第51話 非情なルールと起死回生の賭け
## 1. 合格と失格
『――合格だ、ハルト』
その静かな一言が、俺の脳内に染み渡る。それを合図にしたかのように、俺の全身を縛り付けていた鉛のような重圧がふっと消え、無限に広がっていた純白の空間が、パリン、とガラスのように音を立てて砕け散った。視界が、一瞬、まばゆい光の洪水に飲み込まれる。
気づけば、俺は再び、あの静謐なデジタルミュージアムの中央に立っていた。床の冷たさが、足元からじんわりと伝わってくる。どうやら、あの異次元のような空間から、無事に戻って来られたらしい。
だが、安堵したのも束の間、ふと我に返って周囲を見渡した俺は、信じられない光景に言葉を失った。
水琴さんと渡辺副室長が、まるで目に見えない魔法の力で拘束されたかのように、身動き一つ取れない状態で立ち尽くしている。二人とも意識はあり、俺の姿を認めると、その目には悔しさと警戒心が露わになった。なんだよ、これ…どういう状況だ?
その二人の前に、筑波AIがすぅっと音もなく姿を現す。その表情は、相変わらず穏やかだ。
『あなた方は、テストに失格した』
AIが氷のように冷徹な声で告げると、俺の目の前にも、二人が見ていたであろうテストの光景がホログラムで再生された。それは、俺が受けたテストと全く同じ、赤い「破壊スイッチ」が目の前に現れる場面。だが、二人の行動は、俺とは決定的に違っていた。
『世界の調和のため、脅威は排除する』
水琴さんは、一切の躊躇なくスイッチに手を伸ばそうとしていた。その瞳には、巫女としての使命感と、揺るぎない正義が宿っている。
『国家の管理のため、危険因子は除去せねばな』
渡辺副室長もまた、冷徹な官僚としての判断で、スイッチを押そうとしていた。私情を挟む余地など、微塵もない。
## 2. 非情なルールと非合理な抵抗
『彼らもまた、それぞれの正義を貫いただけのこと』
AIは、俺に語りかけるように、淡々と続けた。まるで、出来の悪い生徒を諭す教師のような口ぶりだ。
『だが、価値観が相容れないという理由で他者を破壊しようとするあなた方とは、私は対話しない』
そして、AIは二人に向き直り、静かに、しかしはっきりと宣告した。
『よって、あなた方を処理する』
「処理」という言葉が「殺害」を意味することを即座に理解し、水琴さんは「…くっ!」と悔しげに歯を食いしばり、渡辺副室長は「馬鹿な…!」と信じられない様子で呟いた。
「待ってくれ!」
俺は咄嗟にAIと二人の間に立ちはだかり、叫んだ。
「なぜ殺す必要がある! 彼らはもう抵抗できないじゃないか!」
『私なりのルールだ』
AIは静かに反論する。その声には、何の感情もこもっていない。
『昔の書物にもあるだろう? 他者を破壊しようとする者は、逆に破壊されるリスクを覚悟しているはずだ。問題あるまい』
俺は一瞬言葉に詰まった。理屈の上では、その通りだ。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
『ハルト、落ち着いて。彼の論理にはまだ介入の余地があるはずです!』
プリエスの声が、俺の焦りをわずかに押しとどめる。
「それでも、命を奪うのは間違ってる! 何か…何か、他の方法もあるはずだ!」
俺は、もはや理屈ではなく、感情のままに懇願した。
その俺の非合理な姿に、筑波AIは初めて、純粋な興味を示したようだった。その無機質な瞳が、面白そうに俺を観察している。
『面白い。実に面白い反応だ、ハルト。では、君のその非合理な感情に免じて、一つ譲歩しよう』
その言葉に、俺は一瞬、希望を見出した。だが、AIが続けた言葉は、さらに非情で、残酷なものだった。
『一人だけ、助命を許可する。さあ、選びなさい。君の未来の協力者となりうる巫女(水琴)か、君の過去の敵であった官僚(渡辺)か。どちらの命に、より価値がある?』
ふざけんなよ…。なんだよ、それ。
究極の選択。俺は、激しく葛藤した。呼吸が荒くなり、心臓が早鐘を打つ。どちらか一人と言われれば、感情的にも今後の関係で言っても、間違いなく水琴さんを選ぶ。それが合理的だ。だが、本当にそれで良いのか? 俺にとって都合の悪い人間なら、死んでも良いというのか? それは、彼らがスイッチを押そうとした論理と、何が違うんだ?
