第7話 湿度MAXなのに、私の体内カラ砂漠?(腎陰虚編)

柚葉は夜の自室で、ノートパソコンに向かっていた。

締め切りが迫るレポートは、真っ白なページのまま点滅しているカーソルだけが元気だ。加湿器はフル稼働で、モニターには「湿度70%」の数字。窓ガラスにはうっすら結露までついているのに、喉はカラカラで、耳の奥では「キーン」と細い音が鳴り続ける。


「……湿度あるはずなのに、私の喉だけ砂漠ってマジ?」


マグカップの水をひと口。けれど潤った実感は来ない。胃が重くなるだけで、渇きは喉と胸の奥に残ったまま。腰はじんわり重く、足先はじわじわ冷たい。背中を伸ばすと、腰の奥でぴきっと鈍い痛みが走った。


「燃料切れの車で、高速走ってる感じ……。体、スカスカなのに、まだ走らされてる」


キーボードに置いた指先から力が逃げていく。まぶたが熱っぽくて、でも頭は冴え過ぎて眠気が来ない。

その瞬間、視界がぐにゃりと揺れ、部屋の輪郭が砂のように崩れ落ちていった。


――まただ。体内世界。


赤く乾いた荒野。地面はひび割れ、遠くの空には重たい雲が垂れ込めているのに、一滴も雨は落ちない。空気は湿っているはずなのに、肌に触れるとカサカサで、喉の内側だけがヒリヒリ焦げるみたいに乾いている。


中央に、青白い光をまとった人物が立っていた。長い髪は水のように揺れるのに、頬はこけ、目の下には影が落ちている。


「……私は“腎”。本来は水を貯え、全身へ潤いを送る源。だけど……水源が枯れかけている」


腎は苦しそうに腰を押さえ、浅く息を吐いた。

「耳に響く音も、腰の重さも、潤いが足りないせい……。内側で熱がくすぶり始めている」


「湿度70%って出てたのに? 外は潤ってても、中身は空っぽってこと……?」


返事の代わりに、耳障りな笑い声が風に混じって響いた。


「……くっくっく……いい具合に乾いてるな」


振り返ると、青黒い火がくすぶる小鬼が、ひょろ長い手足を揺らしながら近づいてくる。炭火の残りのような赤、油の切れた鉄板みたいな鈍い光。目はどろっと熱を帯び、口元はいやらしく歪んでいた。


