級の魔法が、螺旋を描きながら、神へと殺到する。

『光と、闇か。懐かしいね。君たちの祖先が、飽きもせず繰り返してきた遊びだ』

 神は、その二つの魔法を、まるで珍しい蝶でも捕まえるかのように、右手で、光を、左手で、闇を、いともたやすく、掴み取った。

 そして、その二つのエネルギーを、粘土でもこねるかのように、一つに、混ぜ合わせた。

『混ぜ合わせれば、何色になると思う?』

 彼が、その手を、開く。

 そこから放たれたのは、光でも、闇でもない。

 全ての色彩と、全ての存在意義を、否定するかのような、灰色のもやだった。

 もやは、ジーロスとゼノスを包み込み、二人の魔力を、根こそぎ、吸い取っていく。

「あ…ああ…。僕の、アートが…!」

「我が、魔力が…!」

 二人は、その場に、崩れ落ちた。


「ひひひ…! 神様相手に、大博打だ! 俺の全財産、いや、魂ごと、賭けてやるぜ!」

 テオが、聖書を掲げ、叫んだ。

「我が幸運よ! 仲間たちに、最強の祝福を!」

 彼が放った、支援魔法の光が、仲間たちを包もうとする。

『祝福? いいじゃないか。なら、祝福してあげよう。たっぷりとね』

 神が、指を、ぱちん、と鳴らす。

 テオの魔法は、暴走し、その効果を、百倍にも、増幅させた。

 ギルの筋肉が、はち切れんばかりに、膨れ上がる。

「ぐおおお! 力が、力が、溢れて…!」

 ジーロスの髪が、光り輝き、勝手に、伸び始めた。

「ノン! 僕の計算され尽くした髪のフォルムが崩れてしまう!」

 祝福は、呪いへと変わった。

 シルフィが放った援護の矢も、神が指で弾くと、くるりと反転し、彼女自身の元へと帰ってきた。矢は彼女を傷つけることなく、その髪を一筋だけ、リボンのように綺麗に結い上げてみせた。


 全滅。

 アイリスが自らの意志で指揮を執る、初めての総攻撃は、神の、退屈しのぎの遊びによって、完璧に、いなされた。

 誰もが、その絶対的な力の差に、心を折られ、鏡面の床に、倒れ伏している。

 アイリスだけが、かろうじて、剣を杖代わりに、片膝をついていた。

(…だめだ。勝てない。何も、通用しない…)

 ノクト《神》の声が、聞こえない。

 道を示す、あの声が。

 彼女は、初めて、本当の、ノクト《神》の不在を、感じていた。

 神は、退屈そうに、あくびをした。

『…なんだ。もう終わりかい? つまらないな。やはり、リセットするしかないか』

 彼が、世界を終わらせるための、最後の一手を、打とうとした、その瞬間だった。


『―――アイリス! 聞こえるか!』


 その声は、彼女の脳内に、直接、響き渡った。

 ノイズ混じりで、途切れ途切れで、しかし、紛れもなく、あの、聞き慣れた声。

(神様…!?)

『黙って聞け! 時間がない!』

 ノクトは、塔の自室で、汗だくになっていた。

 彼は、自らの魔力の全てを、針の穴を通すような、一点に集中させ、神が作り出した、遊戯盤の、僅かなセキュリティホールを、こじ開けていたのだ。

『いいか、奴は神じゃない! ただの、チート能力持ちの、システム管理者ゲームマスターだ! 奴の力は、無尽蔵じゃない! あの玉座! あれが、奴の魔力の、供給源だ!』

 ノクトの、絶叫にも似た、声が、響く。

『玉座を、破壊しろ! そうすれば、奴は、ただの、銀髪のニートだ!』

 通信が、途切れる。

 後に残されたのは、たった一つの、確かな、希望。

 アイリスは、ゆっくりと、顔を上げた。

 その瞳に、再び、強い、光が宿っていた。

 彼女は、倒れ伏す仲間たちに、最後の、そして、本当の、命令を下した。

「…皆さん、聞こえますか」

 その声に、仲間たちが、うっすらと、目を開ける。

「…私たちの、本当の敵は、あの神ではありません。あの、悪趣味な、椅子です!」

 彼女は、神が座す、光の玉座を、まっすぐに、指差した。

「―――あの椅子を、破壊します!」

 仲間たちは、一瞬、ぽかん、とした。

 だが、すぐに、その言葉の、真意を、悟った。

 神は、倒せない。

 だが、あの椅子なら、あるいは。

 彼らの目に、再び、闘志の火が、灯った。

 神は、その、あまりにも不敬な、挑戦者の瞳を、心底、楽しそうに、見下ろしていた。

『…面白い。実に、面白いじゃないか』

 盤上の駒たちの、最後の、悪あがきが、今、始まろうとしていた。

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