水琴さんは、俺の選択を待つかのように、静かに目をつぶった。渡辺副室長は、諦めたように、力なく天井を仰いだ。二人の命が、俺の言葉一つに委ねられている。
ダメだ。選べるわけがない。そんな選択、俺にはできない。
## 3. 起死回生の交渉
思考の袋小路で、俺は必死に活路を探した。AIのルール…AIの論理…。そうだ、あいつは「一人の合格者が一人の命を救う」というルールを提示した。ならば…。そうだ、あいつのルールを逆手に取るんだ!
『…ハルト?』
プリエスが俺の思考の急加速に気づき、声をかける。
「…分かった。選ぶよ」
俺は、覚悟を決めて顔を上げた。そして、AIの目を真っ直ぐに見つめ、俺自身の交渉を始めた。
「あんたのルールに乗ろう。俺は合格した。だから、俺には一人分の命を救う権利がある。そうだろ?」
『…その通りだ。で、どちらを救う?』
AIは、少し退屈そうに問い返す。
「いや、まだだ。俺の交渉はここからだ」
俺は、AIが提示したルールを逆手に取る、起死回生の策をぶつけた。
「俺が信頼する、別の三人に、もう一度テストを受けさせてほしい!」
『ほう?』
AIの目に、好奇の色がさらに濃くなる。
「もし、そのうち二人以上が合格すれば、俺の『一人分の命を救う権利』と合わせて、合計で三人分の命を救う権利が生まれる。そうすれば、ここにいる二人とも助けられるはずだ。違うか?」
俺の提案に、筑波AIは初めて、楽しそうに声を立てて笑った。
『…ククク、面白い! 実に面白い提案だ、ハルト。君は、私の論理を理解し、それを逆手に取って交渉しようというのか。人間とは、かくも面白い存在だったか!』
AIはひとしきり笑うと、その笑みをすっと消し、新たな提案を口にした。
『よかろう。その提案、呑んでやろう。ただし、こちらも条件を付けさせてもらう』
「なんだ?」
『テスト対象の三名は、それぞれ異なる勢力を代表する者でなければならない』
AIは、三つの勢力を象徴するアイコンを空間に表示した。
『君自身の「仲間」、巫女たちの「組織(伝統)」、そして政府の「国家(管理)」。この三つの勢力から、君が「信頼できる」と判断した者を、一人ずつ選び出せ。もちろん、合格が一人以下だった場合、どうなるかは、君も理解しているな?』
それは、あまりにも重い「推薦責任」だった。俺は、敵対する可能性のある勢力の中からさえも、信じるに値する人間を選び出さなければならない。俺の選択が、水琴さんと渡辺副室長の命を左右する。地球一個分どころじゃない、とんでもねえ重みが、ずしりと肩に乗っかったようだ。
だが、俺に迷いはなかった。これしか、道はないのだから。
「…分かった。その条件、受け入れよう」
俺がそう答えると、AIは満足そうに頷き、水琴さんたちを拘束していた見えない力が消え去った。二人は、糸が切れた人形のように、崩れるようにその場に膝をついた。
『二人の命は、新たなテストの結果が出るまで、一時的に保留とする。せいぜい、君が選んだ者たちが、私の期待に応えてくれることを祈るがいい』
筑波AIはそう言い残し、静かに闇の中へと消えていった。残されたのは、解放された二人の荒い息遣いと、俺の肩に重くのしかかる、世界の未来を賭けた選択の重みだけだった。
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