第四十三話 魔王護送作戦
魔王城、玉座の間。
黒い水晶玉を通して、
『―――こちらへ来い、ゼノス。この、王都へ』
「無茶を言うな!」
ゼノスは、思わず叫んだ。
「私が、人間の王都へ、のこのこと出向いていけば、その場で処刑されるのがオチだ! 用件があるなら、このまま、この水晶で話せばよかろう!」
それは、魔王として、いや、一個の生命体として、あまりにも当然の反応だった。
だが、水晶玉の向こう、アイリスの姿を通して語りかける「神」の声は、どこまでも冷静だった。
『それは古いゲームのルールだろう。古いゲームは、もう終わったんだ』
その声は、ゼノスの反論を、まるで子供の戯言のように、一蹴した。
『いいか、ゼノス。我々がこれから行うのは、世界の運命を賭けた、最高機密の作戦会議だ。敵は、この世界の管理者、ゲームマスターそのもの。マナ通信網を使った遠隔会議など、奴に「これからあなたを倒す作戦を立てますよ」と、実況中継しているようなものだ。そんな愚行が許されるとでも?』
その、あまりにも的確な指摘に、ゼノスは言葉を失った。
『我々には、奴の監視が及ばない、完全に
その、あまりにも揺るぎない、絶対的な論理。
ゼノスの脳裏で、天秤が大きく傾いた。
王都へ向かうという直接的な恐怖と、このまま世界が
彼に残された道は、もはや一つしかなかった。
彼は、震える声で、降伏を宣言した。
「…わ、分かった。行こう。だが、どうやって…」
『そのための、護衛は、こちらで用意する』
通信が、一方的に、切れる。
後に残されたのは、これから始まる、人生で最も危険な出張を前に、頭を抱える、一人の、中間管理職だけだった。
◇
数日後。
魔大陸と人間界を隔てる、緩衝地帯の森。
そこを、一見、何の変哲もない、小さな穀物商の一団が、ゆっくりと進んでいた。
先頭を歩くのは、やけに体格のいい、人の良さそうな商人。その隣には、彼を護衛するかのように、無口だが腕の立ちそうな傭兵が続く。
「…姉御。本当に、これで大丈夫なんでありますか?」
傭兵――ギルが、ひそひそと、アイリスに尋ねる。
「ええ…。神様の、ご指示ですから…」
アイリスは、不安を押し殺し、頷いた。
彼らの周囲には、ジーロスが作り出した幻術が、完璧な形で展開されていた。
商人――魔王ゼノス――の姿は、今は、恰幅のいい、ただの人間の男にしか見えない。
他の仲間たちも、それぞれ、商隊の一員として、完璧に、風景に溶け込んでいた。
その、はずだった。
『―――全員、停止。進路変更』
アイリスの脳内に、
『二キロ先、右手の丘の上から、王国の斥候部隊が、こちらへ接近中。数は、五』
(斥候!? なぜ、こんな場所に!)
『おそらく、先日の天変地異を受けて、国境付近の警戒レベルが上がっているんだろう。面倒だが、迂回するしかない』
彼の目には、斥候部隊の移動速度、視界の範囲、そして、風向きまで、全てが、数値として、見えている。
『新人、シルフィに伝えろ。これより、俺が、直接、ナビゲートする』
アイリスは、馬上でうとうとしていたシルフィの肩を叩いた。
「シルフィ殿! 神様からの、お告げです!」
「ふぁい…」
次の瞬間、シルフィの瞳から、意思の光が消えた。
彼女は、まるで操り人形のように、馬の手綱を握り直すと、淀みない声で、告げた。
「進路、北西へ、二十度修正。これより、丘陵地帯の、岩陰を縫うように進みます。全員、私の後に、続いてください」
それは、シルフィの声だった。
だが、その声の主は、彼女ではない。
方向音痴の彼女に、そのような、正確なナビゲートができるはずもなかった。
アイリスは、先頭に立つシルフィの背中を見つめた。
リーダーは、自分のはずだ。
だが、今、この部隊を実質的に率いているのは、神の声を代行する、あの無垢なエルフだった。
その事実に、彼女は、少しだけ、複雑な気持ちになった。
シルフィ(をアイリス経由で遠隔操作するノクト)のナビゲートは、完璧だった。
一行は、斥候部隊に気づかれることなく、危険地帯を、完全に、やり過ごした。
その完璧な連携に、魔王ゼノスは、ただ、驚愕していた。
(…なんなのだ、この者たちは…。聖女の奇跡、幻術、そして、この、神がかりのナビゲート…。これが、人間の、本当の実力だとでも、いうのか…?)
彼の魔王としてのプライドは、この旅を通して、粉々に、打ち砕かれつつあった。
◇
さらに数日後。
一行は、ついに、王都の城壁が見える、最後の森へと、たどり着いていた。
ここまで、一度も、戦闘はなかった。
全てが、完璧に、計画通りだった。
だが、最後の最後で、彼らは、最大の障害に、直面する。
王都の、厳重な警備だ。
公然と門をくぐることなど、できるはずもなかった。
その時、森の木陰から、一人の男が、音もなく、姿を現した。
アイリスは、咄嗟に、剣を抜いた。
だが、その男は、敵ではなかった。
彼は、アイリスの前に、静かに、ひざまずいた。
「聖女アイリス様。国王陛下からの、お言葉を、お伝えいたします」
それは、国王直属の隠密部隊「王家の
彼は事前に、
その夜。
王都の、固く閉ざされた通用門の一つが、軋む音を立てて、わずかに、開かれた。
そこから、一人の、恰幅のいい商人が、数人の護衛と共に、息を殺して、中へと、滑り込む。
彼らを迎えたのは、氷のような表情の、騎士団長アルトリウスだった。
彼は、国王からの密命を受け、このありえない作戦の、最終責任者として、不本意ながら、彼らを待っていたのだ。
アルトリウスは、商人の顔を一瞥すると、侮蔑と、困惑の入り混じった、複雑な表情で、吐き捨てた。
「…国王陛下が、お待ちかねだ。こちらへ」
歴史上、初めて、魔王が、人間の王都の、土を踏んだ。
それは、誰に知られることもない、静かな、しかし、世界の運命を根底から覆す、第一歩だった。
アイリスは、その、歴史的な瞬間を、少し離れた場所から、見守っていた。
彼女の脳内に、
『…やれやれ。第一段階は
彼の声は、すぐに、いつもの、怠惰なものに、戻っていた。
『ここからは、面倒な、政治交渉の始まりだ。…せいぜい、俺の「研究」の邪魔を、してくれるなよ』
アイリスは、深いため息をついた。
彼女の、長い長い一日は、まだ、始まったばかりだった。
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