第二章:魔法が使えない街で~ドイツでの試練~
ルフトハンザ航空の機内から見下ろすドイツの大地は、まるで『魔女の宅急便』のキキが初めて見た港町のように美しかった。整然と区画された緑の農地、古城の点在する丘陵地帯。そして、やがて見えてきたシュトゥットガルトの近代的な街並み。
四月の終わり。フランクフルト経由でシュトゥットガルト空港に降り立った私を迎えたのは、予想以上に暖かい春の陽射しだった。
空港から市内へ向かうタクシーの中で、私は街の景色に見入っていた。石造りの美しい建物、手入れの行き届いた公園、そして道路を走る数多くのメルセデス・ベンツとポルシェ。さすが自動車王国ドイツの心臓部だ。
「ファルケンベルク社ですね」
タクシー運転手が振り返って言った。流暢な英語だったが、ドイツ語訛りが心地よく響く。
「はい。初めてなんです」
「おお、それは素晴らしい! あの会社は我々ドイツ人の誇りですよ。特に今度の日本との共同プロジェクトは、街中の話題になっています」
そう言えば、このプロジェクトはドイツでも注目されているのだ。プレッシャーを感じると同時に、やりがいも感じる。
シュトゥットガルト郊外にあるファルケンベルク社の本社は、まるで未来の美術館のような建物だった。ガラスと鉄骨で構成されたミニマルで機能的な空間。私の心は躍った。ここでなら、最高の仕事ができる。
受付で自分の名前を告げると、若い女性が流暢な英語で対応してくれた。
「霧島様ですね。お待ちしておりました。こちらがあなたのオフィスキーとIDカードです」
渡されたIDカードには、私の写真と「Yamato Motors / Project Manager」の文字が印刷されている。新しい職場での新しいスタート。まるでキキが新しい街で宅急便を始めた時のような気分だった。
案内されたオフィスは、窓から美しい森が見える開放的な空間だった。机の上には最新のコンピューターとモニターが設置され、壁には世界地図とファルケンベルク社の歴史を物語る写真が飾られている。
「素晴らしい環境ね」
私は思わずつぶやいた。東京の高層ビルからの夜景も悪くはなかったが、この緑豊かな景色の方が心が安らぐ。
午後二時。プロジェクトチームとの初顔合わせミーティングが予定されていた。会議室に向かう途中、廊下で何人かの社員とすれ違ったが、皆親しみやすい笑顔で挨拶してくれる。
会議室に入ると、すでに数人のドイツ人エンジニアが座っていた。彼らは立ち上がって私を迎えてくれた。
「ヴィルコメン! ようこそファルケンベルク社へ」
プロジェクトマネージャーのミューラーが手を差し出した。五十代半ばの穏やかな男性で、豊富な経験を感じさせる落ち着いた雰囲気がある。
「こちらがエレクトリック・パワートレイン部門の主任、ハンス・ヴェーバー」
ヴェーバーは痩身で知的な印象の四十代男性。バッテリー技術の専門家だと自己紹介してくれた。
「こちらがソフトウェア開発チームリーダーのペトラ・ケーラー」
ケーラーは三十代前半の女性で、キリッとした表情が印象的だった。自動運転システムの開発を担当しているという。
そして最後に、ミューラーが少し困ったような表情を見せた。
「本来なら、このプロジェクトのドイツ側技術責任者であるクラウス・シューマッハも参加する予定だったのですが……」
「彼はどちらに?」
「実は、今日は娘さんの学校行事で……。明日お会いできると思います」
ドイツ人が学校行事を理由に重要な会議を欠席? 私は少し驚いたが、それがこの国の文化なのだろうと受け入れることにした。
ミーティング自体は非常にスムーズに進んだ。技術的な議論は論理的で明確だし、皆英語が堪能で意思疎通に問題はない。資料も完璧に整理されている。
午後五時。会議室の壁掛け時計がちょうど五時を指した時、信じられない光景が起こった。
チャイムが鳴った瞬間、それまで活発に議論していたエンジニアたちが、まるで申し合わせたように立ち上がり始めたのだ。
「では、今日はここまでにしましょう」
ミューラーが自然な調子で言った。
「えっ? でもまだ議題が残って……」
「明日続きをやりましょう。今日はFeierabend……終業時間です」
Feierabend。