「俺は“虚熱”。冷ます水が足りないから、余った熱がくすぶり続けるんだ。

ほてりも、耳鳴りも、腰のだるさも……ぜんぶ俺の仕業さ!」


小鬼は指を鳴らし、熱の波を送ってくる。途端に耳鳴りが「キイイィン」と尖り、こめかみの内側が熱で膨張するみたいに痛む。腰の奥もじわじわ火照って、脚の力が抜ける。


「やめて! それ以上近づかないで!」

思わず後ずさる柚葉の前に、砂を蹴って脾が駆け寄ってきた。顔は青白く、肩で息をしている。


「ごめんなさい……。潤いが足りないせいで、食べ物を力に変える余裕がないの。中に水がないから、全部空回りしてしまう」


腎が頷く。

「陰――体の水が減れば、余熱は勝手に膨らむ。だからこいつは強くなる」


白衣の裾を押さえながら肺も現れ、喉をさすった。

「乾いた熱は私にも堪える。声が絡んで、息が浅くなる」


肝は剣を引き抜くが、刃は乾いた砂で白く曇り、細かなひびが走っている。

「道が干上がっていて、巡らせようにも剣がもたない……!」


虚熱は肩をすくめ、鼻で笑った。

「お前がいくら水を飲もうが、加湿器をつけようが、俺は消えない! 足りないのは外の潤いじゃない……体の奥の“水の器”なんだよ!」


「それ、私にどうしろっての……!」


柚葉が唇を噛むと、虚熱は耳元へぴたりと張り付き、囁くように熱を吹きかけた。

「寝ても休んでも、ぬるい熱気でまとわりついてやる。夜中に目を覚まさせ、汗ばませ、そしてまた乾かす。――さあ、もっと耳鳴りを聴かせろ」


「っ……!」

こめかみが脈打ち、腰の奥がぐらりと抜ける。膝が砂に沈み込んだ。


腎が一歩、柚葉の前に出て、静かに言った。

「まだ終わりじゃない。内側の潤いを呼び戻せれば、くすぶる火は鎮まる」


虚熱は舌打ちした。

「やれるもんならやってみな。俺は残り火。風がやめても、雨が降らなくても、勝手にくすぶり続ける」


熱の波がもう一段強くなる。視界が白く滲み、耳鳴りは金属音みたいに鋭く跳ねた。

そこへ――


淡い赤の光が、ぽ、と砂の上に灯った。小さな小さな宝石みたいな粒が空から降り、腎の掌にすっと収まる。


「……クコの実?」

柚葉の声に、腎が微笑んだ。

「そう。腎陰を養い、目と耳に潤いを送る。深いところから、涼しい水をしみ込ませる」


赤い光が耳の奥へふわりと入る。高音の針が一本ずつ抜けるみたいに、耳鳴りの「キーン」がわずかに丸くなった。


続けて、白い丸粒が静かに舞い降りる。指でつまむと、ほのかに温かい。

「ハスの実だ」脾が息を整えながら言う。「私と腎を一緒に養ってくれる。焦る心も落ち着けて、芯に静けさを戻すの」


胸のざわめきが半歩、引く。呼吸がゆっくり下りていく。


黒い艶のある種子が、さらさらと砂地を滑ってきた。

「黒ごま」肝が刃のひびを撫でながらつぶやく。「肝と腎を潤し、巡らせる。干上がった道に油を差す――そんな働きだ」


ひび割れていた剣身に艶が戻り、抜き音が低く澄んだ。


最後に、白い粉雪のような粒がふわり、ふわりと落ちてくる。指先に触れると、とろんとやさしい粘り。

肺が深く息を吸って頷いた。

「山薬(やまいも)。肺・脾・腎をまとめて養う。身体の底から“しっとり”を作る」


四つの食材が輪になって光を放つ。冷たい井戸水が地底からじゅわっと湧くように、荒野のひび割れへ透明な水がしみ渡っていく。砂が結び、道がつながり、空気から棘が抜ける。


虚熱が足を取られ、苛立ったように叫んだ。

「ちっ……まだ火種は消えねぇ……! だが水が尽きれば、また必ず戻ってくるからな!」


「戻さないよ」

柚葉が立ち上がり、虚熱と向き合う。耳の奥で、キーンがさらに一段低くなった。

「外の湿度じゃなくて、中身の“水の器”をちゃんと満たす。私、やるから」


虚熱は鼻で笑い、くるりと背を向けた。

「…覚えておけ。夜更かし、焦り、カフェイン、空っぽの夜食――それが俺のご馳走だ」

残り火のような赤を地面に滲ませ、影は薄れていく。


腎が肩の力を抜き、腰を押さえる手をそっと下ろした。

「……水源が動き出した。これで全身へ、少しずつでも潤いを送れる」


脾は頬に色を取り戻し、胸を張る。「私も働ける。静かに、でも確かに」

肝は剣を鞘へ納め、目を細めた。「巡りが戻れば、剣は暴れずに済む」

肺は喉を撫で、澄んだ声で言う。「呼吸が深くなった。吐く息が、やっと柔らかい」


柚葉は耳を澄ませた。

「……ほんとだ。あの金属音みたいなキーンが、遠くにいった。腰も、さっきより重くない」


腎が柚葉を見つめる。目の底の色は、さっきよりずっと静かだ。

「内側の水は、夜を削れば減る。焦りは火を煽る。――休むこと、潤すこと、そして少しの黒。忘れないで」


「黒?」

脾が笑った。「黒ごまの黒。腎を養う“黒”は、台所にも置ける色よ」


ふっと景色がほどけ、柚葉は自室の机に戻っていた。

加湿器の湯気が白く揺れている。パソコンのカーソルが、また控えめに点滅していた。


机の端に、小さなビン。友達にもらった「黒ごまきな粉」。食器棚には先日買ったドライのクコの実。引き出しの奥から、たまたま残っていたインスタントじゃない個包装の山芋スナックが一枚、出てきた。


「……偶然って便利」


電子レンジで温めた牛乳に黒ごまきな粉をさらり。カップの縁にクコの実を二粒落とす。ひと口。香ばしさが舌に残り、喉の奥にしっとりと膜が張るように広がった。

腰に手を当てて深呼吸。――息が、さっきよりも静かに長く出ていく。


耳鳴りは完全に消えたわけじゃない。けれど、遠くの壁時計みたいに小さくなった。

柚葉は笑って、キーボードに手を戻す。


「よし。まず“睡眠と油断の関係”から……いや、“潤いの倫理学”でもいいな」


指先に少し力が戻る。画面の白に黒い文字が並び始める。

窓の外では夜の湿った風が吹いている。けれど胸の内側は、さっきよりも静かで、確かに潤っていた。

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