【日独お仕事恋愛短編小説】風のマイスター~ドイツで見つけた私の愛の設計図~(約34,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第一章:紅い翼で戦場を駆ける~東京での決意~
午前二時。東京本社ビルの三十階。フロアのほとんどの照明が落ちた中で、私のデスク周りだけが煌々と光を放っていた。
私の名前は霧島玲奈。三十六歳。
日本最大手の自動車メーカー「ヤマト自動車」のグローバル戦略部で、社内最年少記録を更新した女性部長を務めている。異例の抜擢だった。十二年間、自動車技術の開発に携わってきた経験と、持ち前の分析力が評価されての昇進だった。
モニターに映し出される無数のデータとグラフ。指先で弾き出すキーボードの乾いた音。この静かな戦場で、私は誰よりも戦果を上げてきた自信があった。
睡眠時間は平均四時間。食事はデスクで摂る栄養補助食品。恋人は三年前に別れた。それでよかった。私は仕事と結婚したのだ。
しかし、最近ふと思うことがある。
過去の失恋を乗り越えるために仕事に没頭し始めたのは事実だが、それがいつの間にか逃避の手段になってしまったのではないか、と。両親の冷え切った関係を見て育った私は、人間関係よりも数字の方が信頼できると学んだ。そう、数字は裏切らない。数字だけは。
机の隅に置かれた小さなフィギュアが、LED照明の光を反射している。宮崎駿監督の『紅の豚』に登場する真っ赤な飛行艇サボイアS.21だった。主人公ポルコ・ロッソのように、私も空を駆け抜ける一匹狼でありたいと思っていた。
深夜の役員会議室。重厚なマホガニーのテーブルを囲んで、取締役たちが厳粛な表情で座っている。
「霧島部長」
常務の田中が私を見つめた。彼の声には、いつもの慇懃無礼さとは違う、真剣な響きがあった。
「はい」
「君に、社運を賭けた大プロジェクトを任せたい」
胸が高鳴った。これまでの努力が、ようやく認められる時が来たのかもしれない。
「ドイツの名門スポーツカーメーカー、ファルケンベルク社との共同による次世代EVプラットフォーム開発。君にはこのプロジェクトの日本側総責任者として、シュトゥットガルトに赴任してもらう」
ファルケンベルク社。創業百年を超える老舗で、F1でも名を馳せた伝説的なメーカーだ。その技術力は世界最高峰と言われている。
「光栄です。必ずや成功させてみせます」
私は即答した。迷いなど微塵もなかった。
「このプロジェクトが成功すれば、君の取締役昇格も視野に入る。しかし失敗すれば……」
田中常務の言葉の続きは聞くまでもなかった。これは、私のキャリアの頂点になるか、奈落の底に突き落とされるかの分かれ道。
「承知いたしました」
会議室を出ると、東京の夜景が眼下に広がっていた。無数の光が瞬く大都市。まるで『紅の豚』でポルコが飛び回ったアドリア海の上空のようだった。
ドイツ。
合理主義と効率の国。
きっと私と馬が合うだろう。日本のウェットで非合理的な根回しや忖度の文化には、正直辟易していたからだ。
私のオフィスに戻ると、副部長の佐藤が心配そうな顔で私を見ていた。
「霧島さん、本当に大丈夫ですか? ドイツ人は日本人以上に仕事に厳しいと聞きますし……」
「問題ありません。むしろ、そういう環境の方が私には合っています」
しかし、佐藤の表情は晴れなかった。
「でも、ファルケンベルク社の担当者は、かなり気難しい人だという噂が……。シューマッハという名前でしたっけ」
「シューマッハ……」
その名前には聞き覚えがあった。ドイツの自動車業界では伝説的な一族だ。代々優秀なエンジニアを輩出し、特にエンジン技術においては「マイスター」の称号を持つ職人の家系として知られている。
「まあ、技術者なら話は通じるでしょう。データと論理で勝負すればいいんです」
私はそう言って、デスクの上のサボイアS.21のフィギュアを手に取った。赤い機体が手のひらの中で小さく輝いている。
「大丈夫。ポルコのように、一人でも戦い抜いてみせるわ」
三週間後。
私は成田空港の出発ゲートにいた。
手荷物には、いつものビジネス資料に加えて、小さな段ボール箱が一つ。中には宮崎駿監督の作品のDVDセットとフィギュアコレクションが入っている。
異国の地でも、私のささやかな楽しみを手放すつもりはなかった。これらの作品が教えてくれる「風の谷」のような美しい世界への憧れを、心の奥底に秘めながら。
飛行機が離陸し、雲海の上を飛んでいく。窓の外の景色を眺めながら、私は新しい戦場への期待に胸を躍らせていた。
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