後で調べたところ、この言葉は単なる「終業時間」以上の意味を持つドイツ語だった。仕事から解放される神聖な時間、家族や自分自身のために使う大切な時間という意味合いがある。
そして皆、本当に帰ってしまった。ただし、何人かのエンジニアは「明日の朝一で検討します」「効率よく進めましょう」と声をかけてくれた。どうやら、時間内に集中して仕事をすることで、残業なしでも成果を上げているようだ。
私は一人、会議室に残されていた。東京なら、これから本格的な議論が始まる時間なのに。
時計を見ると、まだ午後五時五分。私の体内時計は、まだまだ仕事モードだった。せっかくだから、明日のプレゼンテーション資料を準備しようと思い、自分のオフィスに戻った。
一人で黙々と資料作成に取り組んでいると、廊下で足音が聞こえた。まだ残っている人がいるのだろうか。
ドアをノックする音。
「はい、どうぞ」
入ってきたのは、これまで見たことのない男性だった。背が高く、がっしりとした体格。無造作に伸ばした金髪に、深い青い瞳。三十代半ばくらいだろうか。作業着のような服装で、手に工具箱を持っている。
「あなたが新しい日本人のプロジェクトマネージャーですか?」
その声は低く、少しぶっきらぼうだった。
「はい。霧島玲奈です。あなたは?」
「クラウス・シューマッハ。今日のミーティングに参加できなくて申し訳ありませんでした」
これが噂のシューマッハか。思ったより若く、そして……なぜかエンジニアというより職人のような雰囲気がある。
「いえいえ。お忙しい中、わざわざありがとうございます」
「忙しいというわけではありません。娘の演劇発表会があったので」
彼は躊躇なく言った。仕事よりも家族を優先することに、全く罪悪感を感じていない様子だった。
「そうでしたか。お疲れ様でした」
「ところで」
彼は私のデスクの周りを見回した。
「もうFeierabendの時間ですが、まだ仕事をされているんですね」
「ええ。明日のプレゼンテーションの準備を……」
彼の表情が微妙に曇った。
「日本人は本当によく働くと聞いていましたが、まさかここまでとは」
その口調には、明らかに批判的なニュアンスが含まれていた。
「良い仕事をするためには、時間の投資は惜しみません」
「そうですか……」
彼は首を横に振った。
「でも、良い仕事とは、決められた時間内に最高の結果を出すことだと思いますが。あなたの働き方は、非効率で人生をただ浪費しているだけに見えます」
カチンときた。初対面でいきなりこんなことを言われるなんて。
「あなたこそ、なぜそんなに家族を優先するのですか? 仕事への献身が足りないのでは?」
今度は彼の方が眉をひそめた。
「家族は私の人生の中心です。仕事は、その人生を豊かにするための手段に過ぎません。会社への献身? それは奴隷の発想ですね」
奴隷? 私は立ち上がった。
「私は自分の意志で仕事をしています。この仕事に情熱を持っているんです」
「情熱と中毒は違います。あなたは自分の人生を会社に売り渡している」
この男、何様のつもりだ! 初対面の人間に、ここまで失礼なことを言うなんて!
「申し訳ありませんが、私には私のやり方があります。明日からよろしくお願いします」
私は冷たく言った。彼は肩をすくめて、工具箱を持ち直した。
「こちらこそ。でも、ドイツにいる間は、ドイツのやり方も少し学んでみてください。人生は仕事だけではありませんから」
そう言い残して、彼は去っていった。
私は一人、オフィスに残された。窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。美しい風景だったが、心は全く穏やかではなかった。
このクラウス・シューマッハという男。技術的な能力は疑いないのだろうが、仕事に対する姿勢は私とは正反対だ。こんな人とプロジェクトを成功させることができるのだろうか。
デスクの上の資料に目を戻したが、集中できなかった。キキが新しい街で最初に困難に直面した時のような気持ちだった。魔法が急に使えなくなって、空を飛べなくなった時の心境。
でも、キキは最終的に困難を乗り越えた。
私だって負けない。
明日から本格的なプロジェクトが始まる。
この異文化の中で、私は自分のやり方を貫き通してみせる。
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